母の功績

BBAR、娘から「私が有名になったらママは育児のコツとかの本でも出す?」と言われた事がある。
BBARは「あんたが有名になれたなら、それはあんたが努力した結果だろうから、私の育児がどうとかは関係ないよ」と答えた。

よく、芸能人やアスリートや高学歴の子の親の教育法が注目されるが、あれは読み物として楽しむ物でhowtoにはしないと自戒している。
大谷翔平さんのご両親と同じ事をしても、我が子がメジャーリーガーになるわけじゃない。
一人一人体格や体質が違い、発育や発達の速度が違い、趣味嗜好が違い、取り巻く環境も人生で出会う人々も違う。
同じように教育したところで、結果は違って当然だ。

子どもの人生は子どもの物。
どうなって欲しいなんて親が具体的に決めていい事ではないと、BBARは考える。
社会の一員として、決められたルールを守り、子ども自身が幸せだと感じる瞬間を積み重ねられる人生を送ってくれればそれでいい。
そこさえクリアしてくれるなら、学歴も職種も収入も結婚や出産…etc好きにしたらいい。

子どもが考えて、子どもが決めて、子どもが行動した結果に、母であるBBARの功績は無い。

教育法を説く親を否定しているわけではない。
子どもを教育する中で、他人の体験談から得る物は少なくない。
めまぐるしい日常をかいつまんで言語化し、こんな方法もあるよと提示してくれる人達の言葉は貴重なサンプルだ。ただ、受け取る読み手が「こうすれば成功する!」と思い込んでしまってはならない。

子育てに正解はない。
子育てはうまくいかない事の繰り返しだ。
悩みはドミノのように無限に立ちはだかる。
つい、手っ取り早く正解と思えるものに飛びつきたくなってしまう。
これさえすれば大丈夫と、安心したくなる。

でも、間違えてはいけない。
教育法を説いているその人もまた、悩みのドミノの渦中にいる。
子どもが大きな成果を得ても、成人しても、親と子の関係性が終わらない限り、ドミノは終わらない。

ある時点で、その教育法が正解のように見えたのなら、それは親が子の歩みにしっかりと寄り添って歩けていた成果なんだと、BBARは信じたい。
親子は同一の人格ではないし、肉体も全く違う。
子の歩みに合わせるのは難しい事だ。
早すぎる成長についていけなくなる事もある。
歩みの遅さにイライラする事もある。
転んだり、立ち止まったり、回り道したり、戻ってしまったり…。
親が難しいながらも頑張って子のペースに合わせて寄り添っていければ、その子なりの成果がきっとある。
BBARは、そう思いたい。

こんな事を娘に言ったら「当たり前でしょ!」と怒られそうだが、10代になった彼女は1人でトイレに行ける。
食事もできる。
シャワーも浴びられるし、1人で寝られる。
どれも、最初は出来なかったことだ。
オムツだって、いつになったら取れるんだろう?他の子はもう布パンツなのに…と、途方に暮れていたのだ。
お風呂が大嫌いでギャン泣きしまくりのバスルームは地獄絵図だった。
箸がいつまでも使えなくて毎回投げ捨てていた。
もう10代だから出来て当たり前かもしれないが、当たり前じゃない。
彼女が努力した結果だ。
これが成果だ。

教育本にはならない。
誰も羨ましがらない。
キラキラもしてない。
すごくもない。

それでも、彼女に寄り添って彼女がちゃんと努力できるように支えてきた。
この時点での功績としては申し分ないと思う。

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