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その喝采は沈黙に似て

自分の理解の範疇を大きく超える事象に出くわすと、人は往々にして『感想』を失うという。

正しく言うと、『感想』を表現できなくなるのだ。口でも、手でも、表情でも。賛辞の言葉を贈るべき瞬間にも、ピタリと思考が止まり、呆然としてしまう。

例えば、能や狂言に代表される演劇。

織物や漆器に代表される工芸。

オペラや歌劇に代表される舞台芸術。

それらは全て、遥かな昔からずっと高い価値があり、歴史があり、崇高で、それでも尚歩みを止めず研鑽され、受け継がれてきた芸術なのだ。

言うなれば、『存在』そのものが価値の塊。

一世代を必死に生きている程度の人間が初見で理解しようなどとは烏滸がましい、脈々たる質量の『価値』を持つ芸術は、人々からいとも簡単に感想の言葉を奪う。

それは、生命においても例外ではない。

そしてこれは、まだ私が小学生のときの話。



思えば『存在』という価値に出会ったのは小学生の頃だったと思う。

当時僅か10歳にも満たなかった私は、校庭の隅にあった孔雀の飼育小屋にふと興味を抱いた。子供の笑い声や校庭の周りを走る車の音、様々な喧噪に囲まれた飼育小屋に、その孔雀はいた。

日陰になる飼育小屋の奥で、自らを労わるようなゆったりした佇まいでその孔雀はいた。視線は虚空を仰ぎ、自分だけの世界に朧気に、愛しげに滞在しているように見えた。

孔雀は私を一瞥すると飼育小屋の寝床に座ったまま、ピクリとも動かず冷ややかな視線だけを私に送った。

私はゆっくりと飼育小屋に近づき、彼に話しかけた。網付きのフェンスに指をかけ、彼につけられた安直なセンスの幼稚な名前を呟いた。誰がつけたのかは知らない。でも確実に彼はそんな幼稚な名前ではないと思った。

その呼びかけを彼は意にも介さないかのように、視線を私から外し自らを囲う狭い小屋の天井に向けた。

そこから、たなびくように泳いだ視線の先。小屋の外にいる私をも透かして、彼は何かに想いを馳せているように見えた。背後から、ガキ大将が私の名前を呼んでいる。

飼育小屋のフェンスに掛けた指が感覚を忘れる頃に、その瞬間は唐突に訪れた。

彼は、機敏な動きでその場に立ち上がり私に向けてその姿を翻した。

飼育小屋に停滞し、長らく淀んでいた空気に突然流れが生まれ、風が足元から舞い上がった。まつ毛スレスレに微弱な風を感じる。驚きおののいた私は指をフェンスから反射的に離し、半歩後ずさりした。

開いた半歩の距離を埋めるように、彼は凛々しい佇まいで私の前に悠然と羽を広げ、大きく一歩フェンスに向かい私との距離を縮めた。

尾羽からドーム状に広がる紺碧と新緑の妖艶で妖しい模様。数十の眼孔にも似た藍色の瞳が、一心不乱とも感じる狂気を纏い、私にその視線を向けていた。神々しくもしなやかに揺れるその艶やかな羽が、その数十の瞳が、彼の存在価値を叫ぶように私に訴えている。

私は感想はおろか、自らの抱く感情さえ正しく理解できずにその場から動けなかった。恐怖?驚嘆?全く分からない。それでも、飼育小屋に閉ざされても尚、雄弁に自らの価値を証明する彼の前から逃げ出したくはなかった。間違いなく思い上がりだが、今私は彼から何かしらのメッセージを投げられたと思ったのだ。それを受け取ったことだけでも彼に示そうと思った。

彼にできることがその飼育小屋の中で羽を広げることだけであるように、飼育小屋の外にいる私も出来ることを返さねばと、全く根拠不明、説明不能な義務感に駆られ私はじんわりと汗をかいた拳を握り、勇気を振り絞ってその場で彼と目を合わせ続けた。

きっと僅か10秒にも満たない時間だったろう。しかし、この広い世界の中で、確かに私は彼と世界で二人っきりの時間を過ごした。



それから20年、いまだに私は自分の理解を超える芸術を観るためにお金を払い、機会を得ている。

あのときの彼との邂逅のように、完全にその価値を理解できたことは、正直ない。しかし、理解できない価値を持った相手に対して、私は正しい反応をとったと今も確信している。

理解できないのであらば、芸術であれ文化であれ生物であれ他人であれ、その存在と世界に不用意に踏み込まず、ただ可能な限り、最大限の敬意を以て距離を保つべきなのだ。


それが凡人極まりない私の『存在』という価値を持った事象との付き合い方であり、世界の大部分を占める凡人たちの芸術や文化との向き合い方だと思うのだ。

幼少の私に似た経験をしたことがある人がいたら、その記憶に聞いてみて欲しい。もしかしたら貴方は、『何もできなかった』のではなく『沈黙することで何かを表現しようとした』のではないだろうか?


このコラムを読んでくれた方々、漠然とした私の思い出話にお付き合い頂き感謝します。

恐縮ながら、末筆のお願いを聞き入れて欲しい。


どうか理解できないものにこそ、敬意を。




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