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信仰的アイデンティティ

アイデンティティ
identity


👉自分が自分であること、さらにはそうした自分が、他者や社会から認められているという感覚のこと。
日本語では「自我同一性」と呼ばれたり、「存在証明」と訳す人もいます。
また、「さまざまな個性をもつ他者・社会との関わりにおける自分らしさ」とも。
英語圏においては「自分の身元・身分の証明」としても用いられます。
英語の「identity」から生まれた外来語。

Google先生より

アイデンティティは、なんとなく「自分とは」「自分らしさ」「自分の証明」といったニュアンスで、普段、私はこの言葉を使います。

“自分らしさ”や“自分の証明”は、自身の認識するところに拠る部分が大きいとは思いますが、一方では、定義にもあるように、他者から認められるという部分もあり、「自我が強い人」或いは「存在の薄い人」というような、その人の評価に繋がったりすることもあるわけで、自分自身の自我の認識と、他者から見た自分自身の評価は必ずしも一致しない溝があるという現実もあり、人はその“溝”に一喜一憂したりもするようです。

私は、親神様の教えを信奉するイチ信仰者として、時には会ったばかりの人に天理教のことを聞かれたり、こちらから信仰のことについてお伝えする場面において、やはり、自分自身の信仰態度に気を遣います。なるべく“溝”に陥らないように、、。

自分ではこう思ってても、人には意図する事柄が100%伝わってないな、と葛藤することも時にはあり、そんな時、しっかりと心に根を張っておきたいのが「信仰的アイデンティティ」なんです。つまり、“私はこの事柄が所以で天理教を信仰し続けられる”、という、いわば信仰信念とでも言うべき要素、これをこの記事で「信仰的アイデンティティ」と題しました。

🟩私はなぜ天理教の信者なのか

それは、私の4代前のひいひいおじいちゃん(高祖父)の代に遡ります。

当時高祖父は、豪農といわれる田地持ちで何不自由のない暮らしぶりでした。
ちょうどその頃、高祖父の弟が既に分家していましたが、散財酷く、身持ち悪く、程なくして分家の際に分け与えられた財産が果てました。そこで、本家である高祖父宅に金の無心に来る。最初の頃は、情の上から高祖父は、分家した弟のために助け舟を出していましたが、一向に素行が改まらない。
ついには本家の財産をも食い潰してしまいかねない、という状況になりました。
明治23年ごろの話です。

さて、ある時、高知県から四国山脈を超えて、既に天理教を信仰していた医師が愛媛県にやってきて、逗留先で往診を行なっていました。時にこの医師は、医師であるにも関わらず、親神天理王命を信ずれば、身は健やか、問題は治る、病気も治る、と天理教を宣伝している。
「そんな珍しい神様なら、話しを聞かしてもらいたい」
「ほう、さすれば、高知から布教師を使わそう」というやりとりがあったのか、なかったのか、いよいよ天理教の布教師がやってきた。
18才の青年でした。

当時30才そこそこの高祖父は、この青年の話をじっくりと聞き、日ならずして親神様の御守護を聞き分けた。そして、悟った。

「分家の散財のために、いづれ無くすであろう我が財産。どうせ無くする財産なら、人だすけのために果たそう」と。
高祖父母は、親神様のお話しに納得し、行動に移しました。
田地田畑、一切を御奉公に捧げ、おたすけの道に突き進みました。
そして5年後の明治28年に、教会を設立しました。
“分家が立ち行かない”という事情の中、親神様の御教えを聞き分け、その御守護に浴し、裸一貫で歩み抜いたたすけの道の先には、たくさんの布教師たるおたすけ人が育ち、“理の分家”とも言うべき部属教会が10数ヶ所誕生した。
(⚠️ふむ、“理の分家”、、、あまりイイ表現ではないなぁ、、まぁけど、「部内っ」と1単語で呼び捨てにすることのほうがアレなんで、、。せめて「ご部内」て言いなよ、ていいたくなる。あ、これ主観ね🙏)

高祖父母は、実の分家が立ち行かず、事情に明け暮れ右往左往する中、親神様の御教えに出会い、たくさんの理の分家を頂かれました。

🟩そもそもの分家問題は?

高祖父母の信仰は、教会長という立場と共に、曽祖父母、祖父母、父母、私たち夫婦へと引き継がれました。

では、分家問題はどうなったか?
これが興味深い道々でして。
ちょいと聞いてくださいな。そして、皆様の悟り方を是非とも聞かせてくださいませ。

前述の通り、本家が財産一切を納消してたすけ一条の道を進んだので、当然分家の弟は立ち行かなくなり、その消息は記録には残っていません。どうなったんだろう?今では知る術もありません。

高祖父母は、そのような入信経緯からおそらく分家を見切ったんでしょうね。そして高祖父母の代では新たな分家は立てませんでした。

🟣なので、厳密には“分家の事情”はおさまってないのかもしれません。

次の曾祖父母の代。曽祖父には男兄弟がいましたが、夭折、養子などで分家を名乗る男子は不在となりました。
次の祖父母の代。やはり男兄弟がいましたが、祖父以外は全員戦死しました。つまり、分家はナシです。次の父母の代。父には兄がいましたが、夭折。そして男子は父のみとなり、これまた分家はナシです。

しかし、父母には男3人女1人の子宝に恵まれました。つまり、私の兄弟ね。
そして、父の次男(つまり、私の弟)が、結婚して家庭を持ちマイホームを建てた。父は、弟の新しい家の床間に神実様を立派に祀りました。
父は言いました。
「やっと分家ができた。」と。
(この場合の“分家”は、本来の分家の定義ではなくて、いわゆる“理の分家”ですが、言葉の表現にツッコミはナシよーー😅)
この出来事が、指折り数えて、高祖父母が、分家の事情からこの道の信仰に入って以来、ちょうど100年目❗️の慶事でした。
「1世紀かぁ。親神様の御守護は、こんなにも気の長い長い時間の、大きな大きなお導きなのか」と、父は、新築の分家の建物を見上げながら、しみじみと言いました。

『この道を通れば間違いない』

との信仰信念が、私自身の心の奥底に、ドスンと根付いた瞬間でした。

これが私の信仰的アイデンティティとなりました。

ちなみに高祖父母と共にこの道に入信した家が他に2軒あり、今も私のお預かりする教会の役員さんとして、その2軒とも信仰が受け継がれ、今現在にまで家が続き、それぞれの分家も立ち栄えています。

🟩いんねん

するってぇ〜と、なにかい?お宅のいんねんてぇやつは、「分家問題なのかぃ?」
そうかも知れません、しかし、そうではない気もするんですよね。
その事は、拙記事「明るい『いんねん』私考」に書きました。

本教的に立場の高いセンセイが、「いやぁ〜ウチはいんねんが悪いんだよねぇ〜、ワッハッハ」て高笑いする姿を、私は毛嫌いしてしまいます。その裏っ側に「せやけど、ほれ、こんなに偉いセンセイになったわぃ」的な、哀れな末期症状的栄達感に浸る老耄たちのために、いんねんの考え方が歪められたような思いがあるからです。
いんねん考を嗤い噺にすることなかれッ!

ですので、私は、高祖父母の代の分家問題はいんねんではない、別の視点から眺めて、その他にも起こった節目をしっかりと掴むことが大切じゃないかと思っています。
そして、ややもすると安易に自分のいんねんと思い込んでしまいがちなご先祖さま方の道すがらの中にある一つひとつの節目を、親神様の御守りで良きようにお導きくださるための軌道修正であり、転換点だと悟りとるようにしています。

たかが数代の家系によって、自分の人生を縛り付けるのはあまりにも話しが小さい。
今を生きる私たちは、今をしっかり楽しめば良いと思います。ただし、自分だけが楽しめばそれで良い、というのは身勝手ですね。
自分自身の信仰的アイデンティティによって、少なくとも親兄弟を大切に思う。
更には、関わり合う人たちを大切に思う。ひいては、“一列兄弟”と御教えくださる世界中の人々を大切に思う。

宗旨宗派、神道仏教、様々な宗教がありますが、自分の信ずる教えは何か?
なぜ信ずるのか?
自分の言動は信仰に根ざしているか?
自分らしく生きる糧は?

私たち天理王命を信奉するお互い様は、背中で信仰的アイデンティティを見せる言動を心がけたいと、改めて自分に言い聞かせるのです。


今週もお付き合いくださり大変ありがとうございました🙇‍♂️

また来週👋

派生的オマケ
「家」の事情について考える時、「本家と分家」という考え方がベースにあるが故に、どうしても古びた価値観だと思われがちなのですが、「家」の事情には多くの場合、「墓」の問題も付随してくるわけで、なおさら古びた考え方だと伝わってしうことも多々あります。
しかし実感として、「家と墓」についての事情、もつれ、諸問題は今の時代に増えてきていると思います。
そのことについてはこちらの拙記事に書いていますので、もしよろしければ一度お読みくださいマセ🙇‍♂️

核家族、お隣さんが何者なのか全く知らないし興味もない、そんな時代に生きているからこそ、なおさら大切な思案の観点だと思っています。

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