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亡霊に呪縛された国|千街晶之・ミステリから見た「二〇二〇年」【連載最終回】

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文=千街晶之

第七章 亡霊に呪縛された国(最終回)

 今回で最終回を迎えるこの連載を最初から読み返してみると、安倍晋三あべしんぞう元首相の名前がどの章にも登場していることに気づいた。第一章では、長期安定政権という極めて有利な条件があったにもかかわらずコロナ禍に対し後手後手の対策しか取れず、事態を投げ出すように退陣した首相として。第二章では、結果的にコロナ禍の混乱の中で開催されることになった東京五輪を招致し、そのために福島原発について「アンダーコントロール(状況は統御されている)」と無責任に断言した人物として。第三章では、安倍の「こんなひとたちに負けるわけにはいかない」といった発言や、彼自身の国葬の是非が国民を敵味方に分断してきたことについて。第四章では、森友もりとも加計かけ学園問題や山口敬之やまぐちのりゆきによる性犯罪といった諸問題において忖度の力学が働いた背景として。第五章では、「一部の政党や政治家が生活保護への敵意を煽ってきた」という野党議員の指摘に対し、それは自民党ではないと強弁した人物として。第六章では、自主回収された樋口毅宏ひぐちたけひろの小説『中野正彦の昭和九十二年』の主人公が命を狙った対象として――。そして連載途中(第二章の執筆途中)の二〇二二年七月八日、『中野正彦の昭和九十二年』の内容をなぞるかのように、安倍は奈良県大和西大寺やまとさいだいじ駅付近で参院選の応援演説中に銃撃を受け、命を奪われた。
 まことに衝撃的な事件と言うべきだろう。首相経験者が暗殺されたのは、戦後日本では初めてのことだったし、銃器が厳しく規制されている日本では、要人への狙撃事件は(一九九五年の警察庁長官狙撃事件、二〇〇七年の長崎市長射殺事件などの例はあるにせよ)滅多に起きるものではなかった。狙撃犯の山上徹也やまがみてつやはその場で逮捕されたが、彼の口から犯行動機が明かされることにより、国民は第二の衝撃を受けることになる。
 山上の母親は、韓国人の文鮮明ムンソンミョンを教祖とする統一教会(世界基督教統一神霊協会、現在は世界平和統一家庭連合。本稿では統一教会の略称を用いる)の信者であり、彼女の多額の献金によって一家は破産し、山上はそのため貧困の中で育ち、大学進学も断念せざるを得なかった。統一教会を怨んだ山上は、最初は統一教会の現総裁・韓鶴子ハンハクチャやその一族を狙おうとしたが、安倍晋三が二〇二一年、統一教会のフロント団体である天宙平和連合(UPF)が韓国の清平チョンピョンで開催したイヴェントにヴィデオメッセージで祝辞を送り、韓鶴子を礼賛したことを知って、殺意の対象を安倍に切り替えたという。安倍への殺意が理不尽な八つ当たりであったか、彼なりに理屈の通ったものであったかは、統一教会と日本の政界の関係を振り返って検討する必要がある。
 一九五四年に韓国で文鮮明が設立した統一教会は、一九五八年には宣教師の密入国というかたちで日本に入ってきている。韓国では、一九六一年に朴正煕パクチョンヒが軍事クーデターによって実権を握り、一九六三年に韓国大統領となったが、折しも一九六〇年には日本の安保闘争と岸信介きしのぶすけ内閣の退陣、一九六二年にはキューバ危機、一九六五年にはベトナム戦争勃発……と共産主義が関係する国際的な動きが目立っていた。そのような中、統一教会は反共の旗印を掲げていた朴正煕と手を結ぶ。こうして韓国政府を後ろ楯とした統一教会は、岸信介をはじめとする日本の政界の反共勢力にも食い込もうとする。一九六四年には日本統一教会が宗教法人として設立され、その本部は、岸信介邸があった渋谷区南平台なんぺいだいに移転してきた。そして一九六七年には、本栖湖もとすこで文鮮明ら統一教会幹部と笹川良一ささがわりょういちら日本の右翼が会合し、これを経て翌年には統一教会の実質的な政治工作部門である国際勝共連合が結成される。
 一九八〇年代には高額な壺を売りつけるなどの「霊感商法」(既に一九七〇年代から始まっていた)が盛んに報道されるようになり、一九九〇年代初頭には有名芸能人・スポーツ選手らが参加した合同結婚式がスキャンダラスに報じられたが、それでも教団と日本の政治家との蜜月は続いた(例えば一九九二年には、アメリカで実刑判決を受けているため日本の入国管理法では本来入国できない筈の文鮮明が来日しているが、自民党の実力者だった金丸信かねまるしんが便宜を図って強引に実現させたとされる)。しかし、冷戦が終わりを告げると、統一教会は表向きは相変わらず反共の看板を掲げつつ、かつて敵視していた北朝鮮に接近する。また日本の保守派にとっても、統一教会とつきあうメリットがこの時期から薄れてゆく。では何故、第二次安倍政権において両者の関係は復活したのか。
 岸信介の孫である安倍晋三は、当初は統一教会と距離を置いていたとされる。しかし第一次安倍政権が短命に終わり、更に民主党政権の成立(二〇〇九年)により自民党が下野げやを余儀なくされると、政権奪回のため、組織力のある統一教会と密接な協力関係を結ぶ方針へと切り替えた。また、自民党の下野と同じ頃、統一教会側にも危機が迫っていた。二〇〇九年、統一教会のフロント企業「新世しんせい」が警視庁公安部に摘発され、南東京教区本部事務所・渋谷教会・豪徳寺教会ごうとくじきょうかいにも強制捜査の手が入ったのだ(その年のうちに統一教会関係者に有罪判決が下った)。統一教会問題を長年取材している|鈴木エイトの『自民党の統一教会汚染 追跡3000日』(二〇二二年)によると、この時、公安部は本丸と言うべき教団本部への家宅捜索も視野に入れていたが、教団幹部が複数の警察官僚出身の有力な国会議員に庇護を求めたため実現しなかったという。
 ともに危機感を抱いていた安倍自民党と統一教会が協力関係となったのは一見自然な流れのようではあるが、そもそも統一教会は、世界にはアダム国家とエバ国家があり、後者である日本は前者である韓国に尽くさなければならないという教義を掲げている。更に、日本の信者からの過酷な集金や違法な商売によって得た大金を、アメリカや韓国の統一教会に送金していたことも知られる。本来なら、愛国者を気取る安倍やその支持者たちにとっては手を結べる筈がない相手である。しかし、長期政権を狙う安倍にとって、マンパワーが見込める統一教会は使い勝手のいい存在であり、「毒饅頭」であることは承知の上で手を伸ばしたのだろう(普通に考えれば愛国者というより売国奴と呼ぶに相応しい判断だが)。統一教会にとっても、冷戦の終焉によって反共という理念は優先されるべきものではなくなり、代わりに、家族構造における家父長制の重視や、LGBT問題や同性婚合法化へのバックラッシュといった反動的道徳において、安倍ら自民党保守派とは価値観を共有する余地があった。かくして両者の持ちつ持たれつの関係はどんどん深まっていったが、ついには二〇二一年、安倍はUPFのイヴェントに堂々とヴィデオメッセージを送るほどになった(同年、安倍の姿勢が統一教会の活動にお墨付きを与えていることを憂慮した全国霊感商法対策弁護士連絡会が安倍に公開抗議文を送付するも、安倍の国会事務所は受け取りを拒否した)。このような安倍の姿勢が、統一教会に対する山上徹也の憎悪に油を注ぎ、本来なら脇道であった筈の安倍本人への殺意のトリガーとなったことは想像に難くない。こうして歴史を振り返るなら、もちろん暗殺という行為そのものは認められないし、「怨念」が「殺意」に発展するまでに不可解な飛躍が存在するのも確かにせよ、山上が抱いた「怨念」自体は理不尽とは言えない。
 なお、事件の背景として統一教会の存在が浮上した際、自民党が教団との関係を躍起になって否定したり、安倍支持の右派が安倍と教団の結びつきを過小評価しようとしたことは予想通りだったが(例えば、ノンフィクション作家の門田隆将かどたりゅうしょうはTwitter〈現・X〉で安倍晋三は統一教会の天敵だったと繰り返し主張している)、左派は左派で、この事件は政治的テロではないという空疎な主張に走る傾向が見られた。個人の家庭事情に起因する動機ならば、その背景に岸信介から安倍晋三へと続く一族や日本の保守政党と統一教会との結託という政治的事情があっても、それを無視して矮小化わいしょうかしてもいいのだろうか。党派性の強い人々が自分たちに都合の悪い事実を無視または過小評価したがり、時には歴史修正まで行うという傾向は、右も左も関係なく、何が起こっても変わらないということは常に念頭に置いておきたい。
 この暗殺事件と、ここまで記してきたその背景を踏まえた上で、一旦、ミステリにおけるカルト宗教の描かれ方を振り返ることにしよう。
 日本において、終末論を掲げたカルト教団の代表と言えるのは、統一教会とオウム真理教だろう。ただし、前者は判明している限りでは直接的な殺人は行わなかったのに対し、後者は邪魔者と見なした弁護士一家や脱会しようとした信者を殺害するなどした末、自暴自棄とも言うべき毒ガステロを起こして自滅していった。政界との癒着で日本社会に勢力を拡大した前者に対し、後者は旧上九一色村かみくいしきむらに建設したサティアンと呼ばれる教団施設が象徴するように、社会に背を向けた自閉的な印象を漂わせていた。同じく終末論を教義に掲げつつも、統一教会の最終目的が極端な韓国中心主義に基づく理想社会の建設であり、そのため日本を含む各国の上層部に食い込もうとしたのに対し、オウム真理教は外部社会との敵対的闘争へと急速に傾斜していったという違いが指摘し得るだろう。
 ミステリの世界には、宗教団体をモチーフにした作品が少なくない。有名かつ古い例としては、アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』(一八八七年)のモルモン教(実在の教団を登場させた例)にまで遡るだろうか。海外ミステリでは他にも、ジョナサン・ラティマー『第五の墓』(一九四一年)、マーガレット・ミラー『まるで天使のような』(一九六二年)、エラリイ・クイーン『第八の日』(一九六四年)などが思い浮かぶ。日本でも戦前から小栗虫太郎おぐりむしたろうなどの作例があり、戦後にも高木彬光たかぎあきみつ『呪縛の家』(一九五四年)、天城一あまぎはじめ高天原たかまがはらの犯罪」(一九四八年)、西東登さいとうのぼる『蟻の木の下で』(一九六四年)といった作品が知られる。特に一九八七年から始まった「新本格」以降の本格ミステリには、法月綸太郎のりづきりんたろう誰彼たそがれ』(一九八九年)、綾辻行人あやつじゆきと『殺人方程式 切断された死体の問題』(一九八九年)、井上夢人いのうえゆめひと『ダレカガナカニイル…』(一九九二年)、貫井徳郎ぬくいとくろう慟哭どうこく』(一九九三年)、京極夏彦きょうごくなつひこ魍魎もうりょうはこ』(一九九五年)、麻耶雄嵩まやゆたかからす』(一九九七年)、笠井潔かさいきよし『天使は探偵 スキー探偵大鳥安寿』(二〇〇一年)、我孫子武丸あびこたけまる弥勒みろく』(二〇〇五年)、有栖川有栖ありすがわありす『女王国の城』(二〇〇七年)、井上真偽いのうえまぎ『その可能性はすでに考えた』(二〇一五年)、犬飼いぬかいねこそぎ『密室は御手の中』(二〇二一年)、白井智之しらいともゆき『名探偵のいけにえ 人民教会殺人事件』(二〇二二年)等々、風変わりな宗教団体がしばしば登場した。それらは必ずしもテロを起こすわけではないし、また邪教として描かれているとも限らないにせよ、世間から隔絶したその孤立性において、どちらかといえばオウム真理教型に分類し得るものが多い(例外もあるが)。クローズドサークル的な舞台設定や異形のロジックを構築する上では、閉鎖的な教団のほうが都合がいいというのもその理由として考えられる。本格ミステリ以外にも、五十嵐貴久いがらしたかひさ『交渉人 遠野麻衣子・最後の事件』(二〇〇七年。文庫化の際に『交渉人・爆弾魔』と改題、二〇二三年の再文庫化で『交渉人・遠野麻衣子 爆弾魔』と再改題・大幅改稿)のような作例があり、この作品の場合は地下鉄爆弾テロを起こした教団が登場したり、教祖が拘置所で精神のバランスを崩したりするなど、明らかにオウム真理教を読者にイメージさせようとしている。
 一方、統一教会を批判的に扱った小説としては、大藪春彦おおやぶはるひこ『処刑軍団』(一九七八年)、胡桃沢耕史くるみざわこうし『救世主第4号』(一九八一年。別題『翔んでる捜査官 麻薬組織ヲ壊滅セヨ!!』)あたりが知られている。『処刑軍団』には世界幸福協会、正式には世界キリスト教幸福追求協会なる韓国の宗教団体が登場し、教祖の天聖君チョンソンクンは外貨獲得のため日本に進出、元首相の沖山おきやまや現首相の福本ふくもと、商業利権右翼のボス・葉山善造はやまぜんぞうらと結託して国際統合連合なる反共団体を結成する。天聖君は言うまでもなく文鮮明、沖山は岸信介、福本は福田赳夫ふくだたけお(岸ともども統一教会との縁が深かった)、葉山は笹川良一、国際統合連合は国際勝共連合がモデルである。作中では「闇の検事」を名乗る男たちが、政財界・宗教界・裏社会にまたがって利権を貪る悪党たちを襲撃し、葉山や沖山を残虐な方法で処刑する(大藪は岸信介をよほど嫌悪していたらしく、他の作品にも岸らしき人物をしばしば登場させて惨殺している)。『救世主第4号』では、主人公である内閣調査室の麻薬捜査官が最近アメリカで流通しているヘロインの出所を探るうちに、韓国に本部を持ち、教祖の問神命もんしんのみことなる人物が釈迦・キリスト・マホメットに続く「第四番目の救世主メシヤ」を称している教団の存在に突き当たる。この教団もまた、信者に壺や朝鮮人参を押し売りさせ、信者同士の合同結婚式を挙げるなど、統一教会を明らかにモデルにしている(なお『救世主第4号』発表後、胡桃沢は自宅を放火された)。一九八〇年代を背景に宗教勧誘活動の世界を扱った小森健太朗こもりけんたろう『駒場の七つの迷宮』(二〇〇〇年)に登場する教団は実在のものではないが、作中で言及される「一部の右翼との結びつきが強いとされる〈救済・栄光教団〉」(引用は文春文庫版)は統一教会のことだろう。黒川博行『悪逆』(二〇〇三年)には二つの教団が登場するが、いずれも霊感商法などによる荒稼ぎといい、与党「民自党」との癒着といい、統一教会型の教団に分類できそうだ。また、安倍晋三暗殺事件絡みで注目を集めている宗教二世の問題を扱ったミステリとしては、|逸木裕いつきゆう『祝祭の子』(二〇二二年)、石田衣良いしだいら『神の呪われた子 池袋ウエストゲートパークXIX』(二〇二三年)などがある。鯨統一郎くじらとういちろう『カルトからの大脱出』(二〇二二年)は、タイトル通り、カルト教団からの脱会を描いた珍しい例と言える。

 だが、ミステリというジャンルで統一教会を扱った作例としては、島田荘司しまだそうじ星籠せいろの海』(二〇一三年)が最も知られているのではないだろうか。瀬戸内海の小島の入江に身元不明の死体が次々と流れ着くという事件が起き、相談を受けた名探偵の御手洗潔みたらいきよしは現地に赴く。潮流を計算したところ、それらの死体は広島県福山ふくやま市から流れてきたらしい。福山に上陸した御手洗は、早速、日東第一教会という教団の合同結婚式を目撃する。この合同結婚式といい、教団トップ(尊師)の真喜多まきたことネルソン・パクが韓国出身という設定といい、日東第一教会のモデルはどう読んでも統一教会である。なお、この小説は二〇一六年、『探偵ミタライの事件簿 星籠の海』(和泉聖治いずみせいじ監督、中西健二なかにしけんじ長谷川康夫はせがわやすお脚本)というタイトルで映画化されたけれども、当然ながら統一教会を想起させる要素は完全に削ぎ落とされた。

 作中では幕末の黒船来航に際して、老中首座で福山藩主の阿部正弘あべまさひろが「星籠」という秘密兵器を用意したことになっている。御手洗は日東第一教会の日本進出に危機感を抱いており、幕末に比すべき国難としてこの教団の脅威を捉えていることがわかる。だが作中では、御手洗は「そういうレヴェルじゃない、事態はもっと深刻です。まずマスコミです。それから銀行、政界を調べてください。信者がいるはずです。彼らは工作員なんです(中略)現代の侵略は、常にこういうプロセスを踏みます。相手には、政権交代がないんです。韓国人の反日気運さえが策動なんです。北系の工作員が南の教育中枢に入り込んで、怨嗟えんさ教育を徹底する。すると揺るぎのない反日、反米感情が国民に醸成され、韓国は孤立する。これは韓日、韓米の分断作戦です。すると米軍離韓後、統一がたやすくなる。まだ誰も気づいていない。しかし国防のトップは、事態を見抜いています」(引用は講談社文庫版。以下同じ)と警察官たちに訴えかけ、「インターポールとの協力も必要になる」とまで進言しながら、日韓犯罪人引渡し条約があることを無視して、ネルソン・パクが韓国に逃げ込んだらおしまいであるかのように述べるなど、作中にはナショナリズム的発想の色濃さが随所に見られる。また、日東第一教会の後ろ楯は「某国のコンフューシャス教会が母体」と説明されるが、コンフューシャスとは孔子こうしのことだから、恐らく某国とは中国を示している筈だ。つまり北朝鮮と中国(および、利用される韓国)による日本侵略の危機を訴えているわけだが、現実には侵略どころか、首相を含む日本の中枢そのものが遥か昔から積極的に韓国系カルト教団と結託していたのであり、統一教会の危機をミステリのかたちで取り上げた先見性自体は評価できるにせよ、今読むとピントがズレた印象を否めない小説である。
 宗教の問題はここで置いて、ここからは安倍晋三という政治家個人に焦点を絞ることにしよう。安倍というと、ナショナリズムに訴えかける勇ましい発言が目立ったせいもあって、主に左派から右傾化への懸念が強く語られてきたけれども、実際に第二次安倍政権を振り返ってみると、そうしたファナティックなイデオロギーよりも有害だったのは、むしろ発展途上国の独裁者さながらに身内や取り巻きを優遇する姿勢だった(それが可視化されたのが森友・加計学園問題や「桜を見る会」問題である)。イデオロギーに基づく過激なファシズムではなく、生ぬるい利害関係の網の中で関係者たちの人間性がひたすら頽落たいらくしてゆく、それが安倍政権の本質だったのではないか。
 野党議員の立場を二度味わった安倍には、苦境の時期に自分を支えてくれた人間への恩義にあつい面があった――と記せば長所とも思えるけれども、そのせいで本来なら要職に相応しくない人物を軽率に取り立てたのだから、人間としての美点に見える部分は政治家としての欠点と表裏一体の関係にあった。その代表例が、二〇一二年の自民党総裁選で安倍の推薦人に名を連ねた河井克行かわいかつゆきを、首相補佐官や党総裁外交特別補佐などの要職に起用し、ついには法相に任命した件だ。周知の通り、河井克行と妻の河井案里あんりは選挙における不正を問われ、夫婦ともに逮捕され有罪判決を受けた。「法の番人」である法相に絶対任命してはならない人物だったのは明らかだ。
 更に、この件や「桜を見る会」の明細に関する疑惑などで首相の周辺にまで捜査のメスが入るのを防ぐべく、東京高検検事長(当時)の黒川弘務くろかわひろむを検察トップである検事総長に据えて「官邸の守護神」にしようとしたとも報道された。黒川の異例の定年延長の裏には官邸の意向があったとされているが、そのため法曹界や世間から轟然ごうぜんたる非難を浴びることになる。結局、二〇二〇年に新聞記者らと賭け麻雀をしていたと報道された黒川は検事長を辞職した。
 こうした「お友達」重視の姿勢は、NHKの会長・経営委員の人事にも見受けられる。二〇一四年、NHK会長に選出された籾井勝人もみいかつとは安倍寄りの人物であり、「政府が右と言っているものを、我々が左と言うわけにはいかない」という就任時の記者会見での発言からも窺えるように、NHKの政府からの中立性という原則を疑わせる言動が多かった。また、経営委員にも、右派の作家・百田尚樹ひゃくたなおき、保守系論客の長谷川三千子はせがわみちこ、安倍の家庭教師を務めたことがあった日本たばこ産業(JT)顧問・本田勝彦ほんだかつひこらが新たに加わった。
 こうして、政治・法曹・マスメディアなど各界に自分の言うことを代弁してくれる取り巻きを揃え、苦言を呈する人物を遠ざけた結果、第二次安倍政権下の日本は公文書の改竄から性犯罪の揉み消しまでが横行する人治国家に成り果てた。それが安倍の言う「美しい国」の実態である。では、安倍晋三の死去によって、日本は何かが変わっただろうか。そうだとも言えるし、そうでないとも言えるだろう。
 二〇二二年九月二十七日、賛否両論の中で安倍の国葬が行われたが、この日、東京地検特捜部は東京五輪組織委員会元理事の高橋治之たかはしはるゆきを受託収賄容疑で三度目の逮捕、贈賄側である「大広だいこう」の幹部も逮捕した。「絶対に高橋さんは捕まらないようにします」と約束した安倍の国葬の日と、この逮捕劇が重なったのが偶然か故意かは不明ながら、そもそも安倍が存命だった場合、東京五輪関係者が逮捕される事態はまず考えられなかっただろう。また、NHK政治部記者・解説委員として安倍政権に密着しすぎた姿勢が批判されてきた岩田明子いわたあきこがNHKを退局(同年七月)、安倍に近いジャーナリストの山口敬之が伊藤詩織いとうしおりに性的暴行を加えた事件で山口への逮捕状執行を見送ったとされる中村格なかむらいたるが安倍狙撃事件に引責して警察庁長官を辞任(同年八月)、竹中平蔵たけなかへいぞうがパソナグループ取締役会長を退任(同年八月)といった、安倍人脈に連なる人物が第一線から相次いで姿を消すという現象も見られた。そして安倍歿後ぼつごの最大の変化は、何といっても二〇二三年、統一教会への解散命令が日本政府から裁判所に請求される流れとなったことだろう(解散命令が確定した場合でも宗教上の行為は禁止されないものの、教団は宗教法人格を喪失し、固定資産税の非課税などの優遇措置が受けられなくなる)。
 しかし一方で、「安倍晋三的なるもの」は日本社会、特に政界に根強く残った。安倍政権における、民主主義的な手続きや熟議よりスピーディーな「決断」によって賛否両論分かれる問題を押し切ったり、政権の意向に沿わない人物を遠ざけたりする傾向は、その後の政権でも変わっていない。菅義偉すがよしひで政権は、日本学術会議が推薦した新会員候補者のうち六人の任命を拒否するという前例のない決定を行い、コロナ禍が第五波を迎え東京都に緊急事態宣言が発出されている中で東京五輪を強行した(十七日間の大会期間中、新型コロナウイルスの国内の新規感染者は十七万人を超え、医療を圧迫した)。「聞く力」を掲げた筈の岸田文雄きしだふみお政権では、大幅な防衛増税、原発の再稼働、マイナンバーカードの推進、インボイス制度の導入……といった諸問題が、反対や懸念の声を押し切り、さしたる議論もないまま決定された。中には迅速さが求められる問題もあるだろう。しかし、一度決めたことは反対の声が世間の多数派を占めても黙殺して遂行するという強権的な姿勢は、大きな弊害を生んでいるにもかかわらず、まるで安倍政権を見習うかのように相変わらず続いている。また、世襲貴族さながら、政治を代々継承すべき家業と捉えているかのような安倍家の姿勢には批判が強いが、岸田文雄の長男で、政治経験が殆どないにもかかわらず首相秘書官に任命された岸田翔太郎しょうたろうが、首相公邸での不適切な振る舞いを報道されて事実上更迭されるなど、政治家の世襲を当然と考えるような発想から生じた不祥事も後を絶たない。更に、右派的な主張を安倍に気に入られて自民党に引き抜かれ、異例の比例名簿上位扱いで当選を重ねた杉田水脈すぎたみお議員は、アイヌ民族への侮辱的な投稿が原因で、二〇二三年に国会議員としては初めて札幌法務局から人権侵犯の事実があったと認定されたにもかかわらず、自民党はその直後、そうした声を意図的に嘲笑うかのように、わざわざ彼女を党環境部会長代理に起用した(岸田首相にこの人事を進言したのは安倍派幹部の萩生田光一はぎうだこういちだと報じられている)。二〇二三年五月のG7広島サミットに向けて岸田政権が成立させようとしていたLGBT理解増進法に対しては、安倍派を中心とする自民党保守派から反撥はんぱつが相次ぎ、採決時には衆参両院の本会議で退席者が出た。朝日新聞二〇二三年七月九日の一面記事「銃撃から1年『安倍氏だったら…』」によると、LGBT理解増進法に反対する安倍派議員の一人は「(政治の)師である安倍先生に申し訳ない」とうなだれたという。本人はこの世を去っても、安倍晋三の亡霊は今も永田町を呪縛し続けているとも言えるのだ。安倍本人が生前、祖父である岸信介の亡霊の呪縛から逃れられなかったのと同じように。
 では、この憲政史上最も長く首相の座にあり、よくも悪くも大きな存在感があったことは確実なこの人物を、ミステリはどのように描いてきたのだろうか。
 近年のミステリにある程度目を通してきた感想としては、実はミステリの、というかフィクションの世界において、安倍晋三というのはそれほど存在感のあるキャラクターとして常に描かれてきたわけではない――Amazon Prime Videoで二〇二二年に配信された『仮面ライダーBLACK SUN』(白石和彌しらいしかずや監督、髙橋泉たかはしいずみ脚本)でルー大柴おおしばが演じた堂波真一どうなみしんいち首相のように、戯画的なまでに悪役化されたケースは別として。少なくとも、元首相にして現自民党副総裁であり、安倍の盟友ともライヴァルとも目されてきた麻生太郎あそうたろうのアクの強さには一歩を譲る。

 小松左京こまつさきょうのベストセラー小説『日本沈没』(一九七三年)を現代に翻案した連続ドラマ『日本沈没―希望のひと―』(TBS系、平野俊一ひらのしゅんいち土井裕泰どいのぶひろ宮崎陽平みやざきようへい演出、橋本裕志はしもとひろし脚本、二〇二一年)には、副総理兼財務大臣として里城弦さとしろげん石橋蓮司いしばしれんじ)という政治家が登場する。首相を凌ぐ隠然たる権力を持ち、経済が停滞するからという理由で、日本沈没の危機を国民に知らせようとする主人公の動きを妨害するこのキャラクターは、トレードマークである帽子を見ればモデルは麻生太郎だと一発でわかる。このドラマでのなりきりぶりが好評だったからか、石橋蓮司は同じTBS系の連続ドラマ『ラストマン―全盲の捜査官―』(土井裕泰、平野俊一、石井康晴いしいやすはる伊東祥宏いとうよしひろ演出、黒岩勉くろいわつとむ脚本、二〇二三年)でも、麻生を彷彿させるスタイルの政界のドン・弓塚敏也ゆみづかとしやを演じていた。
 しかし、ミステリドラマにおける「麻生太郎的なキャラクター」という意味では、最も注目すべきは連続ドラマ『エルピス―希望、あるいは災い―』(フジテレビ系、大根仁おおねひとし下田彦太しもだひこた二宮孝平にのみやこうへい北野隆きたのたかし演出、渡辺わたなべあや脚本、二〇二二年)だろう。十二年前に起きた「八頭尾山はっとうびさん連続殺人事件」の犯人とされる死刑囚が実は冤罪なのではないか――という疑惑を掘り下げはじめた大洋たいようテレビのアナウンサー・浅川恵那あさかわえな長澤ながさわまさみ)と新米ディレクターの岸本拓朗きしもとたくろう眞栄田郷敦まえだごうどん)に、局上層部や警察などから次々と妨害が降りかかる。彼らの上司であるチーフプロデューサーの村井喬一むらいきょういち岡部おかべたかし)は、かつて権力と闘って左遷された経歴を持っており、当初は浅川や岸本の動きを冷ややかに見ていたが、やがて彼らの姿からかつての自分を思い出し、二人を後援するようになる。しかし、週刊誌を味方につけた村井の作戦も、妨害の黒幕が次々と先手を打ったことで不発に終わる。
 十二年前から現在まで起こっていた一連の殺人事件で、警察の捜査やマスメディアの報道に圧力をかけていた黒幕は、元警察庁長官で副総理の大門雄二だいもんゆうじ山路和弘やまじかずひろ)だった。真犯人が、彼の後援会と関係のある人物だったからだ。のみならず、大門はかつて、自派閥議員が起こしたレイプ事件を揉み消しており、そのため被害者女性は自殺していた。

 作中の八頭尾山連続殺人事件は架空の事件ではあるが、番組のエンドクレジットでは清水潔しみずきよしのノンフィクション『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(二〇一三年)などの参考文献が紹介されており、モデルは北関東連続幼女誘拐殺人事件の一つで、逮捕された被疑者が後に冤罪だと判明した足利あしかが事件であると推測できるようになっている。だが、実は被疑者が死刑判決を受けつつも冤罪を主張しているという点では、作中の事件は一九九二年に福岡県で起きた飯塚いいづか事件をも想起させる。そして、大門副総理のモデルが麻生太郎だと考えた場合、飯塚事件モデル説は更に大きな説得力を帯びて浮上することになるのだ。
「リアルサウンド映画部」の二〇二二年十二月十二日の記事「『エルピス』と現実の震えるような符号 岡部たかし演じる村井の言葉が再び甦る」(筆者はライターの横川良明よこかわよしあき)では、大門と麻生に関する符合が次のように記されている。

 有力な政治家の出身地で起きた、冤罪疑惑のある事件と言えば、思い起こされるのが飯塚事件だ。本作では参考資料として足利事件に関する著作がいくつも挙げられているが、1992年に発生した飯塚事件は、その足利事件と並び「西の飯塚、東の足利」と称されている。

 女児2人の殺害容疑をかけられた久間三千年元死刑囚は、精度の低いDNA鑑定が決め手となり、逮捕。一貫して無罪を主張し続けてきたが、2006年10月8日、死刑が確定した。

 この飯塚事件が発生したのは、福岡県飯塚市。現副総裁・麻生太郎の地元である。その特徴的なハットや歪んだ口元、選挙ポスターなどから、大門が麻生太郎をモデルとしていることは想像に難くない。そして仮に大門のモデルが麻生太郎だとしたら、『エルピス』で描かれている八頭尾山連続殺人事件は、飯塚事件がモチーフの一つになっていると考えられる。

 その符合に気づいた瞬間、第1話から繰り返して観てきたある映像に、今までとはまったく違う意味が浮かんでくる。その映像とは、エンディングで流れるケーキの箱だ。そこに貼られているシールの賞味期限は2022年10月24日。これまでこの日付は本作の初回放送日を表していると見られてきた。

 だが、飯塚事件が下敷きになっているとしたら話は別だ。久間元死刑囚の死刑執行命令書にサインがなされたのは、2008年の10月24日。そして、その当時の内閣総理大臣は麻生太郎なのである。麻生内閣が成立したのが同年9月24日。それからわずか1カ月後のことだった。

 ただし、『エルピス―希望、あるいは災い―』というドラマで意識されている実在の政治家は彼だけではない。レイプ揉み消しの件は、麻生というより、むしろ山口敬之の一件における安倍晋三の役割を想起させる。また、第二話では、自分が伝えてきた報道の中に真実はどのくらいあったのかを自省する浅川恵那の回想シーンで、安倍首相(当時)の五輪招致時の「アンダーコントロール」発言の映像を使ったことが話題を呼んだ(映像が使われたのは本放送のみであり、配信やソフトでは権利関係かどうか不明だが静止画となっている)。こうした演出からも、現代日本の暗部に鋭く切り込むと期待された『エルピス―希望、あるいは災い―』だが、ラストはややカタルシスを欠くものとなった。浅川は、自分たちの知った真実(大門による自派閥議員のレイプ事件の揉み消し)を番組内で公表しようとするものの、浅川の元恋人の大洋テレビ報道局記者で、途中からは大門とツーカーの間柄のフリージャーナリストに転身した斎藤正一さいとうしょういち鈴木亮平すずきりょうへい)がスタジオに現れ、大門の代理の立場として浅川を制止しようとする。
 大門が逮捕されれば政界に激震が走り、内閣総辞職どころか政権交代もあり得る。世界情勢が緊迫している中、そんな事態に陥れば日本の国際的信用が失われ、株も暴落する。一キャスターの君にはその責任を取れないだろう……と浅川を説得しようとする斎藤。それに対し、「病人は自分の病名を知らなければ正しい治療なんかできない。病名を知らせるというカードを切った責任は、私個人が負いきれないものかも知れません。では、知らせないというカードを切っているひとは、その責任を負う覚悟を持って切っているのでしょうか? 私にはそうは思えない。そしてそれが最善のカードだとも思えません」と反論する浅川。結局、浅川は警察が八頭尾山連続殺人事件の真犯人を逮捕するのを大門に妨害させないという交換条件を出し、斎藤はそれを呑む。浅川や岸本にとって、当初の目的である冤罪の証明は果たせたものの、そのために、大門の他の悪事については沈黙を余儀なくされる――という苦い結末である。巨悪が逮捕されずに終わるのは、現実の日本そのままとも言えるリアルさだし、当初の目的を果たすためにはどこかで落としどころを見出みいさなければならないという考え方も間違ってはいないのかも知れない。しかし、そんな現実の日本のブラックホールさながらのおぞましい重力に、このドラマが抗いきれなかったように見えるのも事実であり、結末のつけ方を肯定するにせよ否定するにせよ、視聴者の胸中には持っていき場のないおりのようなものが残った筈だ。
 では、そのようにキャラの立った存在としてフィクションの世界で暴れ回った麻生太郎に対し、安倍晋三はどう描かれてきたか。
 純文学の方面ならば、田中慎弥たなかしんや『宰相A』(二〇一五年)の首相A、島田雅彦しまだまさひこ『虚人の星』(二〇一五年)の松平定男まつだいらさだお首相などの例があるが、ミステリ小説において明らかに安倍がモデルとわかる人物が登場する代表例は、第六章でも紹介した市川憂人いちかわゆうと『神とさざなみの密室』(二〇一九年)である。二〇一九年六月が背景となっているこの小説で、実際の安倍首相の代わりに登場するのは和田要吾わだようごという首相だ。子供がいない安倍に対し和田には妻子がいることになっていたり、スキンヘッドにしているため野党支持者から「生臭坊主」と呼ばれているなど、首相の個人的属性は変えてあるけれども、作中の和田の政治的行為や主張は安倍のそれをほぼ重ねており、「和田政権はまた、そうした政策を推し進めるためなら、私たちを欺くことさえ厭いません。特定のお友達に肩入れした罪をごまかすため、あるいは経済政策の失敗をごまかすため、官僚に忖度させて公文書を捏造して、統計さえ偽装して……行政のモラルを徹底的に破壊してしまいました」(引用は新潮文庫版。以下同じ)と主人公の一人である左派市民団体「コスモス」のメンバー・三廻部凛みくるべりんの口を借りて指弾されている。プロローグの「コスモス」によるデモのシーンに登場する「ワダ政治を許さない」というプラカードの文句も、安倍政権が左派によってしばしば「アベ政権」とカタカナ表記されるのを踏まえているのだろう。

 AFPU(引用者註:「在日特権」を主張する右派市民団体)に限らず、在日外国人や性的少数者――いわゆるLGBTの人々――への偏見や差別感情をあらわにする人々は、国会議員や著名人の中にさえ、少なからず存在する。あからさまに差別的な主張を唱える書籍が、出版不況の中、売れ筋のひとつになっているという話も聞く。国会議員の「LGBTに生産性はない」という問題発言を、「何が悪いのか」と擁護する文章を掲載したのは何という雑誌だったか。

 しかし、和田政権下では、与党議員が差別的発言を行ったところで、議員辞職するどころか離党処分を受けることさえない。

 このくだりは、雑誌《新潮45》二〇一八年八月号が杉田水脈の「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題した文章を掲載して炎上し、それを擁護する特集を十月号で組んだものの、その号で休刊となった件を示している(『神とさざなみの密室』の版元は他ならぬ新潮社であり、市川の気概が窺える)。作中、左派と右派の団体に属する二人の主人公はともに密室殺人事件に巻き込まれて危機に陥り、政治的に対立しつつも最終的には協力して真相に到達するのだが、現実には左派と右派の分断とそれぞれの急進化はその後ますます進むこととなった。
 第二章でも紹介した五十嵐貴久『コヨーテの翼』(二〇一八年)は、中東のカルト教団が東京五輪開会式の場で日本の首相の暗殺を企てるという内容だった。作中の阿南あなん首相は安倍首相がモデルだろうが、名前を除いて、実際の安倍の属性を想起させる描写は見当たらない。首相暗殺が描かれるといえば伊坂幸太郎いさかこうたろう『ゴールデンスランバー』(二〇〇七年)が有名だが、この小説の金田貞義かねださだよし首相は若くして首相になった人気の高い政治家と紹介されるものの、序盤で爆殺されるだけの極めて影が薄い存在である。一九三八年の満洲を舞台とする伊吹亜門いぶきあもん『幻月と探偵』(二〇二一年)では、安倍の祖父である岸信介(当時は国務院産業部次長)が事件の依頼人となる。満洲の阿片あへん利権を握ろうとする人物として彼を描くことで、安倍一族の権勢と富の背後にある闇に光を当ててみせる。

 秦建日子はたたけひこ『And so this is Xmas』(二〇一六年。文庫化の際に『サイレント・トーキョー And so this is Xmas』と改題)では、クリスマスを間近に控えた東京・恵比寿で爆発事件が起き、犯人は首相との生放送番組での対談を要求し、受け入れられなければ次の事件を起こすと宣告する。しかし、磯山いそやま首相は「日本国は、テロには屈しません。日本国は、テロリストといかなる交渉もいたしません。日本国は、テロリストの非道な犯罪に対して、断固、不退転の決意で戦うのみです」(引用は河出文庫版。以下同じ)と宣言。翌日、渋谷スクランブル交差点において最悪の事態が発生する。犯行の引き金となったのは、磯山の「日本も、戦争のできる国になるべきだ」という軽率な発言だった。
 この小説は、『サイレント・トーキョー』というタイトルで映画化され(波多野貴文はたのたかふみ監督、山浦雅大やまうらまさひろ脚本)、二〇二〇年十二月に公開された。だが、作中の磯山首相(鶴見辰吾つるみたつご)がどう見ても安倍晋三をモデルにしているのに、その安倍はこの映画が公開されるより前の同年九月に首相を辞任していた。作中のクリスマスの東京の風景が、コロナ禍で覆われた現実世界とは完全にかけ離れて見えたことも含め、いろいろとタイミングの悪さが目につく不運な映画化という印象が残った。
 そんな中、ミステリで安倍晋三を描いた小説家として最も注目すべきは西村京太郎にしむらきょうたろうである。膨大な西村作品のすべてに目を通せているわけではないことをお断りしておくが、私が読んだ限りでは、今世紀の作品では『十津川警部「標的ザ・ターゲツト」』(二〇〇二年)、『高知・龍馬 殺人街道』(二〇〇五年)、『死のスケジュール 天城峠』(二〇〇九年)が首相暗殺計画を扱っており、最晩年の『特急リバティ会津111号のアリバイ』(二〇二一年)では、首相の側近として新型コロナウイルス対策の旗振り役を務めていた財務省のキャリア官僚が新幹線の車内で殺害される。このうち、『十津川警部「標的ザ・ターゲツト」』に登場する、国民からの高い支持率を誇る河原英太郎かわはらえいたろう首相のモデルは、当時の首相・小泉純一郎こいずみじゅんいちろうと推測される。第一次安倍政権当時に執筆され、日本人拉致問題をめぐる北朝鮮との交渉を背景としている『死のスケジュール 天城峠』に登場する安達あだち首相は、「もし、北朝鮮が、拉致された人たちを返すと約束したら、前の小泉さんと同じように、首相自身が、ピョンヤンに飛ぶつもりなのかもしれないな」(引用は角川文庫)という十津川省三とつがわしょうぞう警部の発言からも窺える通り、安倍首相をモデルにしていることは間違いない。ただし、これらの作品における首相は、あくまでも事件の遠景に見え隠れする記号的存在であり、作中である程度好意的に描かれている河原首相を除けば、それほど強い個性が与えられているわけではない。
 ところがここに、唯一の例外とも言うべき小説が存在している。第二次安倍政権下の二〇一七年に刊行された『二つのダブル首相暗殺計画』だ。海路徳之かいじのりゆき首相が入院している病院の看護師が、心中と思われる状況で遺体となって発見される。看護師の曾祖父は、戦時中に東條英機とうじょうひでき首相暗殺計画に関わっていた(なお、東條英機暗殺計画は二〇〇九年刊の『悲運の皇子みこと若き天才の死』で既にモチーフとなっているのだが、『二つのダブル首相暗殺計画』の中で十津川警部がその事件を思い出す様子はない)。一方、入院中の海路に代わって、憲法改正を目指すタカ派の副総理兼外務大臣・後藤典久ごとうのりひさが実権を握るようになる。やがて海路は辞任し、いよいよ後藤が首相の座に就く。看護師変死事件の背後には政界の闇が渦巻いているのだろうか。
 後藤典久は山口県出身で、祖父の喜三郎きさぶろうも首相という設定である。十津川警部は部下の亀井かめい刑事に対し、後藤の人物像を「政治家としては、まだ五十代で、若い部類に入るが、そんな彼が、派閥を率いているのは、三代続いているエリートの後継者だからだ。祖父の後藤喜三郎は、戦中に軍部に協力した大物政治家で、戦後は戦犯として巣鴨刑務所に入っている。後に、特赦を受けて、政界に復帰し、現在の保守党創立者の一人だと、言われているんだ。父の後藤徹平てっぺいは、財務大臣や外務大臣を歴任し、総理大臣の椅子を目前にして、肺ガンで亡くなっている。従って、後藤典久にとっては、総理大臣になることは、三代を通した夢なのだ」と説明している。喜三郎・徹平・典久の後藤家三代が、それぞれ岸信介・安倍晋太郎しんたろう・安倍晋三をモデルとしていることは、誰の目にも明らかだ。
 だが、より重要なのは、十津川の旧知の記者・田島たじまの「そう考えると、今までの愚鈍な政治家たちとは違って、恐ろしい政治家だよ。彼が、権力者になれば、日本は、どんどん、右傾化していくだろうね」という見解や、十津川の「一部の有識者が、危惧しているのは、後藤副総理の三代にわたって引き継がれた政治信条だというのだ。明治から太平洋戦争の終わりまで続いた、富国強兵政策や、世界に畏怖される軍事大国を再び創り出そうという、時代錯誤の妄想に取りつかれていて、その実現のために、総理になろうと考えている、その恐ろしさだというのだよ」といった発言に見られるように、著者自身の後藤=安倍への警戒心が露になっている点だ。このあたりは著者の他の作品とは異色と言える。一九三〇年生まれで戦時中を知る西村にとって、安倍の言動は戦争への一線を越える可能性がある危ういものと映ったのだろう。
 クライマックスでは、この後藤を暗殺しようとする犯人側と、十津川ら警察側との攻防が繰り広げられる。だが、本作が衝撃的なのは、暗殺が阻止され、犯人が死亡したその後だ。十津川と交友があった犯人は、彼に「必ずこの責任を取れ。信じている」という遺書を託す。そしてこの作品は次のように締めくくられる(犯人の名前は××と伏字にした)。

 それが、××の遺書だが、その意味がわかるのは、十津川だけだろう。
 ××の自殺は、敗北を意味しない。「暗殺の責任」が、××から、十津川に、バトンタッチされたのだ。
 これから、十津川は、そのバトンタッチされた責任を背負って、生きていかなければならない。
 後藤首相を、暗殺しなかったために、独裁が生まれ、権力が集中して、日本と、日本国民が、危険な状況になった時は、死んだ××に代わって、首相暗殺を実行すると誓ったのである。
 ××の自殺によって、この誓いは、十津川の心の中で、より強固なものになったのだ。
 その時は、もちろん、警視庁には、辞表を出すことになるが、そのための辞表は、すでに、書いてある。

 驚くべき結末である。警察官である十津川が、旧友の遺志を継ぎ、いざという時は後藤を暗殺する覚悟を固めたというのだから。作中、十津川は戦時中という非常時における東條英機暗殺計画については理解を示すも、平時における首相暗殺計画は(他に取るべき手段があるという理由から)否定する。だが、その首相によって戦争が起こされようとする時は、もはや平時ではないのだから非常手段も選択肢に入る――というロジックなのだ。もちろん作者と登場人物の思想はイコールではないにせよ、西村自身の安倍政権への懸念と不安が滲み出た結末であることは間違いない。西村は安倍晋三の末路を見届けることなく、二〇二二年三月にこの世を去った。しかし、その後に起きたことを知るならば、まるで西村の死後、現実がこの小説に結末をつけたかのような摩訶不思議な感覚に襲われてしまう。
 安倍晋三を直接描かずとも、安倍が首相を務めていた時代の空気を描くことによって彼の姿を浮かび上がらせるという手法もある。第六章で紹介した似鳥鶏にたどりけい『生まれつきの花 警視庁花人かじん犯罪対策班』(二〇二〇年)は、安倍首相を支持し在日コリアンにヘイトを浴びせかける右派勢力を特殊設定ミステリのスタイルで批判した作品だが、本格ミステリとして成功していないことは第六章で言及した通りだ。では成功した例はというと、芦辺拓あしべたく『鶴屋南北の殺人』(二〇二〇年)が挙げられる。ロンドンで発見された四世鶴屋南北つるやなんぼくの幻の戯曲『銘高忠臣現妖鏡なもたかきちゅうしんうつしえ』を取り返してほしいという謎めいた依頼を受けた弁護士の森江春策もりえしゅんさくは、交渉のため、その戯曲が上演されようとしている京都に赴くが、劇場で変死事件に遭遇する。

 この作品で、森江は江戸と現代、舞台と現実が交錯する複雑な謎に挑むことになるが、ここで注目したいのは戯曲の謎だ。作中の『銘高忠臣現妖鏡』と、そこに組み込まれる二番目狂言として南北の弟子・花笠文京はながさぶんきょう(実在の人物)が執筆した『六大洲遍路復仇むつおおしまめぐりてあだうち』は、元禄赤穂げんろくあこう事件をモデルにした『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』(二代目竹田出雲たけだいずも三好松洛みよししょうらく並木千柳なみきせんりゅうの合作。一七四八年)の登場人物を借用しながらも、原典とも史実の元禄赤穂事件とも似ても似つかない、あまりにも不可解な展開となっているのだ。しかしそれは、南北や文京が生きた時代に実際に起こったある政権交代劇の背後で策謀を繰り広げた黒幕を指弾する内容だった。
 もともと『仮名手本忠臣蔵』自体が、南北朝時代に仮託して元禄赤穂事件が起きた時代の世相を批判した内容であるとも解釈可能なことは、丸谷才一まるやさいいち『忠臣蔵とは何か』(一九八四年)などで指摘されている。『鶴屋南北の殺人』では、その『仮名手本忠臣蔵』を踏まえて南北らが更に自分たちの時代の政治を批判したという解釈になっており、時代を超えた二重の政治批判という凝った趣向を編み上げているのだが、本作では実はその構想自体に、芦辺自身による現代の世相批判の構図が騙し絵のように潜んでいる。つまり、竹田出雲らの元禄政治批判、鶴屋南北らの天明寛政てんめいかんせい政治批判、そして芦辺拓の平成~令和政治批判が、三重の入れ子構造となっているわけである。
 作中では、田沼意次たぬまおきつぐを追い落として彼の政策を全否定し、反動的な政治を行った松平定信まつだいらさだのぶが悪役となっているが、田沼政権が民主党政権、松平定信が安倍晋三の暗示であることは(作中で安倍の名前がどこにも出てこないにもかかわらず)読めば伝わるようになっている。「意次蹴落としの陰謀は、彼が天災や飢饉に対応すべく必死に奔走している間に着々と練られていた。大地震やそれにともなう人々の困窮すら、政権奪取を狙う者たちにとっては踊りだしたいほどの好機だったのだ」というくだりがあるが、史実通りならば天明の大飢饉の原因は浅間山の噴火という説は知られていても、大地震は起きていない。ここはうっかり筆が滑ったのではなく、東日本大震災の際に民主党政権に協力して国難に立ち向かうどころかその足を引っぱり、政権奪取にまんまと成功した安倍晋三率いる自民党の悪辣あくらつぶりをそのまま引き写したと見るべきだろう。定信とその腰巾着たちが政権を握った後に田沼一派を口汚く罵っている描写も、「悪夢の民主党政権」というわかりやすいワードを用いた印象操作によって、たかだか三年間の民主党政権に責任をすべて押しつけ(もちろん民主党政権にもいろいろと失政があったのは事実だが)、遥かに長く政権を握っていたのに国力低下をどうすることも出来なかった自分たちの責任を免れようとした安倍とその取り巻きたちの姿を彷彿させる。
 因みに、民主党政権=田沼政権、安倍晋三=松平定信という見立てはこの小説に限った着想ではなく、先述の島田雅彦『虚人の星』に登場した首相の名が松平定男なのはやはり同様の見立てに基づくものだろうし、二〇一五年にテレビ東京系で放映された時代劇『大江戸捜査網2015~隠密同心、悪を斬る!』(猪原達三いのはらたつぞう監督、山本やまもとむつみ脚本)では、腐敗政治家と思われていた田沼意次(瑳川哲朗さがわてつろう)が善政を行った人物、隠密同心の上司である松平定信(加藤雅也かとうまさや)が実は権力欲に憑かれた悪人として描かれていた(最後、定信は史実を無視して隠密同心により成敗される)。劇中、定信が祖父である徳川吉宗とくがわよしむねまつりごとにこだわっているあたりも、祖父の岸信介への愛着が深かった安倍晋三がモデルであることを匂わせている。また、背景となる時代はやや下るが、雑誌《怪と幽》に現在連載中の京極夏彦の時代小説「了巷説百物語おわりのこうせつひゃくものがたり」では、水野忠邦みずのただくにによる天保の改革の時代を、平成から令和にかけての現代日本の政治・経済の乱れと重ね合わせている――といった試みもあり、歴史小説・時代小説で現代を風刺する手法にはまだまだ可能性がありそうに思える。
「安倍が首相を務めていた時代の空気を描くことによって彼の姿を浮かび上がらせる」という手法の第一人者が、脚本家・小説家の太田愛おおたあいである。
 太田は、テレビ朝日系のドラマ『相棒』ではトリッキーな本格ミステリ色の濃いエピソードと、社会派テイストのエピソードの両方を手掛けているが、後者の代表はシーズン15(二〇一六~二〇一七年)の「声なき者~籠城」「声なき者~突入」(橋本一はしもとはじめ監督)の前後篇だろう。警視庁特命係の杉下右京すぎしたうきょう水谷豊みずたにゆたか)と冠城亘かぶらぎわたる反町隆史そりまちたかし)が遭遇した立てこもり事件の背後から、妻や子供に暴力を振るう悪しき父親の存在が浮かび上がる話だ。このエピソードでは、国家の繁栄を支えるのは健全な家庭であるというお題目のもと、家父長主義的思想を持つ政治家や警察官僚などの権力者たちによって結成された「健全な家庭を守る会」なる団体が言及される。後述の『天上の葦』の角川文庫版解説で、町山智浩まちやまともひろはこの団体のモデルを「日本会議」であると指摘している(日本会議の政治家組織「日本会議国会議員懇談会」には安倍晋三や麻生太郎も名を連ねている)。その指摘は正鵠せいこくを射ていると思われるけれども、戦前の家族制度の復活を目指して自民党政権を支えた団体としては、日本会議以外にも統一教会や、神社本庁のロビー活動団体「神道政治連盟」(神政連)、右派の教育学者・高橋史朗たかはししろうが提唱する親学おやがくの普及を目的とした「親学推進協会」(二〇二二年に解散)などが存在している。
 島薗進しまぞのすすむ編『政治と宗教――統一教会問題と危機に直面する公共空間』(二〇二三年)の第二章「統一教会と政府・自民党の癒着」(執筆者は中野昌宏なかのまさひろ)には次のような記述がある。

 統一教会と政府与党の望む各政策の本質的な共通点は、「個人の人権制限を是とする」考え方である。戦後民主主義のなかで生まれ育った我々の考える「家庭」とは、親であれ子であれ個々人の意思と人格が尊重された上での共同生活の単位ということになろう。が、彼らの思い描く「家庭」とはそうではなく、明治民法のイエ制度におけるように「戸主」の権限が最上位に置かれ、子の結婚相手を親が自由に決めるような、各人の人格が全ては認められないような、支配される単位集団のことである。その証拠に、統一教会内では、個々人がそれぞれの考え、思いをもつことは「サタンが入ってくる」こととされる。同様に自民党においては、個々人がそれぞれの考えを持ち・述べることは「行き過ぎた個人主義」と見なされる。たとえば妊娠・出産に関して、女性が権利を主張することは、自民党にとっては「わがまま」なのである。

 ここで統一教会について記されていることは、前記の他団体についても当てはまる。例えば神政連の活動を支持する「神道政治連盟国会議員懇談会」では、二〇二二年、性的マイノリティへの差別的な内容を記載した冊子が配布されて問題となった。従って、この「健全な家庭を守る会」のモデルも、日本会議に限定せず、安倍自民党を支持した守旧派政治・宗教団体のすべてをイメージしたものと考えたほうがいいのかも知れない。
 また、『相棒20』(二〇二一~二〇二二年)の元日スペシャル「二人」(権野元ごんのはじめ監督)では、非正規雇用の賃金格差・待遇格差の問題や、年少者にまで浸透した自己責任論がモチーフになっている。この回のラストでは、与党の大物政治家と杉下右京のあいだで次のようなやりとりが交わされる――「この国の経済を動かすには、低賃金で働く労働者が不可欠なんだ」「国の経済。僕には、あなたと、あなたのお友達の経済にしか思えませんがね」「国力を高め、国を豊かにするために必要なものを確保する、それが為政者の仕事だ」「なるほど。あなたにとって、低賃金で働く労働者は国民ではなくモノというわけですか。確かに彼らは、あなた方のように何かあればすぐ病院の特別室に入れるわけではない。しかし、そんな人々にも、大事な家族や生活がある。どんな人にも、守りたいと願う、それぞれの幸せがあるんですよ」「それこそ、自分でどうにかしたらいいんじゃないのか」「そうでしょうか。十二歳の少年が、何もかも受け入れて諦めて、この世は自己責任だと言う。困った時に、助けを求めることすら恥ずかしいと思い込まされている。それが、豊かな国と言えるでしょうか、公正な社会と言えるでしょうか!」。権力に抑圧される弱者の声をドラマに織り込むことを得意とする、太田愛の真骨頂と言えるやりとりである。
 しかし、この「二人」というエピソードは放映に際して問題も生じた。放映当日(二〇二二年一月一日)、太田はブログ「脚本家/小説家・太田愛のブログ」で、「右京さんと亘さんが、鉄道会社の子会社であるデイリーハピネス本社で、プラカードを掲げた人々に取り囲まれるというシーンは脚本では存在しませんでした。/あの場面は、デイリーハピネス本社の男性平社員二名が、駅売店の店員さんたちが裁判に訴えた経緯を、思いを込めて語るシーンでした。(中略)同一労働をする被雇用者の間に不合理なほどの待遇の格差があってはならないという法律が出来ても、会社に勤めながら声を上げるのは大変に勇気がいることです。また、一日中働いてくたくたな上に裁判となると、さらに大きな時間と労力を割かれます。ですが、自分たちと次の世代の非正規雇用者のために、なんとか、か細いながらも声をあげようとしている人々がおり、それを支えようとしている人々がいます。そのような現実を数々のルポルタージュを読み、当事者の方々のお話を伺いながら執筆しましたので、訴訟を起こした当事者である非正規の店舗のおばさんたちが、あのようにいきり立ったヒステリックな人々として描かれるとは思ってもいませんでした。同時に、今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います。どのような場においても、社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います」と思いを綴っている。リアルタイムの放送で観た際、確かにこのシーンは何だか浮いているように感じられたが(少なくとも太田愛らしくないとは思った)、脚本と演出のあいだの乖離かいりはよくあることとはいえ、太田にとって放っておける問題ではなかった。二〇〇九年のシーズン8以降、毎シーズン必ず脚本家として参加していた太田が、この「二人」を最後に今のところ『相棒』で執筆していないのも、そのあたりが関係しているのかも知れない。
 一方、太田は小説家としては、現代を反映した社会派ミステリを手掛けている。『犯罪者 クリミナル』(二〇一二年。文庫化の際に『犯罪者』と改題)、『幻夏』(二〇一三年)、『天上の葦』(二〇一七年)、『未明の砦』(二〇二三年)といった作品が挙げられるが(また、二〇二〇年刊の『彼らは世界にはなればなれに立っている』は異世界ファンタジーながらも作中世界は現代日本の寓意ぐういとなっている)、ここでは『天上の葦』を取り上げることとする。
 白昼の渋谷スクランブル交差点で、正光秀雄まさみつひでおという老人が天を指さすようにして絶命し、興信所所長の鑓水七雄やりみずななおと調査員の繁藤修司しげとうしゅうじのもとにある政治家から、正光が何を指さしたのか突きとめろという奇妙な依頼が舞い込む。時を同じくして、公安警察官の山波やまなみが姿を消し、停職中の刑事・相馬亮介そうまりょうすけがその捜索を極秘裏に命じられる。公安や、その更に裏にいる黒幕的存在が暗躍する中、二つの出来事を貫く謎を探る三人は、手掛かりを秘めた瀬戸内海のある小島に辿りつく。
 後半、あるジャーナリストに冤罪を着せようという陰謀が浮かび上がるが、その目的は一罰百戒、つまり、権力に逆らえばそのジャーナリストのようになるという報道全体への脅しだった。かつて、大本営海軍報道部の軍人として報道を検閲する立場にあり、そのため多くの国民が死んだことを後悔する正光は生前、上司の理不尽な命令に疑問を抱く山波に、「ひとつの国が危険な方向に舵を切る時、その兆しが最も端的に現れるのが報道です。報道が口を噤み始めた時はもう危ないのです。次第に市井の人々の間にも、考えたこと、感じたことを口にできない重苦しい空気が広がり始める。非国民、国賊などという言葉が普通に暮らす人々の間に幅を利かせ始めるのは、そういう時です。/恐怖は、巨大な力に抗するための連帯を断ち切ります。そしてどんな時代の報道の中にも進んで権力にすり寄る者たちがいる。自らの下劣さを処世術や政治力と思い違いをした人々です。批判の声は、権力の名を借りた暴力によって次々とねじ伏せられていく(中略)いいですか、常に小さな火から始まるのです。そして闘えるのは、火が小さなうちだけなのです。やがて点として置かれた火が繋がり、風が起こり、風がさらに火を煽り、大火となればもはやなす術はない。もう誰にも、どうすることもできないのです」(引用は角川文庫版、以下同じ)と説く。また、正光と同じ時代を生きた別の登場人物は、「……新聞は、戦争が始まった時点でもう死んでおったのです。私は、そのむくろの上で旗を振っておった」と悔恨の言葉を洩らす。
 太田は《ダ・ヴィンチ》二〇一七年四月号掲載のインタヴュー(取材・文:樺山美夏かばやまみか)で、執筆当時の危機感について次のように述べている。

「このところ急に世の中の空気が変わってきましたよね。特にメディアの世界では、政権政党から公平中立報道の要望書が出されたり、選挙前の政党に関する街頭インタビューがなくなったり。昔から普通にテレビで見ていた政治に対する市民の自由な発言が、ぱったりと見られなくなった。総務大臣がテレビ局に対して、電波停止を命じる可能性があると言及したこともありましたし、ベテランキャスターが発言内容を理由に次々と降板されました。

 こういう状況は戦後ずっとなかったことで、確実に何か異変が起きている。国民にとって重要なことが正しく伝わらなくなるのは、非常に恐ろしいことです。私たちは情報で社会を認識するわけですが、その情報が操作されていたら、間違った地図を渡されて登山しているようなもの。たどり着いたところが断崖絶壁で後戻りができず、もう飛び降りるしか正しい道はないと言われたらみんなで飛び降りてしまうかもしれない。これは今書かないと手遅れになるかもしれないと思いました」

 では、報道が口を噤み、小さな火が大火となってしまった後にはどのような世が来るのか。それを描いたのが赤川次郎あかがわじろうの第五十回吉川英治よしかわえいじ文学賞受賞作『東京零年』(二〇一五年)である。作中の日本は、国民は常に監視され(特に、一度でも警察に目をつけられたことのある人間の顔は監視カメラで自動的にチェックされる)、マスコミは政府に都合のいい警察や検察の発表をそのまま流している統制社会だ。作中でそんな権力の暗部を象徴する人物は、元検察官の生田目重治なまためしげはるである。絶大な権力を持つ彼は反体制運動への弾圧を強める一方、反戦デモをも密かにコントロールし、巧みに権力に取り込んでゆく。だが、そのような生田目ですらも、一旦道を踏み外せば蜥蜴とかげの尻尾として切り捨てられてしまうのだ。
 作中、「現役の検事を辞めて、政府の仕事をするようになると、生田目には徐々に色々な団体の役員や顧問の肩書が付き、その報酬はたちまち検事時代の何倍にもなった」(引用は集英社文庫版)という記述があるのだが、検事総長でも東京高検検事長でもない一介の元検察官がそこまで権力を握れるだろうか……といった疑問が湧くなど、『東京零年』の作中世界の設定には些か粗さも感じられる。だが、現実の日本で、共謀罪が成立したのは二〇一七年のことであり、本作はその先にある未来を予言することで警告を発したと言える。赤川は従来の作風のイメージに反して社会問題に極めて深い関心を持つ作家であり、しばしば新聞に政治的な投稿を行っているが、『東京零年』との関連で言えば、二〇一七年六月十五日、朝日新聞に投稿した「『共謀罪』再び日本孤立の道か」において、「法案に賛成の議員は、自分が後の世代に災いをもたらそうとしていることを自覚しているのか。目先の目的のため憲法を投げ捨てて恥じない安倍政治は、日本を再び世界から孤立させるだろう。/安倍さん、あなたが『改憲』を口にするのは100年早い」と痛烈に批判したことは注目に値する。
 本稿執筆中の二〇二三年十月四日、前々日に行われたジャニーズ事務所幹部の二度目の記者会見で、指名NG記者リストなるものが会見を仕切ったコンサルティング会社によって用意されていたことがNHKの報道で明らかになった。しかし、ここで浮かんでくるのは、その種のNGリストは果たしてジャニーズ事務所だけの問題なのか、他の記者会見ではどうだったのか――という疑問である。NGリストの存在をNHKが暴いたのは、それまでと違ってジャニーズ事務所の影響力がフォローしようもないくらい傾き、持ちつ持たれつの関係が完全に崩壊したからだろう。ならば、同じような関係が、政権与党などの権力とマスメディアのあいだにもあったのではないか――という疑問が湧くのは当然の話である。マスメディアが本気で報道に専念すれば権力を牽制できることは今回の件で明らかなのに(もちろん、マスメディア自体が権力であることは忘れられてはならない)、取り敢えずジャニーズ事務所の件では反省の姿勢を見せておき、その他の件では権力との癒着をダラダラと続けるようでは、今後もこの国のマスメディアに期待など出来そうもない。太田愛や赤川次郎による警鐘は、果たして彼らに届くのだろうか。
  死せる元首相の亡霊による呪縛。そこからの解放の道筋は、未だ見えない。

《ジャーロ No.91 2023 NOVEMBER掲載》


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