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治験という”密事”を舞台に描く、ノンストップ・ミステリー!【冒頭公開】6/21発売 岡田秀文『治験島』

2023年6月21日(水)発売の新刊『治験島』(岡田秀文・著)より、冒頭を試し読み公開します。


岡田秀文『治験島』

プロローグ

  本土と島を結ぶ連絡橋の路面は黒く濡れそぼち、黄色いナトリウム灯をまぶしく反射させていた。先ほどまでフロントガラスで弾け、ヘッドライトを斜めに横切っていた雨粒はいつの間にか消えている。雨上がりの夜空が島影を縁取り、ほんのり白くにじんで見えるのは、山陰に覗く病院の明かりのせいだろう。
 西ヶ島――、通称、治験島ちけんとう。面積一・二平方キロメートル、同じ関東の景勝地である江の島のおよそ三倍。C県を代表する観光地であるとともに、地域の救命医療をになう基幹病院である市西総合病院を中心に、公立や民間の研究開発施設などが立ち並び、島全体が最先端科学の拠点となっている。
 全長約一・五キロメートルの連絡橋を渡り終え、しばらく道なりに行くと、病院と観光施設である灯台や水族館への分岐を示す道路標識が近づいた。
 男はハンドルを切り、右カーブが続く坂道へ車を走らせる。坂を上りきるとアクセルを緩め二度、三度とブレーキランプを点灯させながら、案内表示に従い巨大な駐車場へと進んだ。外来診療はもとより入院患者との面会時間もとうに過ぎ、四階建ての駐車場はどの階もがら空きだった。
 駐車場のゲートをくぐり、一階入口から少し離れたところに車を停め、エンジンを切り、男は車を降りた。助手席のドアも開き、女も降りた。
 駐車場の建物を出たところで、男はふと気が変わり、足を止めた。前方には幅広の歩道があり、途中で二手に分かれる。一方は病院へ、一方は研究施設のあるエリアへと続く。
 どうしたの、とでもいうように女が首をかしげた。
「病院を見よう。久しぶりに」
 男が言うと、女も黙ってあとに従った。
 病院正面の外来棟と奥の病棟へとつながっているこの道は、日中、外来患者や入院患者、病院職員たちで込み合うが、午後十時を過ぎた今は人影もない。
 なだらかな傾斜を上っていくと、ほどなく外来棟の全面ガラス張りのエントランスが視界に入ってきた。照明はほとんど落ちているが、わずかな明かりがカーテンウォールに映えて、その外観は病院というより美術館かリゾート施設を思わせる。
 エントランス前には芝生が植わる車回しの小庭園がある。ここからは見えないが、さらにその奥へ進むと石畳の広場となっていて、普段は椅子やテーブルが置かれ、休憩や軽食などをとる人たちでにぎわい、また、ときには数百人規模のイベントが開催されることもある。
 男は女と並んで立ち、外来棟を見上げた。
 およそ十年ぶりだ。まったく変化がないように見えるのは、夜で視野が限られているためか。
「……懐かしい」
 女がつぶやいた。
 たしかに。懐かしい。十年前、この病院で十数日を過ごし、殺人事件に遭遇し、犯人逮捕に立ちあったのだ。危険でもあったが、充実した濃密な時間だった。
 あの呪われた治験に参加した者たちは今どうしているのだろう。
 ふいに歳月が逆流するような感覚に襲われる。あの日、この場所に立ってエントランスを見つめた自分がよみがえってくるように。


第一章  治験初日

 JR中総駅前からバスで十分少々。市西総合病院の停車場で降り、全面ガラス張りのエントランスにたたずみ、坊咲貴之ぼうさきたかゆきは右手に提げた鞄を握り直した。ずっしりと重い鞄の中身は、入院に必須の着替えや髭剃りや歯ブラシセットのほかにノートパソコン、筆記用具、仕事の資料、文庫本など。
 一歩踏み出せば自動ドアが開く。が、その一歩をためらい坊咲が緊張の面持ちで立ちすくんでいると、
「SU―4​8​0の参加者かい」
 とつぜん声をかけられた。
 振り向くと、背の低い小太りの男が坊咲を見上げていた。
 黒縁のメガネをかけ、くすんだ色のブルゾンを着て大きめのリュックを背負っている。歳は二十代後半と言われればそう見え、四十過ぎだと告げられても違和感はない、不思議な雰囲気をまとったとっちゃん坊や。
「僕は亜館健三郎あだてけんざぶろう。同じく被験者だよ。よろしく」
 なれなれしく右手を差し出してきた。
「どうして分かったんですか」
 戸惑いつつ手を握り返して坊咲は質した。亜館はにやりと笑みを浮かべ、
「SU―4​8​0の治験参加者は二十歳から七十歳までの男性。十三日間の入院だから、それなりの荷物を持っている。その条件に合致した人物が、未知の治療を心配するように、集合時間の三十分前に病院前で足をすくませている。君を参加者と推測するのは簡単なことだよ」
 どこか胡散臭さを感じるが、これから二週間近く一緒に過ごす仲間らしい。保険をかける気持ちで愛想よく、
「まるで名探偵みたいですね」
 とおだてると、亜館は当然のごとく、でも少しうれしそうに笑顔を見せて、
「くわしくは話せないんだけど、ふだんも探偵的に頭脳を駆使する仕事をしていると言っておこう」
「そうなんですか。僕は――」
「待って」亜館は広げた右手を突き出し、「当ててみせるよ」
 ぶしつけな視線で坊咲をなめるように観察する。なんか面倒くさい人物とかかわってしまったような気が……。
「見たところ三十ちょい過ぎの男が二週間もの隔離生活を送ることができるとすれば、失業者かフリーター、あるいは時間に余裕のある自由業かな。でも、見たところ、髪形や服装はまっとうな勤め人っぽいから、最近離職したばかりで、再就職までのつなぎの暇つぶしか小遣い稼ぎ、ひょっとすると休職中かもしれない。
 営業向きには見えないから、職は経理などの事務職か、開発などの研究職。おや、胸のポケットに挿しているボールペンにタムラ自動車のロゴが入っているね。てことは君、タムラ自動車の社員なのかな。
 そうだな、やっぱり事務職より、開発、そう、電気より機械、たとえばトランスミッションの設計とかしているんじゃないの」
 驚愕に近い感情を隠すのに苦労した。推理の筋道はこじつけめいているが、ほぼ的中していたからだ。正確には、坊咲はタムラ自動車の下請けでトランスミッションの部品の設計をしている。入社十年目の特別休暇と有休を使い、今回の治験に参加するのだ。
 一見、風采の上がらないオタクそのものの小男は、本当に本人の申告どおり名探偵なのだろうか。
(いや、まてよ)
 東京から中総駅まで特急列車でおよそ一時間半。その間の大半を坊咲は仕事の資料を読んで過ごした。電車はすいていて乗客は少なかった。特急は一時間に一本。亜館も乗り合わせていたとしても不思議はない。その時点で同じ被験者かもと目をつけて、観察していたとすれば……。
「もしかして、ここへ来る途中に僕が仕事関係の本を読んでいるのを見たんじゃありませんか」
 坊咲が質すと、亜館は目をそらし、突然、思い出したというように手を叩いて、
「そう、そう、この裏の病棟横に怪物伝説の祠があるんだ。治験島内の旧跡の中でもかなり貴重なものなのに、病院の敷地内にあるためあまり世間には知られていない。集合時間までまだ少しあるから、ちょっと見学しておこうよ」
 この市西総合病院がある西ヶ島、通称、治験島が、長い歴史にまつわる様々な伝説に彩られていることは坊咲も承知している。ただ多くの理系人間がそうであるように坊咲も、歴史、ことに史実かどうかも定かでない伝承の類にはまったく興味がなかった。
 それでも集合時間にはまだ少し早いのは確かだし、せっかくの誘いをむげに断っては角が立つ。坊咲は自分でも嫌になるほど、押しに弱い、気の小さい男なのだ。
 というわけで、ちょっと変わった小男のあとについて行くこととなった。エントランスのある外来棟を回り、その奥の病棟へ向かう。
 県内のみならず全国でも屈指の規模と最新設備を誇る市西総合病院だけに、八階建ての病棟も圧倒されるほど巨大だ。まだ築年数も浅く、歴史を思わせる建物などは見当たらない。
「そんなに古い史跡が病院の敷地内に残っているんですか」
 アスファルトの小道を進む道すがら、坊咲は亜館に尋ねた。
「いろいろ変遷はあるんだけど、もとは女神伝説のおくまの墓所だとも言われているんで、二百年以上の歴史がある史跡だよ」
「へえ、死後二百年以上経ってもお参りする人がいるなんて、うらやましいですね」
「そうかい」不思議なものでも見るような顔で亜館が見返した。「僕は自分の死後のことなんかまったく興味ないけど。見も知らぬ人間にお参りされるなんて、かえって気持ちが悪いな。法的に問題がないなら、僕の遺骨はそのまま火葬場のトイレに流してもらってかまわない」
 見かけどおりの変わり者で間違いないようだ。 

「ああ、あれだ」
 亜館が声をあげて指さした。
 病棟の端、非常階段のそばに古びた木造の建物があった。建物というにはちょっと大げさかもしれない。大きめの百葉箱のような小さな祠だ。すぐ横には休憩用のベンチが備えられている。
 近代的な病院には不釣り合いな、質素というか、みすぼらしい史跡だ。朝だからかもしれないが、お参りする人の姿もまったくない。
「だれもいませんね」
「だからあまり世間には知られていないって言ったでしょ。でも、もうすぐ女神コンテストもあるから、怪物マスクをつけたオタクたちが大勢やってくるはずだよ」
 怪物マスクとは十年ほど前にこの島の伝説がテレビ番組で取り上げられた際、出演していたタレントがかぶっていたマスクである。美女らしき女の片頰から口元だけを残してあとの大部分が毛むくじゃらの野獣に変貌した怪物をゴム製のマスクで再現したものだ。これが評判を呼んで市販され、ちょっとしたブームになった。坊咲は興味がないので知らなかったが、今でも治験島の祭事には、多くの観光客が怪物マスクをかぶって参加するらしい。
 亜館は祠の前で携帯電話のカメラをかざし、シャッター音を鳴らした。
 祠の扉は開いており、御神体とおぼしき石像が覗いている。祠の中や外壁に短冊のような霊符が無数に貼られている。古いものは剝がれ、その上からいくつも新しい霊符が貼られ、それらもまた剝がれかかっている。
 神仏習合なのか、祠の周りには小さな石地蔵がいくつも並んでいた。よく見るとほとんどは菩薩像だが、なかには鬼の形相の怪物像も交じっていて、縄でぐるぐる巻きにされた縛られ地蔵もある。石像は大きさや形がまちまちなので、もとからあったのではなく、参詣者が持ち込んだものだろう。
 亜館はそれらの石像を一つひとつ写真に収めている。
 最先端医療と対極にある因習や迷信の聖域がひとつところにあって、それを熱心に撮影している治験参加者というのも、思えばシュールな光景だ。
 個々の石像を撮り終えると、次にいろんな角度から、史跡の全体像を撮りはじめた。
(いったい)
 いつまでこんなことをしているのだろう、と思っていると、亜館はふいに腕時計を見やり、
「おや、そろそろ集合時間だ。急がないと」
 携帯電話を折りたたんで背中のリュックに収めた。 

 坊咲と亜館はあらためて外来棟へ戻り、エントランスへと足を踏み入れた。集合時間が迫っているので、もうためらっている余裕もない。
 自動ドアを入って中央に広いスペース。左側の奥には喫茶室と売店、右手に総合受付などのカウンターがあり、その向かいに何列も並べられた長椅子には多くの外来患者の姿があった。
 坊咲と亜館は受付に寄らず、吹き抜けの二階へとエスカレーターで上る。ガラス張りの広大な壁から差し込む日で院内は明るい。
 前に立った亜館が首をひねって見下ろし、
「坊咲君はいつスクリーニング検査したの」
「先々週の木曜です」
 治験参加のための同意説明を治験コーディネーター(CRC)から聞き、署名をしたあと、問診と血液検査を受けたのだ。
 治験はその疾患にかかっていればだれでも参加できるというものではなく、疾患の指標となる検査値など一定の基準をクリアしている必要がある。参加の基準には、当該疾患にかかっている客観的な検査値のほか病歴、併用薬の使用状況などがあり、それ以外にも過去三か月以内にほかの治験に参加した者はエントリーできないなど、いくつもの除外基準も設けられていた。
 三日前、そのときの治験コーディネーターから電話があり、スクリーニング検査をクリアしたことを告げられ、あらためて治験への参加意思を確認された。同時に坊咲を含めて被験者は全員で十人の予定だと知った。
「亜館さんもここでスクリーニングを受けたんじゃないんですか」
 はじめて来た場所のように、妙にきょろきょろしている亜館に声をかける。
「そうなんだけど、僕、かなり方向音痴なんでね、治験管理室にたどり着けるか不安なんだ。坊咲君、連れていってくれる?」
 連れていくもなにも、壁の案内表示に従っていけば自然にたどり着けるだろう。
 坊咲は各科の外来受付や検査室の前を過ぎ、廊下を二、三度折れて治験管理室へと向かった。亜館もちょこちょことあとに続く。
「さっきの話の続きだけど」
 歩きながら亜館が言う。なんの話の続きか戸惑っていると、
「君はまっとうな勤め人か元勤め人と推測される。なのにどうして二週間近くも拘束される治験に参加するのか。――あっあーっ、言わないで言わないで」
 大声と子供っぽいしぐさで坊咲の発言を封じようとする亜館。坊咲は思わず周囲に目を配る。
 名探偵の手を煩わすほどおどろきの動機でもあれば面白いのだが、あいにくそんなものはない。
 坊咲が今回、治験参加を希望したのは、かかりつけの病院で新しいアレルギー薬を試さないか勧められたという、しごくまっとう、かつ単純な理由だ。ともに長期休暇を取って海外旅行をする予定だった大学時代の友人の都合がつかなくなったことも背中を押した。
 何事も経験、と軽いノリで申し込んだのだが、治験コーディネーター(CRC)から、今回の薬はまったく新しい作用機序の薬剤で、海外で先行治験がおこなわれていることや、国内の一般のニュースでも治験開始が取り上げられたほど注目されていると聞き、期待がふくらんだ。
 一方で、十三日間の入院を必要とし、その間、頻回に採血をされること、実薬と偽薬をそれぞれ六日間、服用すること、などの説明を聞き、不安の気持ちも芽生えていた。
「きっと君は軽い気持ちで申し込んだんだろう」
「どうしてそう思うんですか」
 ちょっとおどろいて坊咲は尋ねた。
「一見してそれほど重度のアレルギー持ちでもなさそうだし、身ぎれいなところから、お金目当てで治験に参加したわけでもないはずだ」
「まあ、先進医学への貢献や好奇心と、アレルギー治癒の期待が半々といったところです。亜館さんこそ、なんで参加したんですか」
「うん、まあ、僕も同じような理由だよ」
 そっけない亜館の答え。他人の詮索は好きなくせに自分のことはあまり語りたがらないタイプか。
「あれ?」
 亜館との話に気を取られて、現在地が分からなくなった。いつの間にか一階に戻ってしまっている。エスカレーターで上がったあと、階段を下りた記憶はないが。あわてて廊下の壁にある案内表示を確認する。
「困るなあ。君が頼りなのに」
「ああ、分かりました。治験管理室のある東館は高地になっていて表示が一階に変わるんです。この方角で間違っていません」
 エントランスのある外来棟と薬剤部や医局、治験管理室のある東館は内部でつながっているが、傾斜地にあるため外来棟での二階が東館では一階になるのだ。前に来たときは階数表示に気づかず、治験管理室は二階だと思い込んでいた。
「ああそうなの。どうでもいいけど、早く治験管理室を見つけて」
 ぶつぶつ文句をたれる亜館を引き連れて、歩き回っているうちに、ようやく廊下の先に見覚えある人影をとらえ、確信をもって足を速めた。
「おはようございます」
 近づく坊咲たちに明るく声をかけてきたのは治験コーディネーターだ。たしか――名札に目をやる。そう、八島やしまさん。ショートカットの髪は落ち着いたブラウンで縁なしのメガネをかけている。年齢はおそらく三十四歳の坊咲と同じか少し下くらいだろう。
 前回、同意説明やスクリーニング検査に対応してくれたときも好感を持ったが、八島は今朝もまた感じのよい笑顔で、治験管理室と筋向かいの部屋のドアを指した。
「あちらの会議室で、参加されるみなさんご一緒に説明しますのでお入りください」 

 やや手狭な会議室の中には、長方形のテーブルがコの字形に配されていた。十脚ある椅子は半分ほど埋まっていた。全員男性である。
 坊咲と亜館もちょうどふたつ並んで空いていた椅子に腰を下ろした。
 その後、数分の間にさらに数人が入室して十人分の椅子が埋まると、八島ほかふたりのCRCが正面に立った。
「今日から開始する治験を担当させていただく治験コーディネーターの八島優里ゆりです。みなさんにはスクリーニング検査のときお会いしていますが、あらためて今後十三日間、よろしくお願いいたします。わたしのほかにあとふたり、この治験のお手伝いをします」
 八島の横に立ったふたりがそれぞれ「深田ふかだです」「今宮いまみやです」とお辞儀をした。
 自己紹介のあいさつのあと、A4の印刷物が配られた。
 手に取ると、今回の治験スケジュールと注意事項が書かれていた。
 全員の手に配布されると八島が、
「スクリーニングのときも治験の全容とスケジュールについてご説明しましたが、今回、正式に治験にご参加いただく前に、もう一度、全体の流れをご確認ください」
 坊咲たちが印刷物にひと通り目を通したのを見とどけると八島は、なにか分からないことがあるかと尋ねた。全員が首をふると、
「それではこれから、みなさんに十三日間を過ごしていただく病室へとご案内します。そのあと、表にあるようにさいしょの診察と検査をして、治験薬を飲んでいただき、採血開始という流れになります」
 坊咲たちを促して部屋を出ると、八島はツアーガイドよろしく先頭に立つ。きびきびした足取りで病院内を進む八島のあとを、坊咲たちは金魚のフンのようについて歩いた。
 階段を上り、東館の二階と病棟の二階をつなぐ連絡通路をぞろぞろと渡り、廊下を突き当たりまで進んだところで八島は足を止め、左右の部屋を指し示した。
「こちら側の部屋はみなさんが治験期間をすごす病室となります。そして廊下を挟んでこちら側が診察室で、診療や採血などをおこないます。そして廊下を反対側へ向かって行くとナースステーションが見えると思いますが、その先にみなさんが休憩したり、飲食をしたり、遊んだりできる娯楽室が用意してあります。ではまず、みなさんの居場所をご確認のうえ、荷物を置いてください」
 病室は四人部屋ひとつと、ふたり部屋が三つだった。できれば四人部屋よりふたり部屋の方がありがたい。
 くじ引きかじゃんけんで好きな部屋とベッドを選べるのかと思ったがそうではなく、すでに各自、頭にAがついた番号が割り当てられていて、同じ番号のベッドが自分の場所だという。
「この番号はみなさんが服用されるお薬の番号とも一緒なのでよく覚えておいてください」
 八島が続けて各自の番号を告げた。坊咲はA―9だった。
 A―7から10までが四人部屋のベッドの番号だ。
「ちぇっ、四人部屋か」
 隣で亜館が舌打ちする。亜館の番号はA―7だ。
「おたがい残念でしたね」
 と坊咲は亜館をなぐさめながら入室し、自分に割り当てられたベッドのわきにある小さなテーブルに荷物を置いた。
 各ベッドの間隔は一・五メートルほどで非常に狭い。さらにその狭いスペースに小さなテーブルや貴重品ボックスが配され、仕切りのカーテンを閉めるといっそう窮屈になるだろう。
 相部屋となるふたりも入室し、自分たちの荷物を置いた。
 まず、A―8の被験者が声をかけてきた。
「どうも、斎田智弘さいたともひろだ。しばらくの間、よろしく」
「坊咲貴之です。こちらこそ」
 斎田は一メートル九十センチ近い長身、やせ型で、年齢はおそらく三十代半ば。身長もさることながら、パーマのかかった長髪、奇妙な色と模様のシャツは、まるで昭和からタイムスリップしてきたように人目をひく。
 もうひとりA―10は中年の男で、村上紘一むらかみこういちと言い、保険代理店をやっているという。
「ちょうど自宅兼店舗の改装工事中なんで、新しい薬を試してみようと思って参加したんだ。よろしくね」
 と口早に自己紹介した村上を、亜館は忌々しそうな顔でにらんだ。きっと得意の推理で職業当てでもするつもりだったのだろう。
 亜館はすぐに視線を転じて、斎田に近寄って声をかけた。
「君、つい最近、海外旅行をしたんじゃないかな。行き先はアメリカ」
「えっ、……ああ、これで分かったのか」
 斎田の足元に置かれたバッグには、航空会社のステッカーが貼られていた。斎田によればアメリカの航空会社の創業三十周年の記念ステッカーで、この創業記念キャンペーンがおこなわれたのがおよそ二か月前。
「このキャンペーンのこと知っていたんだろ」
「あっさりネタを見抜かれましたね」
 坊咲がからかうと、亜館は涼しい顔で、
「推理というのは大概些細で当たり前の手がかりを当たり前に解釈することからはじまるのさ。種明かしを聞いたあとに、そんなの自分でも気づけたと思っても、それは錯覚なのだよ」
 坊咲と斎田が顔を見合わせていると、片手を大きくあげた八島が、
「それではこちらへお越しください」
 向かいの部屋の前で被験者たちを招き寄せる。
 いよいよ治験がはじまるのだ。
 坊咲たち十人の被験者が入った診察室には、八島たち三人の治験コーディネーターのほかに白衣を着た医師がいた。
 これから医師の診察を受け、アンケート用紙に記入を終えたあと、投薬、採血、採尿と続く流れだ。
 治験の概要はさいしょのスクリーニング前に、八島からくわしく聞いて頭に入っている。坊咲はそのときのやり取りを脳裏によみがえらせた。
『治験というのは、研究と治療の両方の目的をもっておこなわれるものです』
 談話所の椅子に向かい合って座り、緊張する坊咲に、八島はにっこりと微笑みながら言った。そして、治験は自由意思で参加し、やめたいと思ったときにはいつでも途中でやめられると告げたのに続けて、
『今回、坊咲さんにご紹介するのは、SU―4​8​0というアレルギー治療薬です』
 SU―4​8​0は世界的な製薬会社であるハリスン製薬が開発を進めていて、そのハリスン製薬からの依頼により、市西総合病院で今回、治験を実施することになった。このSU―4​8​0はRNA干渉といって、特定の遺伝子の発現を抑えることによりアレルギー反応を抑制する、従来とはまったく異なる特性を持った新薬だという。
『ということは、これまでにない副作用も出てくる可能性があるのではないですか』
 坊咲の質問に、八島はゆっくり大きくうなずいた。
『その可能性はあります。ただ、現在まで動物実験ではとくに問題は出ていません。人間ではまだ海外で六十人の患者さんに投薬した経験があるだけですが、その六十人にも大きな問題となる有害事象は出なかったと報告されています』
『有害事象?』あまり聞きなれない言葉だ。『副作用とは違うんですか』
『ええ、副作用はその薬との因果関係があるか、因果関係が否定できない事象にかぎられますが、有害事象は治験中に起きた医療上好ましくない事象すべてが対象になります。たとえば治験期間中たまたま風邪をひいたとか、ドアに手を挟んで指を骨折したとか、交通事故にあってむち打ち症になったとか、そういったものもすべて有害事象に含まれるんです』
 より広範に有害データを集めるわけで、なるほどと思ったが、腑に落ちない点もある。あきらかに治験薬と無関係の事象まで収集するのが本当にいいことなのか。ノイズばかり拾って、本来、問題とすべき重大な副作用を見逃すことにならないだろうか。
 坊咲の疑問に、八島は、
『因果関係がないと思えた事象も、データとして蓄積されると別の見方が出てくる場合があるんです。たとえば、たまたま家の中でつまずいて捻挫をしたとか、自転車に乗っていて転倒したとか、一例、一例だけでは、偶発的な出来事と考えられたものも、集計してみると、同種のトラブルがあきらかに高頻度で起きていると判明したとします。するとそこから治験薬に患者さん自身も気づかない程度の軽いふらつきや眠気を起こす作用があることが分かったりするのです』
『なるほど、そういうわけですか。……あ、すみません。直接、今回の薬とは関係ない話で脱線してしまって』
『いえ、治験について分からないことや不安なことは、どんどん聞いてください。ほかにはありませんか』
 坊咲が大丈夫ですと首をふると、八島は、《アレルギー性鼻炎患者を対象としたSU―4​8​0製剤の二重盲検ダブルブラインドクロスオーバー試験》との表題が記された同意説明文書を開いてみせ、
『では、今回の治験についてご説明します。その前に坊咲さん、治験には三つの段階があるのをご存じですか』
『知りません』
 坊咲が答えると、そうですか、というように八島は首をこくりこくりと振り、
『今お話ししたように、治験は第一相、第二相、第三相という三段階の試験があります。第一相試験では少数の健康な男性に治験薬を投与して安全性と体内動態を確認します。体内動態というのは、薬が吸収され、体組織に分布して、代謝、排せつされるまでの動きのことです。第二相は少数の患者さんに治験薬を投与して安全性と有効性、用法・用量などを確認する試験。第三相はより多数の患者さんに治験薬を投与して安全性と有効性を確認する試験となります』
 坊咲はアレルギー患者として参加するわけだから、今回の試験は第二相か第三相なのだろう、と予測していると八島が、
『ところが今回は少し変則で、第一相と第二相を合わせたハイブリッド型なのです。どういうことかといいますと、少数の患者さんで安全性や薬物の体内動態を確認すると同時に有効性の確認もおこなう試験となります』
『ハイブリッド試験というのは結構よくおこなわれるんですか』
『抗がん剤のような毒性の強い薬剤の場合、健常者に使用するデメリットが大きすぎるので、さいしょから患者さんを対象とすることはあります。ただ、今回のようなアレルギー薬でいきなり患者さんに服用していただき、薬効もみるのははじめてです』
 現在、日本では、欧米に比べて臨床試験(治験)に長時間を要し、その結果、新薬の承認が遅れ、国内患者が最新医療の恩恵を受けられずにいるという問題がある。政府、厚生労働省、製薬業界は打開策として、新薬開発の迅速化のため、様々な施策を講じようとしている。そのひとつとして、今回、ハイブリッド試験が導入されたのだという。さいしょの試験は海外が先行したが、およそ二か月の差で今回の試験ははじまる。
『そういうわけで、今回の治験は国内外で大きな注目を集めていて、この前はNHKのニュースにも取り上げられて、この病院も映ったんですよ』
 坊咲さんもご覧になりましたか、と聞かれたが、あいにく見ていなかった。
『そうですか』八島はたんたんと同意説明文書のページをめくり、
『それでは本題に入りましょう。今回はSU―4​8​0という治験薬と、それとまったく同じ見た目ですが薬効のない成分で作られた偽薬(プラセボ)を使用します。この両剤のどちらかが割り付けられますので、まず六日間、服用していただきます。そしてその間、採血や採尿をして薬物の体内動態を調べ、診察もして薬の効果も観察します。それから丸一日間のウォッシュアウト期間――薬が体内から完全になくなる期間――を置いて、さらに六日間、服用を続けます。ただし、先の六日間でSU―4​8​0だった方は偽薬、偽薬だった方はSU―4​8​0に入れ替わります。これが表題にあるクロスオーバー試験の意味です。この方法によって、どちらに割り付けられても治験参加者は実薬による治療を受けられます。
 SU―4​8​0と偽薬のどちらを先に割り付けられるのかは半々の確率で、どちらを服用しているかは診察する医師も被験者の方たちも、双方とも分からない形で治験が進みます。これを二重盲検といいます。これは治療効果や有害事象の評価にバイアスがかからないようにするためのものです』
 ここまでのところで質問はないかと聞かれたが、なじみのない話のうえに情報量が多くて、とっさになにを尋ねていいのか頭の整理がつかない。『えーっと』と言いながら続く言葉を出しかねていると、そういった反応になれているのか、八島は、『なにか思いついたら、話の途中でもいつでも聞いてくださいね』と言い、また同意説明文書のページをめくり、治験の進行の説明に移った。
『治験の参加にご同意いただけましたら、まず、さいしょにスクリーニング検査をおこない、坊咲さんの身体の状態が治験参加に適しているか確認します』
 このスクリーニング検査の結果は約一週間後に分かり、そこで不適格となると今日の交通費だけ支払われ、治験には参加できないという。
『治験参加となりましたら、十三日間入院していただき、先ほど説明した投薬治療をおこないます。また、この治験では薬物の体内動態を調べますので、第二相や第三相試験に比べて採血の回数が多いのが特徴です。とくにさいしょの投薬後は十五分、三十分、一時間、二時間とあって、その後もご覧の様に間隔をあけながら計八回の採血をします。その後はウォッシュアウト期間を含めて一日三回の採血をして、治験薬が入れ替わる二度目の投与開始日にはまた八回の採血をおこないます』
 というかなりハードな治験スケジュールを、八島は文書の中の図表を示しながら説明したのだった。

 今、医師の診察を終えて、坊咲たちは診察室の外に置かれた長テーブルの前に一列に並んでいた。テーブルの上には人数分の水の入った紙コップが置かれている。
 いよいよ第一回目の投薬。
 八島が治験薬の箱が積まれたワゴンカートを押して被験者たちを回る。箱の数は被験者の数と同じ十個。箱の側面には被験者ごとの番号が記されていて、中のヒートシールには1から12までの番号がついている。この数字の順に一日一錠、飲んでいくのだ。
 八島は被験者の前に来ると、「A―1番の小島和明こじまかずあきさんでまちがいないですね」と確認して、箱から出したヒートシールから1番の錠剤を取り出して手渡した。白い楕円形のなんの変哲もない錠剤。
 全員に錠剤が渡ると、八島はストップウォッチ付きの腕時計を手にした。
「A―1とA―6の方はお薬を飲んでください」
 全員が一斉にではなく、採血にかかる時間を考慮してか、一分の時間差を置く。
 次々と被験者が服用する中、坊咲もいつでも飲めるように準備する。順番からいうと最後から二番目だ。
「A―4とA―9の方、飲んでください」
 八島の声で、坊咲は白い錠剤を口に入れ、紙コップの水でいっきに飲み込んだ。とくに匂いも味も感じない。なんの違和感もなく薬は喉を通った。ほかの被験者たちもとくにリアクションはなかったので同じような感覚なのだろう。
 全員が飲み終えると、しばらく待機の時間が訪れる。すでに深田と今宮が部屋のわきで細長いテーブルの上に、注射器や採血管などの道具を準備して待ち構えている。
 十五分後の初回の採血を待つ間に、なんだか喉が渇いてきた。それだけ緊張しているのだろうか。
 ジュースを飲みたかったが、もちろん、採血が終わるまでそれはできない。
 時間を計っていた八島がやがて、
「では、みなさんこちらへ」
 と採血のテーブルの前に並ぶよう指示する。A―1とA―6を先頭に二列に並んで待つ。
「採血してください」
 八島の合図でふたりの治験コーディネーターは、手早く被験者たちの腕にチューブを巻き注射針を刺す。A―1とA―6の被験者は神妙な面持ちで身をゆだねている。
 さいしょの被験者たちが採血を終えると、A―2の被験者とA―7の亜館の番だ。深田に腕を取られた亜館は、「ひゃっ、ひゃっ」と声をあげた。さらに注射針が近づくと、
「苦手なんだよねえ。こういうの」
 あきらめ悪く、身をよじって腕を引っ込めようとする。
「時間が限られているのでご協力お願いします」
 と言いながら八島は、なぜかおかしそうに笑った。深田と今宮も笑いをこらえるように口を固く結んでいる。亜館はばつが悪そうな顔をして抵抗をあきらめた。
 そんなに採血が嫌だったら、なぜ治験に参加したのだろう。坊咲はなかばあきれながら、注射針が刺さるとまた「ひっ」と声をあげた亜館を見やった。
 一回目の採血が終わると、十五分後にすぐ採血、またさらに三十分後に採血があり、そのあとも一時間後、二時間後と採血が続く。留置針を使用するため新たな針刺しもなく、その後は亜館も無駄に騒ぐことはなかった。
 採血のタイミングは八島がしっかりとストップウォッチ付きの腕時計で管理して、厳格におこなわれた。その間、坊咲たち被験者は病室から出ることも許されず、実験動物のようにひたすら血を抜かれる。
 ただ、一回ごとの採血量はそれほど多くもなく、八島が「気分が悪くなったりしてませんか」と何度となく確認したが、不調を訴える者はなかった。


 治験初日はいつも緊張する。ことに今回のSU―4​8​0は、国内外の注目の的となっている治験だ。失敗は許されない。
 昨日は病院長と事務長がそろって治験管理室に顔を出して、『プロトコール違反など出さないよう、しっかり気を引き締めておこなうように』と訓示を垂れた。
 八島優里が治験コーディネーター(CRC)として市西総合病院に勤務してまもなく二年になるが、病院長と事務長の姿を治験管理室で目にしたのはこれがはじめてである。
 気の弱い室長の黒井和麿くろいかずまは真っ青になり、ふたりを最敬礼で見送ったあと、
『治験薬は適切に管理されているのか』
『治験手順はしっかり頭に入っているか』
『被験者たちは時間どおり来院するのか。確認の電話を入れておいた方がいいのではないか』
 と小うるさく八島につきまとい、業務を妨げてくれた。
 今朝も八島や深田たちのデスクの周りを意味もなくうろちょろして、いたずらに緊張感を高めている。
 知る人はほとんどいないが、八島にとってもSU―4​8​0は特別な意味を持つ治験薬だ。黒井に言われるまでもなく、あらゆる事態を想定して準備を進めてきた。失敗できないという思いは、ほかのだれよりも強い。
 八島と治験とのかかわりは、会社員時代から数えて十年近くになる。ただ、第一相試験にはこれまで縁がなかった。通常、第一相試験は専門のクリニックなどでおこなわれることが多く、市西総合病院としてもはじめての実施となる。短時間で正確に採血をおこなう手順、複数の被験者に正しい番号の治験薬を渡して服用させる段取りなどを、ほかのCRCたちと何度も確認した。
(そろそろ)
 腕時計を確認する。被験者たちがあらわれる時刻だ。
 八島は自分のデスク上に置かれた《アレルギー性鼻炎患者を対象としたSU―4​8​0製剤の二重盲検クロスオーバー試験》の治験実施計画書を手に取って立ち上がった。「いよいよだね。症例ファイルは全員分そろっている? 検査キットの準備も大丈夫?」
 黒井が声をかけてくる。このあと黒井は病院内のミーティングに出席するため、SU―4​8​0にはかかわれない。それでよけいに気がかりなのだろう。「ご心配なく」
 軽くいなして、深田と今宮とともに向かいの会議室へと避難した。
「黒タン、今朝も粘着してきたわね。優里さんに」
 被験者たちの椅子を整えながら深田が言った。
「それだけ今回の治験が心配なのよ。変に注目を浴びてるから」
 八島が答えると、今宮が深田と目配せをして、
「それだけじゃないと思いますよ、黒タンが優里さんを見る目は、妙にぎらついてますから」
 と笑いあった。
 ふたりは看護師でCRC業務に就いて半年ほど。深田は三十代後半、今宮は二十代で、ともに好奇心が旺盛。なかなかに勘も鋭い。
 黒井はメガネの薄毛の小男で四十過ぎの独身男だ。趣味は昆虫採集とプラモデル作り、という情報を聞かされたのは昨年の八島の歓迎会の席。ぽつんとひとり離れて座っていた黒井にうっかり声をかけたのが運の尽き。えんえんと長野県への昆虫採集旅行の話に付き合わされた。興味など微塵もなかったが、新入りなので形ばかり熱心に耳を傾けていたところ、『いやぁ、なんだか、八島さんとはとっても相性がよさそうだ。不思議な縁を感じるなあ』と、ねっとりとした視線を絡みつかせてきたので鳥肌が立った。
 以来、なにかと八島にまとわりついて、その下心が同僚たちにも見透かされ、からかいのネタにされているわけだが、悪いことばかりではない。直属上司の黒井に目をかけられていれば、様々な恩恵も期待できる。それは今の八島には重要なことだった。
「黒タンのことはもういいから。今日の治験、失敗のないよう、気を引き締めていきましょう」
 八島はそう言って、間もなくやってくる被験者たちを迎えるため、廊下に出た。

 被験者たち十人は全員予定の時間までにあらわれ、事前説明、病室への誘導、診察と滞りなく進んだ。
 治験は、診療や医学的判断をおこなう治験責任医師と治験分担医師、補助的な業務を担うCRCの分業で進められる。ただ、担当する医師たちはその疾患領域の専門家だが、治験そのものに精通しているとは限らない。
 治験では通常の診療ではおこなわない検査や採血、採尿などを決まったタイミングで実施するよう治験実施計画書に定められていて、時間が大きくずれたり欠測したりすると、薬剤の効果や安全性にかかわる重要なデータが失われてしまう。そういうミスが出ないよう目を光らせるのも、CRCの責務だ。院長が『プロトコール違反など出さないよう』と釘を刺したのも、治験におけるCRCの重要性を認識しているからこそだろう。
 今回の試験は第一相と第二相のハイブリッド試験という珍しい形式のため、日ごろ八島たちが実施している治験に比べても採血、採尿の回数が多く、時間の縛りもシビアだ。また入院での治験をおこなうのは八島にとって久しぶりとなる。スムーズに進めるには被験者たちの協力も欠かせない。
 今回の被験者たちは、アレルギー性鼻炎の患者十名。すべて男性で、年齢は上が五十七歳、下が二十二歳。どことなくみな、黒タン風味を濃厚に漂わせているように感じるのは気のせいか。それでも八島の指示におとなしく従ってくれるし、比較的年齢層が若いため、説明の理解度もまずまずのようだ。
 医師による被験者全員の診察を終え、治験薬の第一回目投与も無事終わった。投与十五分後の一回目の採血も、深田と今宮が準備万端整えて待機している。
「では、みなさんこちらへ」
 被験者を投与順に並ばせる。にらめっこしていた時計の針が予定の時刻に近づくと、
「採血してください」
 八島の指示で深田と今宮がさいしょの被験者たちの腕に注射針を刺す。 アクシデントは次の被験者で起きた。A―7の亜館健三郎が「ひゃっ、ひゃっ」と奇声をあげ、さらに「苦手なんだよねえ。こういうの」と腕を取られまいと抵抗したのだ。
「時間が限られているのでご協力お願いします」
 思わず笑いながら八島は注意する。深田と今宮も必死に笑いをこらえながら採血を続けている。
 亜館はスクリーニングの採血のときも八島を手こずらせた。そのため事前の採血のシミュレーションで、同じ状況を想定した訓練をおこなった。そのとき患者役をした八島自身の少し大げさな科白と身振りが今の亜館とそっくりだったので、笑ってしまったのだ。しかし、結果、亜館がおとなしく採血に応じたので、訓練は無駄ではなかったといえよう。
 被験者たちは十三日間、同じ空間で生活をともにする。集団生活を乱す人物がいたら厄介だ。もしかすると、亜館の存在は危険因子となりうるかもしれない。いかにも変人じみた風体、言動。それだけで偏見を抱くのはよくないかもしれないが、治験を成功させるためには細心の注意も必要である。
 さりげなく観察すると、亜館は同室のA―8の斎田やA―9の坊咲と親しく言葉を交わしている。社交性はあるようだ。
 その後は混乱もなく、三十分後、一時間後と各回の採血がプロトコールどおりにおこなわれた。
「次の採血までは時間がありますので、みなさん、ゆっくりお過ごしください」
 八島はそう告げて、深田たちといったん病室を出た。

「八島さん、たしか今日からでしたよね、SU―4​8​0」
 治験管理室へと戻る廊下で声をかけてきたのは佐伯祐司さえきゆうじだった。
 佐伯は四十二歳の独身、そのまま医療ドラマに出演しても違和感のない清潔な二枚目、うっとりするようなバリトンボイス、かつ長身。理想の医師像を体現したような耳鼻科部長である。
「はい、今、ちょうど投薬と採血をしてきたところです」
 答えながら八島は動悸の高まりを覚える。
「あとで、ちょっと覗いてみようかな。あっ、かかわっちゃいけないんだったかな」
「いえ、治験に関する医療行為をしなければ大丈夫です。もし、お時間があれば、ぜひ、見に来てください」
 声が弾んでいるのが自分でも分かる。
「ああ、それじゃ、また夕方にでも」
 と手をあげて去る佐伯の後ろ姿に、八島は頭を下げた。横で深田が興味津々の視線を向けている。来週、佐伯とデートを約束していると知れば、どんな顔をするだろう。
「佐伯先生には今回の治験に入ってもらいたかったわよねえ」
 深田が探りを入れてきた。八島の反応から、佐伯との親密度を測るつもりなのだろう。
「そうですね」
 そっけない八島に、
「だって、佐伯先生、アメリカでSU―4​8​0の治験に携わってこられたんでしょう。責任医師の資格は充分よ」
 深田がしつこく食い下がる。
 佐伯祐司はひと月前までアメリカのメリーランド州にあるJ病院に籍を置き、日本より二か月先行して実施されたSU―4​8​0の治験にも関与していた。現在は市西総合病院の耳鼻科部長と遺伝子医学研究所の主任研究員を兼務している。
 耳鼻科部長だけでも激務なのに、政府が重点的に支援する遺伝子医学研究所でも、小分子RNAの機能解明から創薬応用への研究をおこなっている。むしろこの研究開発こそが佐伯の本分ともいえよう。佐伯たちのグループが開発した核酸合成技術は世界的にも注目され、ここから次世代の画期的新薬が続々と生まれるであろうとの期待も高まっているのだ。
「診療も担当され、研究もお忙しいのだから、治験なんかにとても手が回らないわよ」
 これ以上佐伯の話題に深入りしたくない八島は断ち切るように言った。

 八島は治験管理室に戻り、SU―4​8​0の投与のために持参した症例ファイルを、手提げ袋から取り出した。
 症例ファイルは被験者ごとに一冊あり、治験期間中におこなわなければならない投与や診察、検査の結果などを、書き込めるようになっている。
 被験者の治験参加同意日からスクリーニング検査日、投与開始から終了日まで、実施必須の項目が各日一ページにまとめられ、クリアファイルに入っている。治験期間中の検査や採血は、日ごとに微妙に回数や内容が変わったりするのだが、この症例ファイルどおりに実施して記入を埋めれば間違えることはない。また記載部分はシールになっており、そのままカルテに貼れるため、転記ミスなども起きない配慮がされている。
 記入もれがないかざっと見直しながら、一冊ずつデスク横のファイルワゴンに戻していると、ひらりと紙が舞って床に落ちた。メモ用紙のようなベージュ色の紙片だ。なにか書いてある。
 拾い上げて文字に目を走らせる。

 SU―4​8​0治験は呪われている。必ず失敗する 

 いたずらか。にしては手が込んでいて悪質だ。文字は印字され、筆跡は分からない。
 そっと周辺に目を配る。深田は採血に使用した機材の片づけをしていた。今宮は採血したサンプルを検査室へ運んでいて不在。ほかの治験のCRCたちは自分たちのデスクで資料を読んだり、カルテの整理などをしている。黒井をはじめ不在の者も多い。
 紙片を握りしめて、汚物のように屑籠に投げ捨てる。しかし、思い直して屑籠から取り出し、手のひらでしわを伸ばしながら広げる。
 紙片は症例ファイルに挟まれていた。いつ入れられたのか。治験管理室に戻ってからは、八島以外だれも症例ファイルに近づいていない。
 とすれば、先ほどの投与時だろうか。あの場にいたのは、八島たち三人のCRCと治験責任医師の榊原さかきばらと被験者たち。
 バタバタしていたので、診察室の隅のテーブルに積んであった症例ファイルに接触するのは容易だったろう。容疑者はあの場にいた者たちか。
 いや、よく考えてみれば、その前にずっと症例ファイルは八島のデスク横のファイルワゴンに置きっぱなしになっていた。かなり前に細工をされ、たまたま先ほど落ちたとすれば、容疑者の範囲はずっと広がる。治験管理室にいる者全員が対象となろう。さらに言えば、治験管理室は日中施錠されていないので、部外者でも侵入できる。ただまったく無人の時間はほとんどないため、じっさいに部外者が侵入して症例ファイルに細工したとは考えづらいが、可能性としては皆無ではない。
 つまり紙片を仕込んだ人物の特定は困難ということだ。
(そもそも)
 このメッセージはなにを意図しているのだ。SU―4​8​0治験が呪われているとはどういうことなのか。
 動揺が鎮まらないうちに、ミーティングから戻ってきた黒井が、
「今、SU―4​8​0の被験者さんたちのところへ寄ってきたんだけど、初日の投与、ぶじに終わったみたいだね」
 と言いながら八島の背後にすり寄ってきた。
 あわてて紙片を握りしめて立ち上がる。なにかを取りに行くふりをしようとするが、なにも取るものを思いつかず、うろうろ動き回る。斜め前のデスクの深田が笑いをかみ殺している。
 しばらく書類棚の前で探し物をしているふりをしていると、黒井が不可解そうな顔をしながらデスクについた。
 八島も小芝居をやめて自席に戻ると、すぐに黒井の大声が響いた。
「なんだ、これは」
 全員の目が黒井に注がれるが、席を立って近づく者はいない。なんでも大げさに騒ぎ立てる癖のある黒井を熟知しているからだ。騒いだあと、何事もなくケロッとしていることがままある。
 しかし、黒井は深刻な顔をくずさず、「ちょっと」と八島と深田を手招きした。
 深田と顔を見合わせ、しかたなく黒井のデスクの前へ進むと、
「これ」
 声をひそめて黒井がデスクの上の紙片を指した。

 SU―4​8​0治験は呪われている。必ず失敗する

 八島の手にある紙片とまったく同じ。印刷してそれぞれ仕込んだのだろう。
 深田がなにか言おうとするのを、黒井は手を突き出して制止し、
「騒がないで。僕もさっきは思わず声を出しちゃったけど」
「これ、どこにあったんですか」
 深田が声を抑えて尋ねた。
「分からないんだ。今、戻ってきて、デスクにこれを置こうとしたとき、落ちたようにも見えたんだけど」
 黒井は、いつも持ち歩き、細々したことをメモしているノートを示して言った。
「きっと、いたずらでしょ」
 深田が決めつけるように言った。
「そうだろうけど、いったいだれが」
 黒井が首をひねり、その直後、はっとしたような表情を見せて、
「さっき、SUの被験者たちのところへ寄ったとき、このノートを病室に置いたままトイレに行ったんだ。その隙に紙片を挟み込まれたのかもしれない。いや、きっとそうだ」
 今にも被験者たちの病室に取って返して、尋問でもはじめそうな勢いで立ち上がった。
「ちょっと」深田があわてたような声で、「いきなり被験者さんたちを犯人扱いしないでください。そのノートをほかでも置きっぱなしにしたことあるでしょ。その紙っぺらがいつ入ったかなんて決めつけられないじゃないですか」
 そう指摘され、黒井も少し落ち着きを取りもどしたようだが、それでもなお完全には納得できないのか、
「でも、SUとわざわざ断っているんだから、やっぱり被験者があやしいよ」
「だとしても、いきなり疑ってかかるのはまずいです。わたしの方からそれとなく聞いてみますから、黒井さんは動かないでください、いいですね」
 深田に念を押され、黒井は渋々うなずいた。

 紙片のことは気になったが、自分は動かない方がいいだろうとの思いもあり、深田に対応を任せた。
 病室へ行った深田は、被験者たちと話をして帰ってきた。
 治験管理室のミーティングスペースに、黒井と八島たち三人のCRCが集まった。
「全員と話をしましたけど、とくに怪しい感じはありませんでしたよ」
 深田は、黒井がノートをなくし、病室に忘れたかもしれないと、被験者たち一人ひとりに尋ねて回ったという。
「挟んであった紙片のことにもそれとなく触れましたけど、とくに反応はなかったです」
 黒井も時間をおいて少し冷静になったのか、
「この件については、とりあえずこのまま様子を見よう。単発のいたずらで終わるのなら大騒ぎすることもない。もし今後も同じようなことが続くとなれば、上に報告して対応を協議する」
 と結論づけた。
 八島たちも同意して仕事に戻った。
「でも、いたずらにしても、だれかがこの治験の邪魔をしようとしてるのは確かですよね。なんだか気味が悪い」
 今宮が小声でささやきかけてきた。
 もうこの件には触れたくなかったが、あまり無関心だと思われるのもよくないので、
「ええ、そうね」
 と適当に相づちを打つ。
 ふだんならいちばんこういう話題に乗りそうな深田が、
「黒タンが言ってたでしょ。今は大騒ぎすることないって。目の前の仕事に集中しなさい」
 とたしなめると、
「はぁーい」
 今宮が気のない返事をした。

 被験者たちの次の採血まで、まだ二時間半ある。八島は自分のデスクでSU―4​8​0の次に予定されている治験の同意説明文書案に目を通した。
 同意説明文書は、被験者に治験の概要を説明し、参加の同意を取るツールである。治験全般についての解説から、その治験薬についての説明、治験スケジュールや参加するメリットとデメリットなどが医学の素人にも理解できるよう平易な文章とイラストでつづられている。
 治験実施病院ごとに治験責任医師が作成する建前になっているが、八島の経験上、医師が同意説明文書の作成に深くかかわったことはない。治験を依頼する製薬会社側が原案をもとに、実施病院の作成基準に照らして変更するのが常であった。
 八島も製薬会社時代には、実施病院のテンプレートに合わせて同意説明文書を作成したものだ。今は製薬会社の担当者がメールで送ってきた市西総合病院バージョンの同意説明文書案に不備がないかチェックをしている。
 ひと通り確認を終えて、電話で製薬会社の担当者と修正箇所を話し合ったあと、時計を見ると次の採血までまだ一時間近く余裕がある。
 ちょっと早いが被験者たちの様子を見に行こうか迷っていると、デスクの電話が鳴った。
「八島さん、今資料が届いたんだけど、顔出せます?」
 事務の木村比呂美きむらひろみだった。「ええ、ちょうど手が空いたところ」
 八島は席を立ち、一階の事務室へ向かった。

 一階の事務室は総合受付の奥に広いスペースを確保している。課ごとに四つないし六つからなるデスクの島があり、島ごとの間隔もゆったりとしていた。
 八島の仕事場の治験管理室が現在、空調設備の改修工事中のためきわめて手狭で、デスクの周りは治験審査委員会(IRB)に提出するファイルや、症例ファイル、検査キットなどが詰め込まれた段ボール箱で足の踏み場もないのとは大違いだ。
 ところが、きれいに整理された木村のデスクにその姿がない。きょろきょろしていると、
「こっち、こっち」
 木村が部屋の隅のパーテーションの向こうから手招きした。
「ここが準備委員会の会議室」
 パーテーションに囲まれた狭いスペースに長方形のテーブルとパイプ椅子が並び、床に置かれた口の開いた段ボール箱から紅霊祭の資料とパンフレットが覗いている。
「すごい量。これ全部、目を通すの」
 目を見張る八島に、木村が首をふって、
「祭りの資料がすべて送られてきたんだけど、うちがかかわるのはこっち」
 と言って、テーブルの上の書類の束を指した。
 毎年秋に開催される紅霊祭には、全国から五十万人の観光客が訪れる。古くは鎌倉時代からこの地域の秋の収穫祭として細々と続いてきたものが、一九六〇年代後半に中総市主催のイベントとなり徐々に全国にその名が知られるようになった。九〇年代にはじまった祭りの目玉のひとつ、女神コンテストも江戸時代から語り継がれる伝説に基づいたものだという。
 祭りのメインは中総駅前から延びる大通りでおこなわれる神輿行列だが、女神コンテストもその優勝者から過去に人気アイドルや女優が輩出されたこともあり、注目度が高い。
 女神コンテストは例年、市の文化センターで開催されていたが、昨年末、築二十五年の建物が耐震基準を満たしていないと判明し、今年は市西総合病院の敷地内の大広場を会場にすることとなった。そこで病院職員の中から紅霊祭準備委員会のサポートチームが組織され、八島もその一員に加わったのである。
 先日、市役所内で、市職員やボランティアを交えた準備委員会の第一回会合があり、八島も木村とともに出席した。
 そこで女神コンテストの開催に向けて、会場レイアウトの決定、アルバイトスタッフや必要な機材の手配など、無数の作業の説明を受けた。ただ、多くは市が契約しているイベント会社が代行するため、八島たち病院スタッフは確認や連絡係をすればいいことも分かり、ほっとした。
「これがいちばんの大仕事ね」
 八島はテーブルの上の書類をパンパンと叩いた。女神コンテスト参加者の応募書類だ。木村がうなずき、
「さいしょは三千通あったんだって。とりあえずイベント会社の方で三百まで絞ってくれた」
 第一次選考で十分の一に減った候補者を、さらにスリムに五十人にするのが八島たちの役目。そのあと準備委員会の幹部たちが本選へ進む二十人を厳選する。コンテスト当日、本選の審査員を務めるのは市長のほか市出身の文化人や芸能人など。そこで見事ミス女神を射止めたラッキーガールは一年間、市の観光大使として様々なイベントに参加して脚光を浴びる。
「将来の大スターがここから生まれるかもしれないんだから、責任重大ね」
 と八島は笑う。
 じつのところ女神コンテストという催しに複雑な感情を持っているのだが、それは面には出さない。あまり気にせず、神経を使う業務が連続する合間のちょっとした息抜きと考えよう。
 椅子に座り、木村がより分けた書類の山に手を伸ばしたところで、パーテーションの向こうから人が近づいて、顔を覗かせた。
「CRCの八島さんいます?」
「はい」
「治験管理室から今電話があって。病棟でなにかあったようですよ」



*続きは、6/21発売『治験島』でお楽しみください。

■あらすじ

世界が注目する新薬治験の現場で、得体の知れない事件の数々が被験者たちを襲う!治験が終わるまで島から出ることは許されない。狙われているのは被験者か病院か、それともこの島か――。

徹底的に公正さを追及した隔離環境で、いかに犯行が起こったのか。
治験という〝密事〟を舞台に描く、ノンストップ・ミステリー!

■書籍情報

治験島ちけんとう
著者:岡田秀文
装画:草野 碧
装丁:大岡喜直(next door design)
発売:光⽂社
発売⽇:2023年6⽉21⽇(水)
※流通状況により⼀部地域では発売⽇が前後します
定価:2,145円(税込み)
版型:四六判ソフトカバー

■著者プロフィール

1963年、東京都生まれ。明治大学卒業。1999年「見知らぬ侍」で第21回小説推理新人賞を受賞し、2001年『本能寺六夜物語』で単行本デビュー。2002年『太閤暗殺』で第5回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。2014年『黒龍荘の惨劇』が日本推理作家協会賞、本格ミステリ大賞の候補に。主な著書に『伊藤博文邸の怪事件』に始まる〈名探偵月輪シリーズ〉のほか、『白霧学舎 探偵小説倶楽部』『戦時大捜査網』『首イラズ 華族捜査局長・周防院円香』『維新の終曲』などがある。

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