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「理と情」今様なる思案に行きついた!

【今様】いまよう

1.「今様うた」の略。平安時代に新しく出来た、七五調四句の謡物。和讃(わさん)から起こり、白拍子(しらびょうし)や遊女が歌い、宮中の宴会・節会(せちえ)にも歌われるようになった。
2.当世ふう。今のはやり。今風。
 「―に言えば」

私たちは「今、現在」を生きている。
そして、身の回りや世界に起こる出来事を五感で感じ、自分自身の思案のフィルターにかけて、咀嚼し、今を生きる糧として身につける。

信仰の世界を生きる者は、教理と教義に自らの思案を添わせて身に行う。
それは、信仰の基本だ。
私は天理教の教理に添って今を生きている。
天理教の教理は、教祖である中山みき様によってお教えいただいた言葉、書き物、言動が元となっている、親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと)の御守護の世界だ。

今を生きる私(たち)は、天理教の教えを求めれば求めるほど、思案の「壁」にぶつかる時がある。
私はこの数年来、「理と情」の思案が壁となって眼前に立ちはだかっている。

☝️この記事では、「理と情」の思案について“肌感覚”だと記した。正確には、記した、のではなく、思案から逃げた、と言ったほうが正しいかも知れない。自分の中で深く理解できてなかったし、思案の交通整理ができていなかったから、逃げた。

そして、尊敬するBe+兄さんの最近の記事において、教祖中山みき様の長男、中山秀司様のご事歴が取り上げられ、「理と情」のはざまに身を置き、もがき、天理教公認に活路を見出す道すがらを読み、感動し心が揺さぶられた。命を削り、血の滲むような“はざま”だったことに改めて気づき、そして-ひながたの同行者-という表現が身に染みた。

それでもなお、私の思案の中には依然として「理と情」の壁が立ちはだかっているが、少しずつ凌駕できそうな感覚も醸造されつつある。これはひとえに、リアルに、あるいはSNSで繋がった方々の思案の側面に触れることができたおかげである。

そんな折、2024年1月25日に養徳社から良書が出版された。
教会本部本部員永尾教昭先生の著書「世界へのまなざし」である。これは天理教教会本部から公式発行されている月刊誌「みちのとも」にて、2017年4月から2023年4月までの6年間、毎月掲載された記事を1冊の本にまとめ上梓されたものだ。

2023年2月号「持続可能な組織」の記事で、“一教会一事業”の発想に、いろんな意味で衝撃と激しい共感を覚え、永尾先生のファンになった。そのことは以下の記事でも触れた。

天理教公刊誌に、なんの躊躇もなく(いや、あったかも知れない)ものされた☝️この記事は、何度読んでも深く頷けるし、スカッとした。

さて、最近この著書を手に取った。
「まえがき」にて永尾先生曰く、

…各項目、いずれも筆者の個人的見解であることは間違いないが、繰り返すようだが、教会本部から言わば公式に全教会に配布されている『みちのとも』誌上で、どこまでそれが許されるのか。しかし、そういうことに一つ一つ逡巡していたら、逆に何も書けなくなってしまう。当たり障りのないことばかりを書けば、無味乾燥な文章になり、書くこと自体に意味があるのかということになる。

本書 まえがき 2〜3頁

と、まず赤裸々に執筆した心境を述べつつも、

結論として、むしろ、これが一つの契機となり、教内で批判されあるいは賛同されて、広く今日的な問題について検討されていけばいいのではないかとの思いで書いたつもりである。

同 3頁 

このように、自らの一つひとつの記事が、旧態然とした体制を堅持しようとする(ような側面もある)教会本部の現体制に一石を投じる覚悟を著された。
しかし、本書は、決して教会本部に対する批判本ではない。
生命倫理、積極的安楽死、出生前診断の結果による堕胎、同性婚、夫婦別姓、新型コロナウィルス感染症、ロシアのウクライナ侵攻などなど、“今日的問題”×信仰的思案を読みやすく、短編オムニバス的にまとめ上げられた書籍である。そして、永尾先生は読者(あるいは今を生きる私たち)に

毎日のように未知の問題が津波となって押し寄せている現代社会にあって、それらに対する信仰者の姿勢や、信仰的に問題の解決を考えることが、結果的に道の教えの根を掘ることにもなるのではないかと思う。

同 4頁

と期待を寄せられている。

さて、本書を手に取り改めて目次に目を通した。68記事のタイトルが5つの章に分類されている。オムニバス本だから、どの記事から読んでもいいのだ。
「何を読もうか」と記事のタイトルを目で追い、そして、「おおっ!」と目に止まったタイトル。
それは、59番目の記事『理と情のはざまで』だった。
過去に読んでいるはずなのに、初見のような気持ちになって読んだ。この記事は2019年3月号の記事だ。つまり、2019年3月当時の私は、「理と情」の思案の壁にまだぶち当たっていなかったので、たぶん、初見のような気持ちになったんだと思う。

ルール違反は承知の上で、68本ある記事の中から1本だけ記載させていただく。

理と情のはざまで

昨年十月末のハロウィーンで、東京・渋谷で仮装をした若者たちが暴走し、大騒ぎになった。筆者はその数日後の十一月初め、メキシコにいた。十一月一日は、メキシコでは「死者の日」であり、大事な祭日である。街中、至る所に骸骨の人形やドクロのオブジェが飾られていた。十一月三日に訪れた、ある国立の音楽学校では、ロビーの一角が花で飾られ、遺影が数枚並べられていた。聞けば、二日前の「死者の日」の儀式の飾りつけが、まだ撤去されていないという。
『ケルト再生の思想』(鶴岡真弓著ちくま新書)によると「死者の日」は、ヨーロッパの先住民族・ケルト族のサウィンという祭りが起源らしい。ケルト族は、十一月一日が暦の始まりで、その日に死者を供養した。それがカトリックに取り入れられ、今日残っている。だから、その日は墓参りをする人も多い。その「死者の日」の前夜に、お化けを模したカボチャのランタンで亡き人の霊を迎える。その行事がハロウィーンとなった。日本の盆と同じと言っていいだろう。
現在フランスやイタリアなどの国々では十一月一日は万聖節(亡き聖人を悼む日)で、二日を「死者の日」(万霊節)としている。先に述べたメキシコの学校の「死者の日」の儀式跡は、ささやかな一隅だったが荘厳な雰囲気で、日本のハロウィーンの渋谷の喧騒とは似ても似つかない空気が漂っていた。

このように、キリスト教のさまざまな祭典の中には、キリスト教独自のものもあるが、古来、風習として残っているものを取り入れたものも多い。よく知られているところでは、クリスマスがある。これは冬至の祭りをアレンジしたものと言われている。北半球に住む人びとにとって冬至は「一陽来復」、つまり太陽がまた近づいてくるうれしい日だ。その祭りをイエスの誕生の祭りに重ねたのだ。
しかし疑問も湧いてくる。古来の風習とはいえ「死者の日」は、いわば異教徒の祭りである。それをキリスト教の祭日にするということは、いわば人間の情によって理を曲げたと言えなくもない。
ご承知のように、カトリックといえば、マリア信仰がある。フランスのあちこちにある「ノートルダム寺院」の「ノートルダム」とは、直訳で「私たちの貴婦人」、つまり聖母マリアのことである。しかし聖書には、マリアを拝めといったことは書かれていない。だから、聖書の記述を厳格に守ろうとするプロテスタントはマリア信仰を認めていない。これも理ではなく、情によって始まったものと言えなくもない。イエスの母を慕う人びとの素朴な感情が、マリア信仰となっていったのだろう。それはそれで良いのではないかと筆者は思う。

理と情、これはどの宗教にも存在する課題である。情をどれだけ抑えて理に従うかが重要であることは当然だろう。『稿本天理教教祖伝』を読めば、あくまでも理を求める神と、法律や旧弊に縛られざるを得ない人間の、息詰まる理と情のせめぎ合いが随所に見られる。
ただ、親神は、理に徹することを求めて冷酷非情なように思えるが、決してそうではない。
筆者は、教外者のある外国人から「天理教には教祖は存命、人間は生まれ替わるという教理があるのに、なぜ墓参りをするのか?」と問われたことがある。確かに、教理に厳格に照らせば、墓に参るのはそれに矛盾するという考え方をする人もあるだろう。しかし、それは自然な情の発露だろう。
明治二十年、教祖が現身をかくされた後の『おさしづ』に、「この身体はちょうど身につけてある衣服のようなもの、(中略)捨てた衣服には何の理もないのだから、どこへ捨ててもよい」(中山正善者『ひとことはなしその二』から 一部、筆者が文字遣いを変更。公刊の『おさしづ』には不掲載)とあった。しかし初代真柱は後年、教祖の墓地を造られ、それに際していちいち、『おさしづ』を伺われている。そして親神は、それぞれの伺いに対して速やかにお許しになっていることを考えても、教祖や私たちの先祖の墓に詣でることは、何も間違ったことではないと思う。

「一身一家の都合を捨てて」とよく言う。それは実に立派なことだ。しかし、筆者は今日まで、自分自身を含めて、一身一家の都合を捨てて理に徹しきっている人を知らない。第一、家族を大事にすることも、教理の重要なかどめだ。たとえば、所属教会の大事な行事と子供の入院が重なった。病院に飛んでいってやりたいが、大切な御用がある。そこで悩む。どちらを取るべきか。その答えは、結局は一人ひとりに任されている。どちらを取るかということよりも、その「悩むこと」に意味があると考える。
筆者は思う。「一分のすきもなく、いささかの遺掃もない」(『天理教教典」第四章「天理王命」)理の世界。そこに、でこぼこの人間の情をはめ込もうとする。当然、隙間ができる。その隙間が、いわば心の中の潤いであり、それは決して悪いものではない。いやむしろ、この潤いがあるから、人間は生きていけるのだろう。そして、その四角四面の理という名の器に、いびつな情をきちっとはめ込もうとする営みを、私たちは信仰と呼ぶのだと思う。
        (2019年3月号)

本書 256〜260頁

この記事をお読みになって、なんの反応も感ぜられない方。それは、大きな波風もない、平穏な素敵な信仰生活を送られているんだと祝福申し上げたい。
私は、教会長として通ってきたこの11年間は、荒波と葛藤と逡巡のでこぼこ道中。そして、とある本部員さん宅にて柱に掲げられた親書「理と情」を見て、でこぼこ道中の原因はコレだったんだと、「はっ!」となったあの日以来、「理と情の壁」にぶち当たり、いろんな角度から思案を繰り返すようになった。
そして、note記事にしたり、読んだり、また様々な方々の思案に触れて自分自身の信仰的思案の血肉としてきた。

しかし、上記の永尾先生の記事を読み、ついに壁を乗り越えた感覚になった。
そして、この感覚が冷めやらない内に、詰所の自室でこの記事を書いているのである。

この記事にて、まず確認できた事柄。
それは、

親神は、理に徹することを求めて冷酷非情なように思えるが、決してそうではない。

ということ。

・お墓参りは、教理に厳格に照らせば矛盾点があるも、自然な情の発露。
・教祖(おやさま)の墓地を造営される、初代真柱様の情による行動に、いちいち理を伺われ、且つ理のお許しがあったこと。
・理と情のはざまで悩む。二者のうちどちらを選択すべきか、その判断は一人ひとりに任されるが、悩むことに意味がある。

そして、この記事のまとめの部分に、「理と情の壁」を乗り越える思案を見出した。

筆者は思う。「一分のすきもなく、いささかの遺掃もない」(『天理教教典」第四章「天理王命」)理の世界。そこに、でこぼこの人間の情をはめ込もうとする。当然、隙間ができる。その隙間が、いわば心の中の潤いであり、それは決して悪いものではない。いやむしろ、この潤いがあるから、人間は生きていけるのだろう。そして、その四角四面の理という名の器に、いびつな情をきちっとはめ込もうとする営みを、私たちは信仰と呼ぶのだと思う。

永尾先生は仰る。
理の世界に、でこぼこの人間の情をはめ込もうとする営みを信仰と呼ぶ。

私は、この記事の文末に涙が出そうになった。感動と感激の涙だ。
そのままの思案でいいのさ、ちゃーんと信仰の道を歩んでるじゃないか、との叱咤激励にも似た励ましの言葉となって私の胸に響いた。
そして、中山秀司先生も、初代真柱様も、間違いなく教祖おやさまの御教え通りに信仰の道を進まれたのだと確信した。
自分自身の、理と情の壁なんて、勝手に自分が作った些細な障壁だった。おやさまの周辺の人々がちゃんと、理と情のはざまの細道を通って遺してくださってるやん。

よふぼくの端くれとして、思案の浅はかな教会長として、今を生きる信仰者として、瑞々しいまでの“今様なる思案”を営み続けたい。
「間違ってなかった」
「これでいいんだ」
「これからも壁を乗り越えて進もう」
諦めでもなく、妥協でもなく、むしろ希望に満ちた心境だ。
それが今様なる信仰的思案の証しなのだ。

この書籍に出会えたことに感謝です。
皆さんも是非ともこの書籍を手に取って、気になったタイトルから読み進めてほしいと思います。
天理本通りの「養徳社書店」にてお買い求めいただけます。
もしくは通販も。下👇にリンクを貼っておきますね🔗

3月27日は教会本部にて春季祖霊祭が勤められた。久しぶりの参拝機会を得た。
午前9時ごろに神苑に到着したとき、ちょうどつとめ人衆の先生方がおやさまとみたま様の参拝を終え、西回廊を進んできた。西回廊と西礼拝場の接続部分は窓枠が切れていて、中庭から先生方のお顔を見上げることができる。
と、大亮様からそれほど距離をおかずに永尾教昭先生が歩まれていた。
私は思わず心の中で、「永尾先生、『世界へのまなざし』を世に出していただいてありがとうございましたっ」と叫んでいた。
いつの日か、直接に、感謝と感激を伝えたいなと思っている。

以上、記事投稿予定の日曜日ではありませんが、緊急特別配信として投稿いたしました。
それではこのあたりで記事を終えたいと思います。
最後までお付き合いいただきありがと、、、、
じゃないっ!!

公刊されている「おさしづ」に載っていない“幻のおさしづ”があったなんて‼️

明治二十年、教祖が現身をかくされた後の『おさしづ』に、「この身体はちょうど身につけてある衣服のようなもの、(中略)捨てた衣服には何の理もないのだから、どこへ捨ててもよい」(中山正善者『ひとことはなしその二』から 一部、筆者が文字遣いを変更。公刊の『おさしづ』には不掲載)

うむ、、、、こ、これはどのように取り扱ったらいいのか、私にはハイレベルすぎて手がつけられませんっ。
なぜカットされたのか?
どなたかお教えくださいマセ。
◯澤◯造クンなら何らかのヒントを提供してくれそうだね。メールとかラインじゃなくて、リアルな機会を待つことにしつつ、緊急特別配信記事を終えたいと思います。

また日曜日に👋

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