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呪(しゅ)を捨ててみるのだ

窓から差し込む柔らかな光が、カーテンの隙間を縫って私の部屋を覗き込んだ。

小春日和の日差しは収穫間近のオレンジの色を彷彿とさせる暖かさで、私の部屋を聖母のようにゆっくりと柔らかに包む。私は、眠い目をこすってゆっくりと起き上がり身支度を始めた。

折り畳んだ下着が冷たい。指に触れる綿の感触、一瞬の遅れて到達する化学繊維の感触。その折々の主張を冷えた指先で摘み取って身に纏っていく。

袖を通した小さな花柄の可愛いキャミソールは、昨年買った。年季を経て、期待の新人から大ベテランまでうなぎ上りですぐにキャリアを伸ばした。華やかでしたたか、使い勝手のいい自慢の即戦力は私の凹凸に乏しい身体にすぐに収まりほんのりと洗剤の香りを私に贈ってくれる。

私の洋服箪笥には一軍と二軍がいて、滅多に着ない、私を飾り立てる窮屈な服を一軍と呼ぶ。それ以外は二軍で、二軍内の序列は着心地順だ。小さい頃は赤いスカートがお気に入りだった。そのスカートを履いた私はどこにでも行けた気がする。何も気にせず、お花畑に、学校に、裏山に、お母さんの柔らかくも細い腕の中に。

寝ぼけた頭に散文的な思いを巡らせながら、私はポーチから鏡を取り出してメイクの準備をする。

鏡を見るたびにうんざりするこの顔に。

何度も目を化粧品を鏡に往復させ、細かく確認するようにアイメイクを施す。

今より綺麗になるように。

今より醜くならないように。

私のメイクする姿はきっと、祈りにも似ているだろう。昔の彼が言っていた。今のように寝起きで真顔で、そして寝ぼけたままメイクする私に彼は「メイクってそんな真面目にやるものなの?」と薄ら笑いで質問を投げてきた。私は答えず、お前はこれからもわからなければいいと思った。

きっと私は死ぬまで自分の顔面に理想を描き続ける。欲しかった鼻筋の線、見せたかった健康的な肌の色。

キャンバスに見立てた劣悪な素材しかない自分の顔に。

静かにため息がこぼれた。しかしどうだ。テレビには美女、SNSにも美少女が溢れているのに、なぜ鏡には私なんだ。世の中の情報化が加速するにつれ私と美少女の境界線は深まっていく気がする。

思えば私は、自分自身の顔と名前を幼いころから疎ましく思っていた。

勇気のない男の子が勇気くんでも、光ってもない男の子が光くんでも、みんな許すのに、なぜ女の子の名前というものはここまで名付けられた本人のハードルを上げてしまうのだろう。名前に「美しい」の字が入るだけで、まるで死刑宣告を受けた囚人のように気が重い。女の子の名前は、顔に対するハードルが高すぎる。嫌な記憶が蘇る。振り払うように私は手ぐしで乱暴に髪に空気をふくませた。

名付けられた私に何の罪もないのに。ぼうっと思いを巡らせたその囚人は、毎日鏡を眺めながら贖罪の日々を送っている。


ふと、ベッド上の膨らみが動いた。僅かだがまだ寝息が聞こえる。何も隠すものなどないのに身構えてしまう。

もう一度ピクリと膨らみが動き、その膨らみはゆっくりと内側から布団をめくった。

「おはようなのだ」

瞼(まぶた)の存在すら怪しいその膨らみは、布団を半分被ったまま私に小さく声をかけた。

「おはよう」

まだ寝てていいのに。そう言いかけて留まった。もう10時だ。まっとうな人間なら起きる時間だ。

「どこかに出かけるのだ?」

膨らみは、布団からゆっくりと這い出し、怠そうなヤドカリのように脱しながら私に問いかけた。

身体が露になる。何度見ても足がなく、透けるように白く、限りなく輪郭はあいまい。 

十数分後の私は、おばけを連れて自分の部屋を出た。



「おお!薬局なのだ?おばけも丁度買いたいものがあったのだ!」

意気揚々と薬局についてきたおばけは、瞼をこすりながら、健康には亜鉛が大事だと私に語った。

もうおばけになっているのに、健康を気にする?私は細かな矛盾に対して疑問を感じつつ、笑顔で首をかしげながら、近くの大型薬局まで歩を進めた。

「休みの日しか買えないからね。生活用品。買いだめしておかないと。」

私はおばけに薬局での大量購買宣言を高らかに言い放ち、気合の表れとしてハチマキの代わりにマフラーをギュッと首にまいた。

「わかったのだ。では、沢山買うのだ!何なら薬局のお姉さんも買うのだ。多分3人くらい買えば1人は無料になるのだ。店長だったらアタリなのだ!」

雑すぎる人身売買ジョークを合いの手のように言い放ち、おばけはふわふわとはしゃぎながら薬局についてきた。

いつもの店内音楽が流れる。ポップで聞き慣れた、でもどこか商品選びを急かすような早口な音楽。

棚に並んだコスメやシャンプーが、一斉に美を私に訴える。一斉に美を謳うそのパッケージたちは、ツヤときめ細かさ、輝きをまるで神輿のにように掲げている。

私は目を伏せて、美の宗教を掻い潜る。

神前をくぐり抜け、棚の奥からお目当てのオーガニック成分配合のコスメを手に取った。

私にはこれがいい。これであるべきだ。あんなに高らかに美を謳う煌びやかなコスメは私に似合わない。もう憧れもしない。

経済的にも買い続けられないし。しょうがないんだ。

西洋のお姫様が使うような赤色。

小さいころから一緒にいた赤色。

私の大好きな赤色。


――でもいい。似合わないから。


私は手に取ったコスメをゆっくりと持ち直し、かごに入れた。

「えっ。それ本当に欲しいのだ?」

心臓に冷水でもかけられたのかと思った。

かごの後ろから、狭い通路の真ん中で、おばけが不思議そうな顔で私の顔を見ている。

おばけの手には小さなお菓子が沢山抱えられており、今コンマ1秒前まで私のかごに入れようとしていたことがわかった。

「えっ。...あ、これいつものだよ。いつもこれだよ。」

私はもはや言い訳にも似た事実を、聞かれてもないのに二度も言い放った。

「毎回この薬局来るときに決まったほかのブランドのコスメ見ているのだ?おばけはてっきり他のコスメが欲しいと思っていたのだ。」

「ああ、アレは確かに欲しいけどなんていうか。もっと化粧映えする顔の人が使う色なの。私が使ってもダメらしいの。」

「えっ。似合わないと自覚しているだけならいいけど、らしいのって何なのだ?誰かに言われたのだ?」

おばけがどさくさに紛れてお菓子を私のかごに入れようとする。私は静かにかわす。

「まあいいの。昔ね。試したけどダメだったの。不評だったの。」

おばけはお菓子を抱えたまま不審で、納得のいかない顔をしている。

「ちょっと来るのだ。」


*


お菓子をいそいそと棚に戻したおばけに連れられて、私は何も買わずに薬局を出た。

足早に手を引かれて薬局を出たおかげで、若干マフラーの内側は熱気があり、少しこもって暑いぐらいだった。

近くの公園のベンチに座っておばけと空を眺めている。秋から冬に変わろうとする空は高く、澄んでいる。羨ましいぐらいの青空で、妬ましいぐらいに美しい。


「あああああああああああああああああああああ!!!!ホットミルクティー飲みたいのだ!!!ホットミルクティー飲まないと死んでしまう病が再発したのだ!!!ワクチンのない奇病なのだ!!!ああああ助けてええええ成仏するうううう!!」

おばけが突然芝居がかったアクションで公園入口の自販機を指さし悶え始めた。子供のようなおばけは、こんなとき買うまで芝居をやめない。

買わないと宣言しようものなら

「いいのだ?ではここで、よくいるスーパーで母親に怒られて床に寝転がり、独創的なブレイクダンス始める子供みたいなことしていいのだ?」

とよくわからない脅しさえ駆使してくることを知っている。あと、多分それはブレイクダンスではない。

私はため息交じりにホットミルクティーを買った。


ガコンッ


やる気のない音でおばけのわがままは落ちてきた。自販機の中で小銭が落ちる音がする。どこにいったのだろう。

座りなおしたベンチの横で、季節外れの花が咲いている。

秋も終わりかけなのによくこんなところに。

「ジシバリ」

おばけが花を、輪郭が曖昧な手で指して呟いた。

「え?なに?」

「ジシバリという花なのだ。知ってる?秋の野花で、コンクリ舗装された道のそばにもよく咲いているのだ?」

私は改めてその花――ジシバリを見た。僅かな風に吹かれながら、機嫌良さそうに揺れている。

「シュ。知ってるのだ?」

「えっ?なに?」

さっきから何なんだ。おばけは私に何を言いたいのだろうか。

ミルクティー片手に悪気のない笑顔を私にむけるおばけはさながら子供のようだ。足?も地面につかずふわふわとベンチと地面の中空を彷徨っている。

「シュとは、呪いなのだ」

ギョッとするほど物騒な返答に思わずたじろく。その私を気にせずおばけは続ける。

「呪いのことを呪(シュ)と昔は言ったのだ。陰陽道(オンミョウドウ)という古くからある占術の言葉なのだ。知らないのだ?アベノセーメー。おばけのお友達なのだ。昔の人なのだ。平安の人なのだ。よく一緒にパチンコとか行ったのだ。」

....嘘つけ。

安倍晴明(あべのせいめい)。...聞いたことあるようなないような、歴史上の人物の名前をあげられてピンとこない顔をした私を見ても気にせず、おばけは続ける。

「呪とは、何かを自由から縛ることを指すのだ。例えばこの世の中で最も身近い呪は、名前だといわれているのだ。」

なんだか始まったぞ。なんだなんだ??私は足を組み替えて、おばけに居直った。

おばけはまだ怪訝な顔を崩さない私を楽しそうに眺めている。そして、ミルクティーを私に渡した。

指先が温かい。やけどしない程度に緩やかな、優しい温度だ。

「もし、美紀に名前がなかったらどうなるのだ?」

おばけはミルクティーを手放した両手をすり合わせで暖をとりながら、私に尋ねた。

考えたこともない。

「えー...わからない。けど、いろいろ面倒じゃない?役所の手続きとか、友達からも呼ばれにくいだろうし。.」

でも誰でもないというのは、楽かもしれない。

「でも、名前がない以上、誰でもないのは楽なのだ。」

私の考えを見透かしたのかはわからないが、おばけは食い気味で続けた。

「セーメーが言っていたのだ。人間は、自らが何であるかを決める前に、他人から言われたことや、他人に呼ばれた名前で自分自身を縛る窮屈な生き物だって。」

「....」

理解不十分な私が首をかしげる。おばけはゆっくりとさらにつづけた。

「今、美紀は他人に『その化粧品似合わない』とか言われたから、自分の好きな化粧品なのに他人の評価を優先してしまってないのだ?本当に優先すべきは自分の意志なのに。」

風に揺れるジバシリの動きが止まった。世界中の風が止まった気がした。

「え...」

薄っすら気づいていた事実が白日の下に晒された気がする。静かに鼓動が早くなる。冷えた血液に、焦りが乗って心臓に流れ込む。

「もし美紀が他人にそんなこと言われなかったら、きっと美紀はもっと美紀らしい化粧品を選んでいたのだ。他人の言葉、つまり呪(しゅ)に呪われてしまったのだ」

おばけが淡々と風のない世界で喋り続ける。揺れが止まったジバシリが、揺れる反動の最後のチカラを振り絞って、おばけの話に賛同するように揺れて頭を垂れた。

「呪はタチ悪いのだ。他人が悪気なく言った言葉でも、受け取り手には十分な行動や思考を縛る呪いになったりするのだ。」

おばけがボクシングのポーズをとりながら、形の見えない呪いを殴る仕草をした。

「美紀は今、過去に友達や家族、様々な関係性の他人から言われた呪でガッチリと縛られてしまっているのだ。その呪がある限り、今後も自分の満足や行動、思考が他人に縛られたままになってしまうのだ。これは危ないのだ!」

気のせいとは思うが、私は私の肩の上にまるで物の怪の類のような得体の知れない何かが渦巻いていることを感じ始めた。これが呪いなのだろうか?

温度をもう失いつつある残り少ない、手の中で心細くなる温もりを失いたくなくて、私はおばけに再度尋ねた。

「おばけ、その呪ってどうやれば解けるの?私、その呪から逃げたい」

我ながら逃げるという言葉をここまで前向きに発せられることがあるとは思わなかった。人生で逃げるなと子供のころから教えれてきた私が、初めて臆面もなく逃げるという言葉を前向きに使った気がする。

「フフフ...これはとっておきの手段を教えてあげるのだ。おばけとセーメーが平安時代に考えた、とっておきの手段なのだ」

平安時代からもったいぶられた手段が今この現代で有効なのかは正直怪しいが、私は大人しく聞き入れることにした。そして、その頃から呪は、人を苦しめてきたんだな。と悲しい気持ちになった。

「ズバリ、その手段とは『心の中で大絶叫する』...なのだ!」


...................................................ん?

目を丸くした私は、2秒間の沈黙のあと、我に返り、目の前のおばけを疑いの目で見つめた。

「イヤイヤイヤイヤイヤ!!!!マジなのだ!!マジだって!!本当に!!最後まで聞いて欲しいのだ!!!!!」

私がベンチから腰を少し上げた。右手に握ったミルクティーの空き缶がベコッと音を立てたのを聞いて、おばけは大慌てで弁解し始めた。

「ちょっ...待ってほしいのだ!落ち着いて!ね!?100円あげるから!!!ね!!!???税込みで110円あげるから!!!!」

私は腰を落ち着け、改めて再度聞く姿勢に戻った。とりあえず聞いてみようじゃないか。

「ちゃんと説明してよね。」

「も...もちろんなのだ。...危ねえのだ。力技で成仏させられるところだったのだ...」

どこからが額か頭かわかりづらい顔の汗をぬぐいながらおばけは続けた。

「いいのだ?まず、生きる上で確かに、自分に正直なだけではダメなのだ。しっかり他人の評価や意見を聞き入れることは間違いなく必要なのだ。でも、他人の意見を尊重しても間違えることは多いし、何よりありのままの自分や自分の意見を通せてない分、窮屈に感じてしまうのだ。」

私は頷いた。それが今の私なのだ。幼いころから、「美」のつく名前に呪われ、化粧品を選べば他人の評価に呪われ好きなものを選ぶ気力さえも失いつつある。

「そこで、例えば『この化粧品は貴女に似合わない』と言われたとしてもその場で、心の中で大絶叫するのだ。『お前の意見とか知らねぇぇぇー----!!!!!!!まず誰だお前ー------!!!!!』って。」

想像してみた。何か周りから呪いじみた言葉を浴びせられたとする、その際に大絶叫で力強く返す私を。

「イメージできたのだ?ここで大事なのは、呪は、勢いに負けるってことなのだ。平安時代から呪は人の弱った心や迷っている心に対しては有効だけど、強い意志や勢いを持つ人には全く効果ないことが証明されていたのだ。セーメーがパチンコで負けた時に凹みながら教えてくれたのだ。」

最後の余談はいらないけど、まあ確かに、そんな勢いある大絶叫で返されたら呪いのようなジメジメしたイメージのものでは太刀打ちできなさそうなことは私にもイメージがつく気がする。

「だから、何か自分が呪われていると思ったら大絶叫で追い払うのだ!『知らねえー------!!!!!!』とか『なんだお前はあああああ!!!!!!』みたいな、呪はひとたまりもないのだ!コツを教えるのだ!叫ぶことも大事だけど、どっちかというと呪に対してバズーカぶっ放すイメージを持つといいのだ!!名付けて『うるせぇ砲』なのだ!!!」

おばけは揺れるジバシリを背景に、私にどや顔で力強いガッツポーズを決めた。



次の日、洗面台の前で私はまた自分の顔に向き合っていた。

例のごとく、呪がやってくる。

昔大嫌いだった小学校のガキ大将、浮気されて別れた元カレ。

その各人が、私の容姿を蔑み、ちくちくと指してくる。

「うっわ~世界一ブスだなお前!!!」「ブース!顔デカ!!!」

「そーゆーところが可愛くないんだよな~」

思い出すほどに冷たく、気持ちの悪い生々しさで私の心臓を握りつぶしに来る。

私は、リップのキャップを締めて、小さく息を吐き、脳内でバズーカを構えた。

ゆっくり肩に乗しかかる重厚で質量のある頼もしい重さ、私の言いたいことをありったけ砲台に詰めることをイメージする。

肩から照準をのぞき込み、悪しき思い出のままであるガキ大将に砲台を構える。

ガキ大将がぎょっとした顔で言う

「あっごめっ、...ちょっ待っ...!」



うるせえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

死ねええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

テメーの顔面見てから言えやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!


イメージ:おばけが発射するの図

雄叫びとともに発せられた砲弾はものの見事に特撮ヒーローもののような爆炎を上げて思い出をバラバラにした。
そのあとには何も残らない。無だ。跡形もない。諸行無常。
正面切って思い出とタイマンを張り、私は思い出に打ち勝った。


目を開けて現実の世界に復帰する。
「…さて♪」
私は再度リップのキャップを開き、メイクを続ける。悪者は死んだ。


今日はいつもよりもメイク乗りがいい日だ。
普段とは違う化粧品を使う私に、赤色が映える気がする。
鏡の中で笑顔になる私の横で、布団の中のおばけが満足そうにいびきを立てていた。

オバケへのお賽銭