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頑張るを手放して

最近、わたしは導かれているのだろうか?

今の生き方を変革するような色々なサインに気づく。時には外側から、時には内側から。

少し前に私は体調を崩した。友達にも自慢していた『ウォーキング』がたたって夏バテになってしまったようだ。友達が調子を崩していた時には、『運動不足だからそうなるのよ』と思っていた矢先で、認めたくないけどやはり自分のストイックさに釘を刺さなければならないと感じた。

私は、何かに打ち込むことが好きだ。でも本当に好きなのか?と言われると、『やった方がいいから』というあいまいな答えになってしまう。

逆に言うと、『何もしていない』という状態が苦手なんだと思う。何もしていないことは罪であり、戒めるべきであり、改めるべきことだとそう感じてしまう。

これは、家庭環境や育った時代のものだと感じている。とにかく頑張りなさい、頑張っていれば大丈夫、怠けてはいけない。

そんな言葉を指針に生きてきた私は、体調を崩した。双極性障害。私の場合は、頑張りすぎて元気になりすぎて、あるとき一気にウツへと転じていくようなパターン。

身体は悲鳴を上げていた。私は、そう思っている。

そんな私も、自分自身の事でありながら時には無理をしてしまう。今日なんかそうだ、ちょっと遠出して帰宅したとき、どうしても家事を終わらせたくてすべて終えてから休憩した。

途中に体が悲鳴をあげているのに気づいていた。でもあともうちょっとで終わるから、と体にムチ打つ自分がいた。

そんな私だが実は色んな気づきを得ている。それはある日朝のシャワーを浴びようとしたところ。私の浴室の水道は、温度調整が難しい。ちょっとひねると熱くなりすぎるし、反対に回すと一気にぬるくなる。

その日は、熱いシャワーを少し浴びてしまって『熱っ』となり、慌てて温度調整した。すると『………!?』これだぁ!っとしっくりくるものがあった。それはなにか。

それは、丁度いい=素晴らしい、という考え方である。

例えば、怠けると頑張るの二つがあった時、私は頑張りすぎる傾向がある。今までは頑張ることっていいことだと思っていた。

だから、今よりもっと、他人よりもっと、とうえばかり見ていた。でもこの日のシャワーで『熱かったらシャワーを浴びられない』ということに気づいた。

私も頑張りすぎることで心身の調子を崩した。だから、休むことを意識するようにはしていた。

けれど、そうか。

真ん中を目指せばいいのだと、丁度いい温度であれば、心地よく楽でそして、シャワーを浴びるという目的も果たせるのである。

心地よくて楽で物事が進んでいくならそっちの方がいいじゃん。

シャワーがそのことを教えてくれた。もっと気楽でいいんだ。仕事ももっと力を抜いて楽しんでもいいし、プライベートで何かにストイックにならなくてもいい。

それでも、物事は進んでいくし、目的も果たしていけるのだから。

そう考えると、『今に生きればいいじゃん』ということを思った。皿洗いしたら、拭いて、それから流しも洗って、そうだ日記も書かなきゃ、あとは…。と食器を洗っているときにはもう先のことで一杯。

けれども、最近のいろいろな気付きから。先のことは置いておいて、べつに楽しんで皿洗いしよう、という感じですると楽だし、なんかここに生きている小さな喜びみたいなのを感じる。

本当に小さい喜びだけどね。

でも、そうやって一つ一つ楽しんでやったり、何かにストイックになることをやめると、あっ今の私って幸せじゃんって思えるのだ。

美味しいものを食べられる。お金に困っていないし、人間関係も良好で、体調もいい。えっもう幸せな要素揃っているじゃんって。

揃っていなかったのは、心持だった。今のままじゃダメ、もっともっと、頑張らなきゃ。逆にこれが心の余裕を奪っていたんだ。

だから、真ん中を目指すのがいい。丁度いいを目指す。そう丁度いいのがいいのである。

シャワーと一緒、一番いいじゃないか。同じシャワーを浴びるならば気持ちい方が。

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