無縁の世界
網野善彦(あみの よしひこ)さんの『無縁・公界・楽』(むえん・くがい・らく)という名著がある。網野さんは20世紀の素晴らしい学者・日本史家だ。
この本を貫くテーマは「無縁」と「自由」。主に日本の中世を眺めながら、そこに社会の中心的な組織とは別の「場所」を見つけていく。そこは社会のルールが適用されない「外」になる。
社会の中心というのは、荘園主、地主などに所有された土地と、法律と、税を取るシステムだ。人は土地に縛られて貢物を納めたり、法律で離婚をはばまれたり、関所の通行や売り買いに税を課されたりする。これは天皇を頂点とする朝廷や幕府の権力のシステムであり、経済的な実体でもある。
これに対して、網野さんが探求し続けるのは、土地や法律や税から免除される場所。それが「無縁」の場所であり、そこに働くのが「無縁」の原理である。
たとえば、縁切り寺と呼ばれる寺があり、そこに女性が駆け込むと離婚を成立させられたり、男性(夫であり、イエの主)も手出しができなくなるという。ただし、寺の中では労役を科され、厳しい独自ルールも適用される。こういう「避難場所」のことを西洋の歴史学では「アジール」という。アジールは通常の世俗の空間とは区別された、守られた空間である。
タイトルの「公界」(くがい)は、主に若者と老人から成る、自治都市の自治組織を言うらしい。若者も老人も、社会の中心メンバーからははずれている。そして、自治都市も大名(戦国大名など)や豪族などの支配を逃れた都市として成立する。大阪の堺にはそういう自由な自治都市の側面があった。
「楽」(らく)は、楽市楽座などの「市」「イチバ」のことらしい。イチが立つ場所では、ふだんの賃貸関係(借金があるなど)を免除され、自由に買い物ができたという。また、罪人を捕縛したり、喧嘩や復讐などのいさかいもイチの立つ場所ではしてはならない、と決められていたという。特殊な空間である。
と、こういう例を出しながら、網野さんの論は後半から飛躍していく。「無縁」の原理は、世俗の権力や経済関係を逃れられる場所である点で、自由を実現する。しかし、そこには世俗の力や組織に守られないことの不利もあるし、世俗権力が法律の改定などにより、無縁の場をより強く支配しようと、その自由を狭めていく動きもある。
一方で、無縁=自由が歴史上、放浪や遍歴の職人、芸能民、僧侶らによって成り立ってきたこと、庶民に深くかかわることを確認する。無縁は、その人たちの生活の厳しさや抗いを必要ともした。そして、現代のシステム化された社会の中で、この無縁=自由の原理を復活させ、実現させることが希望になると説いていく。
最後の方は、引用してみようと思う。
そして、その「理想郷」のあり方は、西欧と日本でもちがうだろうと網野さんは言う。西欧近代は、フランス革命に見る通り「自由・平等・博愛」を掲げる。だが、日本の無縁の世界に見る、原始的な自由は、西欧の「自由」とはちがうのではないか?と網野さんは言う。
ここには、西欧近代の理念を受け継いだ、20世紀の学問の世界(アカデミズム)の中で、無縁=自由の研究をする網野さんの葛藤が見える。
こうまで語ったあと、網野さんは「風呂敷」を広げすぎた、と自戒しながらそれでも文章を続ける。
これが本文の最後であり、まるで詩のようだ。
今、ちょうど『マザー・テレサ 語る』という本を読み返しているが、マザー・テレサがインドで実現した「死を待つ人の家」(ニルマル・ヒリダイ)ほかの場所も、現代の所有をもとにした社会の中で、アジール(避難所)や「無縁」に当たる場だったのだと気がつく。
吟遊詩人もことばの技芸も、あらゆる芸術や自由な表現も、網野さんのいう「原無縁」や「自由」へと向かっているのかもしれない。
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