「御所車」刊行記念ヨイショ!
この作品は、知久大和守頼元。途中から息子・頼氏にシフトして、その子・則直がお家再興して完結する三代ドラマ。最初の山場は知久頼元による神之峯合戦。武田家に組み込まれた故郷を捨てた知久頼氏の奮闘と大願成就が二度目の山場。阿島で知久家を再興する大団円という筋書きだが、せっかくなのでお手に取って欲しい。
さて。
伊那郡代という言葉がある。
武田信玄が信濃侵攻の後、地域の民意掌握などの内政を任せ、いざ事あればその地域の総大将として軍勢を指揮する立場の人物。伊那地方は高遠城に秋山虎繁を配し、これを伊那郡代とした。初期の頃は諏訪郡代の板垣信方指図もあったことだろう。
やがて下伊那へと武田勢は侵攻した。これが「御所車」本編の、最初の山場となる。侵攻に成功した秋山虎繁は大嶋城に入って支配を固めた。この下伊那は重要な国境地帯である。
現代風に云うならば、天竜川を下ると遠江で今川家義元支配。中央アルプスの向こうは東美濃で斎藤道三の影響が絶大。今川・斎藤・武田の係争地である奥三河とも接している。
秋山虎繁は有能な在地衆を引き立てて民意を掌握した。書によれば秋山と信玄は思考が似ているというから、それだけでも南信濃が重要な立地だと理解できる。
やがて諏訪勝頼が伊那郡代となり高遠城に入る。勝頼は将来の諏訪大祝宗家を相続することになるから、やや甘えのある人事と云える。
実態は美濃・遠江・三河方面の軍事・外交に携わっていたのは大嶋城の秋山虎繫。斎藤道三なきあとのデリケートな駆引きにも関与し、ときには東美濃の苗木城に城番として乗り込み在勤することもあった。織田信長が美濃を掌握してからは折衝にも関与する。
「義信事件」で予想外に甲斐へ動かされた勝頼であったが、秋山虎繫が睨んでいたので安泰だった。
やがて、信玄が西へ動く。
青崩峠を越えて遠江に侵攻するまでの南信濃は安全圏。そういう民意を構築したのが秋山虎繫だった。三方ヶ原で大勝した信玄が引き揚げてきたルートが、南信濃の最南部。中央自動車道恵那山トンネル近くの阿智村で信玄は火葬された。
ここから、伊那衆と武田家の歯車が微妙に噛み合わなくなってくる。
秋山虎繫は東美濃の岩村城に留まる。飯田城・大嶋城は在地衆が固めて、高遠城に信玄弟・逍遥軒が入る。勝頼は内政下手で、前線に心を配った形跡もない。長篠の大敗は、信玄の作った「信頼ATM」を全額使い果たしたようなものだ。秋山虎繫が信長によって討たれると、伊那衆は「信玄の安全地帯」から「勝頼の矢面」に曝け出される。民意が大きく揺らぐのも道理。この部分のケアが、勝頼は全くダメだった。
武田信玄の弟という威光で大嶋城に入った逍遥軒に求心力などない。下伊那が織田信長侵攻時に、人間雪崩現象のように軍勢が自壊するのは、なるべきして起きたことだった。逍遥軒はのちに戦わず逃亡している。
上伊那は逍遥軒の後任で高遠城に入った信玄五男・仁科盛信がシッカリしていたので、一枚岩のように結束していた。仁科盛信の評判は、後年の「信濃の国」という歌で歌詞に登場するほどのもの。こういう人物が早くから下伊那に任じられていたら、もう少し民意も掴めただろう。
「御所車」では、この機に積年の想いを知久頼氏が晴らしていく姿を描く。
武田の滅亡は、知久家の再興に必要な通過儀式だった。
……というように、日本地図で分かるように、長野県は北・真ん中・南と、接する県境が異なるから民情も風習も理解も一致しない。まことに不思議なる土地。
リニア新幹線が来れば、信玄火葬の村も近く、ぐっと身近に感じられるだろう。
楽しみです。