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感想「『ゴドーを待ちながら』を読んだ」



有名なサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』という戯曲を読んだ。私には戯曲に関する知識が全くといっていいほどない。それどころかベケットという作家に触れるのさえこれが初めてなのだ。そんな私にとって本作は難解で、意図を読み取ろうとすればぬるりと手中から滑り落ちてしまうような独特の読み味にはただただ翻弄されるばかりだった。それでも本を閉じた後溜息を吐いてしまうほど登場人物の台詞や短いト書きに深く感情移入しながら読むことができた。
察するに戯曲というもののそもそもの特性のせいもあるのだろうが、人物の名前の下に長くもない台詞だけが点々と続いていく余白の多いページは、普段物語といえば小説ばかり読んでいる私にとっては新鮮だった。話は「田舎道。一本の木。 夕暮れ。」としか説明されていないところから始まり、すぐに延々と益体もないと言っても差し支えないような会話劇が繰り広げられる。会話の内容はどこか観念的なようでもあり嫌になるほど現実的でもある。まるで無空間に意識だけを浮かべたような印象を受けた。

エストラゴンとヴラジーミルの二人がただ話しながらゴドーという人を待っているというのがこの作品の基本的な内容のようだった。この二人の人物が果たして人物と言えるようなものなのかは定かではなく、どちらかというとなにかしらを象徴するものとして書かれているという方が明らかなように思えた。それはもしかしたら「人間」という概念そのものの暗喩として書かれているのかもしれないと思わせるような会話も出てきたが、よくわからないというのが正直なところだ。また、この二人がそれぞれ異なった人格を有しているのかも疑わしい。私は読んでいて時々どっちがどっちかわからなくなることがあった。しかし敢えて考えの証拠をここに提出するような真似はしない。結局私にはっきりとしたことはわからないのだ。難しいことはわからない。とりあえず私は二人の人物が会話をしているという事実をそのまま受け止めようと思う。

すると二人は非常に親密な関係に見える。二人は男性同士だがときたま離れ難い老夫婦のように見える瞬間がある。片方が悪態を吐いてどこかに去っていっても、またすぐに見えない力に引っ張られたかのように元の場所へ戻ってくる。好き嫌いのためではなく一緒にいることが最も自然だから一緒にいるような、一種の諦めのようなものが垣間見える。私にはそれが羨ましい。魂までべったりと融合してしまったような罪深い関係に憧れる。
二人は度々目的がなんであったかを確認するが、二人の別々な人間の目的がぴたりと一致していることなど滅多にあることではない。同じものを待っていたとしても大抵の場合それぞれに欲望の出所は違うものだ。然るに目的の持つ意味あいも微妙に異なっているはずだ。例えば同じバスを待っていても下車駅が人によって違うように。下車駅が同じでも最終的な目的地は違うだろう。最終的な目的地が同じ「高橋歯医」でもそこで虫歯を抜いてもらうのか歯石を取ってもらうのかではやはり目的がぴたり同じとは言い難い。しかしエストラゴンとヴラジーミルはまるで互いの目的がぴったりと重なっていることを確信しているかのように「ゴドーを待つ」という目的の理由までは問わない。また二人は最後突然首を括ろうとするが、やはりその時も理由を問うことはない。運命を共にするのが最も自然であるようにただ同時に死を選ぼうとするだけだ。

永遠に孤独を分かち合える相手がいるというのはどんな気持ちだろう。私にはそんな関係が恐ろしくも甘美に映った。

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