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単位と愛情

昔、僕の知り合いに自称「枯れ専」の女の子がいた。

23歳OLの絵梨。

中学生時代から25歳以上歳の離れたオッサンしか好きになれない性分で生きてきたという。

元カレが最近還暦を迎えただとか...聞く人によっては事件性すら感じる話題を話す屈託のない笑顔の絵梨には、大きな悩みがあった。

どんなに好きなタイプの男に愛されても、満足できない

オッサンに憧れ、自分から近づいたにも関わらず、いざ付き合い始めたり一夜を共にすると一瞬で冷めてしまうという。

それが絵梨の悩みだった。本人は「私、頭バグってるのかもしれない」と笑っていたが僕はなんとなく原因がわかった気がしていた。

絵梨には幼いころから父親がいなかった。所謂、蒸発していた。

枯れてるオッサンたちは、まさか20代の女が自分を相手にしてくれるとはと、奮って絵梨に飛びつく。その場で情欲の限り、恋愛感情の限りを絵梨にぶつけるだろう。

しかし、絵梨はそこで冷める。

恐らく絵梨が求めていたのは、幼い頃自分が受け取りたかった父親からの「家族愛」であり、まさにオッサンたちから受け取る「色情」や「恋愛」ではなかったのだ。

欲しかったものとは明らかに感情の性質と単位が違う。

絵梨はきっと無意識にそれに気づいていた。

自分が欲しかったのは、隣で手を繋ぎ、デパートやショッピングモール、おもちゃ屋さんへ遊びに連れてってくれる無垢にして無償の愛。

対して、注がれるのは全く性質も単位も違うであろう、見方によっては社会的に認められにくい色情、情欲。

単位や性質が違うだけで、これほどまでに恋愛なんて空虚なものになるいい例だと思う。

往々にして...というか、こと恋愛に関して、人はすぐ「揃っていない単位」を比べたがる。

事実、僕も経験がある。

社会人になりたての頃の話だが、当時付き合っていた彼女に僕は高価なアクセサリーを買おうと躍起になっていた。

理由は、社会人になり彼女とも時間が合わず連絡すらとりにくく、あまりに寂しいからせめてアクセサリーだけでも手元に置いておきたい、そして置いて欲しいと願い、思い立ったから。

無理矢理に仕事を引き受け、ありったけの時間を費やして残業代を稼いだ。

会える時間はさらに減ったが、僕はアクセサリーに向けて進む自分が誇らしかった。残業を通して彼女を幸せにしている気分で、夢心地。

案の定、ある日彼女に呼び出され目の前で泣かれる事件が勃発。

彼女からは「アクセサリーなんていい。一緒にいたいだけなのに。」

晴天の霹靂だった。

頭の悪すぎた僕は、約1年をかけて不要な金を稼ぎ、時間を無駄にし、挙句彼女の不満と不安を醸成していた。

結果、彼女が欲しかった単位は「時間」、僕が捧げた単位は「金」だった。

確かに、すれ違うはずだ。

ここまでに紹介した、2人の単位わかってないアホの例は、本当に残念ながら世の中で最も多い恋愛トラブルのいい例だと思う。

実際に僕のツイッターアカウントに届く恋愛相談DMでも多い。

「私は毎日彼氏の家に2時間かけて行ってるのに、彼氏は好きだって適当に何回も言うくらいしかしない」みたいなカップルの話。

彼女は彼氏に「時間」をかけているが、彼氏は彼女に「言葉」をかけている。

お互いの「愛」の変換先が違うのだ。

そして変換された愛の単位が違うから比べられないのに「私の愛のほうが大きい。不公平。」と叫ぶ。

もはや悲劇だ。

そこでお勧めしたいのは、自分に与えられた「愛」が金か、言葉か、時間か判別可能なのであれば、金は金、言葉は言葉、時間は時間で単位を揃えて返してあげるといいということ。

さっきのカップルの例でいうなら、彼氏の世界では「愛」は「言葉」に変換されて表現されている。

だから、彼氏に愛を伝えるときは言葉で伝えるんだ。

逆も然り、彼女の世界では「愛」は「時間」だ。一緒に長い時間や密度ある時間を過ごすといい。

質量とエネルギーの等価性に、理論や呼び名さえ与えたA.アインシュタインでさえ、愛を単位や公式で測れなかったんだ。

一般人が愛を測るなんて到底不可能だと、諦めがつく気がしない?

同じ単位の上で、感情を表現し合える人が世の中に増えるといいな。


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