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こころ(1955)

こころ(1955、日活、121分)
●原作:夏目漱石
●監督:市川崑
●出演:森雅之、新珠三千代、三橋達也、安井昌二、北林谷栄、田村秋子、鶴丸睦彦、下元勉、下條正巳、久松晃、奈良岡朋子、山田禅二、伊丹慶治、鴨田喜由、河上信夫、山本かほる

この映画の評価=夏目漱石の原作小説『こころ』の評価へとスライドしてしまわないように、極力映画の中の出来事にしぼって記していきたい。

例えば「大胆な解釈」のように原作から逃げることをせず、真っ向からこの燦然と聳え立つ名作に向き合っており、かなり忠実に映画化していると感じた。

ここでは先生=野淵、K=梶、「私」=日置という名前が与えられている。

先生と日置がビールを飲むシーン、先生の宅で紅茶や、ナイフとフォークを使った洋食が出るところなども再現している。

ただ先生は眼鏡はかけておらず、ステッキを持っている。

原作ではさらりと書かれていた、日置が田舎の両親に大学卒業の証書を見せ、丸めたクセがついていたのでなかなか立たなかったという描写を、映画では老いた母親がうやうやしく証書を床の間に立てかけては倒れ、もう一度立てかけては倒れ、という可笑しくも侘しい印象的なシーンに作り上げられている。

2時間の中では当然取捨選択していかないといけないが、日置と先生が出会う海水浴の場面をすでに先生が入水を考えていたと解釈するあたりはなるほどと唸らされた。

野淵(先生)と梶(K)の房州の旅の場面での

海の中に突き落したらどうする?
ちょうどいい。やってくれ

もしっかり描いている。

ここは、原作ではKが、先生がKを出し抜いてお嬢さんをくださいと告白することを知る前、つまり出し抜かれ裏切られる事件以前にすでに自死を考えていたことを示唆する出来事として(=Kが失恋によって初めて自死を考えたというわけではない)重要な場面だ。

終盤のほうこそ語り(ナレーション)が入るが、先生の遺書のシーンでも基本的には映像を言語として映画は進むところが好印象。

先生の動きをお嬢さんの目線で表現したり、先生と梶の足元を擦り減った下駄でその格差を暗示したり、俯瞰やロングショットを多用していたりと色々と映像的な工夫をしていて面白い。

最も重要な、梶の自殺を先生が知る場面では不気味なまでに静かで、手紙を読んでまた元に戻すさまも恐ろしいほどに冷静に見える。

しかし自室に戻った際、足元にあったランプを蹴って割ってしまう。

私は棒立ちに立ち竦みました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策しまったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。

夏目漱石『こころ』原作より

このランプを割る描写は原作にはないのだが、原作で上記の部分にあたる箇所を「ランプを割る」=「黒い光」のメタファーとして表現しているという演出にはシビれた。

そして、映像化する際に決して避けては通れない、ごまかしもやり過ごしもできない、「先生の分厚すぎる手紙」問題―――。

これは一応、ものすごく分厚いわけではないが、そこそこ分量のある(ギャグにならない程度の)手紙として、再現されていた。

こちらも、お見事。

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