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目に見えない御守護

皆さんはこんな経験がありますか?
朝、目が覚めて、起き上がろうとしたらぎっくり腰のような症状になってて激痛、起き上がることができない、て。
「え!??寝てるまにぎっくり腰ぃ??
 うそぉ〜〜、、、」
靴下が履けない、もちろん足袋も。

最近、そんな苦い経験があったんです、私。

その日は、大教会祭典日という大切な日。
「自分なりに顧みて、大教会長さんには添えてる。不足はない。持ち場立場で頑張ってる。うん。
 じゃぁこの腰痛は何??」
と自問自答を一瞬する。
「まだ足りないんだよ」と親神様がそう仰るなら仕方ないか。と、5秒で思案を棚上げし、
「とにかく大教会へ参ろうぞ」と、身支度をば。
湿布を腰にペタペタと貼り付けて、コルセットをギュンギュンに固定して、ロキソニンを服用。

過去、偏頭痛で1回、腰痛で1回、大教会の祭典をお休みするという辛い経験があって、「今回もかぁ、、」とくじけそうになるも、行くと決めたから、いざ、出陣!

おつとめ役割は、激痛に耐えながら、変なあぶら汗を滲ませつつ、精一杯勤め切った。
ありがたい!
結界内にておてふりの地歌を唱和。
足が痺れてきた。
こういった腰痛の場合、あぐらをかくのは余計に激痛が走るので、正座のまま、上体を少しずつ動かしてなんとか足の痺れを癒す。
が、痺れる、、、。
一度中座しようと立ち上がろうとするも、腰周辺が凝り固まったような感覚で、立とうにも立てない。
やむなく、四つん這いで回廊に退出し、少しずつ、少しずつ、上体を起こしつつ、、、、立てない。。。
感覚では10分くらいかけてやっと立ち上がれたような、5分くらいかけて背筋を伸ばすことができたような、ていう感じ。全く情けない有り様。

再び結界内に身を置き、おつとめを拝し、痺れと闘いながらも講話まで拝聴できた。
あとは、御礼の参拝だ。
ウチの大教会は、教祖殿と祖霊殿が別棟にある。なので、親神様を参拝のあとは、大教会長様を先頭に奉仕者全員がそれぞれの拝殿へと移動しなければならない。

困った。またまた立ち上がれない。
またまた這って回廊に出る。ようやく立つことができて上体も真っ直ぐに伸ばすことができた頃、祖霊殿の参拝が終わっていた。
撤饌は失礼して、そのまま自室へと戻る。

自分自身の情けなさに気は沈み、それでも、欠礼する事なく祭典を勤められた嬉しさもありつつ、、、複雑な思いで自教会へと戻ったのでした。
情けないへっぴり腰を誰にも見られなかったのが、唯一の慰めとなった。

翌朝、やはり腰の痛みはまだまだある。
と、LINEがきた。
仲の良い、後輩教会長さんから。
曰く、「先輩、昨日はなんか元気なかったようだけど。こんど○○○(彼の上級教会)に来てください。元気になれますから。」と。
なので私は、「元気はあるよ。やる気もあるよ。ただ、腰痛がひどくて、昨日はおとなしくしてたんよ。」
そして、「年祭活動、たまには、目に見えた御守護や成果が、ちょっとだけでも欲しいところやね、今はそんな感覚。」と、何気なく、日頃の心境も重ねていまの気持ちを綴った。
すると、カウンターパンチ的な返信がきた。

「目に見えない御守護を喜べないと
  見える御守護はいただけません。
 先人の言葉です。」

と。
、、、、。何も言い返せない、、。
後輩に教えられました。
そして、浅はかな自分の思案を心の底から恥じました。

子を困らせよう、難渋させよう、そんな親はいない。世界一列人間の元の親・実の親である親神様の思し召しも、ひたすらに親心いっぱいのはずだ。
そして、どこまでも、どこまでも、いつまでも、目に見えない末代の守護を下さる。

このところ腰の調子が良い日がずっと続いていた。ついつい目に見えるカタチでの御守護をいただきたいものだ、などと安易に思案してしまっていた私自身に、親神様はイエローカードを下さったんだと思うことにした。レッドカードは、かりものの身体をお返しする時だ。

「目に見えない御守護を喜べないと
  見える御守護はいただけません」

よふぼくとなり、教会長となり、ややもすると傲慢な信仰者に陥りがちな私へのメッセージなんだと思うと、つくづくありがたいなぁと前向きになることができた、そんなこのたびのちょっとした出来事だった。

同じ道を通る友はありがたい
と思うと同時に、
真剣に道を通った先人の言葉は重くて深い、
と痛感した。

今週は反省文です、、、、。
また来週👋




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