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『宝石の国』と東洋哲学について

 人気漫画『宝石の国』が完結したと言うことで、コミックデイズで完結記念全話無料キャンペーンやってたんです。
 それで読んだんですけど、ぶっ飛ぶぐらいいい漫画ですね。 
 
まだ読んでない人は絶対読んだ方がいいっすよ!と言いたくなるぐらい良い漫画でした。
 そして、読んでる時思ったのがですね、なんかスゲー既視感があるんですよ。なんだろうなぁと思って気がついたんですけど、宝石の国のお話は昔読んだ仏教の入門書の内容にめちゃくちゃ似ているんです。
 『宝石の国 仏教』で検索かけると、私と同じように思った方々が結構な人数いて、いろんな考察をされていました。更に深掘りすると案の定作者の市川春子さんは仏教高校の出身らしく、宝石の国=仏教のお話と言う図はまず違いないでしょう。

 さてさて、仏教の用語を当てはめて、それぞれのキャラクターやストーリーを考察されている方は結構居られるんですが、今回私はちょっと違う角度から宝石の国を考察したいと思いました。
 仏教の世界観を元に考察するのではなく、仏教的考え方、つまり東洋哲学的の観点を元に宝石の国を読み解いて行きたいと思います。
 ようするに仏教そのものではなく、仏教的思考方法でもって解読すると言うわけです。
 もちろん、ネタバレ全開なので未読の方はここで引き返してくださいませ。
  
 尚、東洋哲学に感して私は入門書を読んだ程度の浅知恵しか持っていないこと、更に言うと東洋哲学の考え方自体が説明すればするほどその本質から遠ざかると言う厄介な性質故、とても簡略化した説明しか出来ないことご了承下さい。(詳しい方がいればコメントとかで過不足について補足してもらえると助かります)


・東洋哲学の話の前に宝石の国における仏教要素をざっくりおさらい。


 さて、本題に入る前に宝石の国のどこら辺が仏教的な要素を含んでいるのかざっくりおさらいしておきましょう!!!

 まず、物語に出てくる三族、アドミラビリス族(肉)、宝石(骨)、月人(魂)は仏教で言うところの三界にいると思われます。
 三界とは、肉に囚われた欲界、物質に囚われた色界、精神に囚われた無色界を指します。仏教の世界では我々の魂はこの三界を彷徨い生死を繰り返しながら輪廻しているわけです。

 そして、月人達は永劫の生に嫌気がさして金剛による祈りにより、無になりたいと思っているわけです。
 ちなみに金剛のモデルは地蔵菩薩でまず間違い無いでしょう。地蔵菩薩は世にいうお地蔵さんです。道端にいらっしゃるあの方です。
 あのお方、実は仏教の中ではとてもとても偉い方なんですよ。仏教における最上位の方々は『如来』と呼ばれ悟りを開いた方々。そして菩薩はその次に偉い存在でして、如来になる為に修行している存在を指します。
 
 地蔵菩薩は釈迦の次に悟ることになっている弥勒菩薩が如来となるまでの間、この地上の人々を救う存在と言われています。
 さて、この地蔵菩薩ですが閻魔大王と同一人物であると言う説を皆様はご存知でしょうか?
 エンマと言うと宝石の国における月人の王ですね。彼らが同一人物…と言うことを踏まえてお話を見ると、二人は共通の目的を持って行動していましたね。
 そう、フォスこそ弥勒菩薩な訳で、物語の終盤、フォスが月人の為に祈りみんなが無になりましたとさ…

 この前提を踏まえた上で東洋哲学のお話に入って行きましょー!!!


・宝石の国は大乗仏教のお話だ!!!

 さて、宝石の国のストーリーは月人が無になる為に金剛(後にフォス)に祈らせたいという他力本願から発生していたドラマな訳です。
 つまり大乗仏教の考え方がメインな訳ですね。
 大乗仏教とは超分かりやすく言うと、『出家したり厳しい修行をしなかっても誰でも成仏出来ますよー』と言う教えです。その反対が上座仏教と言われ、こちらは『いやいや厳しい修行しないと成仏出来ないよ!』と言う教えなわけです。
 宝石の国に出てくる月人は俗っぽくて修行とは真逆の生活をしております。それでも彼らは他力(菩薩)の力で無になりたい(成仏したい)と考えていますので、明らかに上座仏教の考え方とは違いますね。

 さて、大乗仏教において超絶重要な経典がたります。それこそ『般若心経』です。
 般若心経、名前はご存知の方も多いのではないでしょうか?『ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー』のヤツです。
 この般若心経の教えこそが、私が思うに『宝石の国』を考える上でかなり重要なのではないかな?思います。

 さてさて、名前や「ぎゃーてー」というワードは知っていても意味は知らないと言う方が多いと思いますので、説明します。

 と、その前に…
 般若心経をより深く理解する為に、ブッダの教えと、ブッダの教えの原点になったウパニシャッド哲学についてざっっっく解説しやす!!!!

・ウパニシャッド哲学【私は不滅】


  ブッダ誕生よりも遥か昔。ウパニシャッド哲学というものがインドにありました。成り立ちとか歴史については今回は割愛します。
 ともあれ、大昔超人気だった哲学で、ブッダが生まれた時も超人気で、彼もその影響を少なからず受けていることはまず間違い無いでしょう。
 さて、このウパニシャッド哲学の根幹となる考えを【梵我一如】といいます。

 さて、梵我一如がどう言う考え方かと言うと、

 『世界を成り立たさる原理(ブラフマン)と私を成り立たさる原理(アートマン)が同一であることを知った人間は全ての苦悩から解放される』
 
 と言う考え方です。
 これだけ聞いても意味が分からないでしょ?
 安心してください。私も理解していません。

 は?と思われる方もいると思いますが、そもそも完全に理解できたら全ての苦悩から解放される訳でして、当然私は苦悩だらけの人生を送っているので到底理解したと言える状況にはありません。
 これが東洋哲学の最大のややこしい部分でして、知識的な理解など東洋哲学においては屁ほどの価値もないのです。
 東洋哲学の目的は今ある苦悩からの解放であり、理解ではないのです。
 もっと分かりやすく説明すると、私はゴキブリが嫌いです。例えば今部屋にゴキブリが現れたとして、
  
 ゴキブリは昆虫綱ゴキブリ目に分類され、不衛生ではあるが毒性がない。それ故に直ちに被害を被ることはなく、恐怖するような生き物ではない。

 とか、そう言う知識はクソの役にも立たない訳です。
 実際にゴキブリを叩き潰すか、捕まえて恐怖(苦悩)から解放される事こそが重要なのです。そしてその方法を模索する事こそが東洋哲学なのです。
 なので、前項で記載したように言葉による説明は東洋哲学においてあんまり重要ではないのです。

 だから説明自体無意味!!!こんな記事書くのやめだやめだ!!!となったら元も子もないので、拙い説明ですが話を続けさせていただきます。

 話がだいぶそれましたね。
 梵我一如を理解する為にブラフマンとアートマンについて深掘りしていきましょう。
 ブラフマンは比較的簡単ですね。世界を成り立たせる永遠不滅の原理のことを指します。
 問題はアートマンです。つまり、私です。
 私を定義するものはあるのでしょうか…
 試しに私は〇〇です。と言う文言を何個も作ってみましょう。
 
・私はサラリーマンです
・私は日本人です。
・私は篠崎愛のファンです
・私はGW中も働き詰めです

 さて、いずれも定義としては弱いですね。
 なぜならば、会社が潰れてサラリーマンでなくなっても私と言う存在は揺るぎませんし、日本がなくなって日本人でなくなっても私は私です。
 当然篠崎愛が結婚して悲しみのあまり私がファンをやめても私は私です。

 このように、自分を構成する社会的役割、地位、個性、全てを取り除くだけ取り除いていった後、最後に残ったものこそが私を定義するモノでしょう。

 それすなわち『私は今ここで私を認識している存在』。今私がここに存在していると認識している私だけはどう頑張っても否定出来ないのです。これこそ私の定義でしょう。
 人間は考える葦であると言ったパスカルの考え方に非常に似ていると私は思いました。
 しかし、面白いのはここから。
 ここで大いなる矛盾が生じます。
 それは…

 私は認識している存在こそが私なのだとしたら、私を認識している私をどのように認識すればよいのでしょうか?

 は?と思われる方がいらっしゃるかと思うので簡単に図にしてみましょう。

 私←私

 ←(認識)

 これが、今さっきお話しした私を定義する状態なわけです。私は今、私を認識している。しかし認識している私を認識する存在がいません。認識していないにもかかわらず、どうして認識している私がいると言えるのでしょうか?

 ならば

 私←私←私

 ←(認識)

 これならばどうでしょうか?
しかし、これでも私を認識する私を認識する私を認識する私が不在です。

 訳が分からないでしょ???

 何が言いたいかと言うとですね…
 
私=認識
しかし、認識は存在しない。
故に私を定義することはできない。
それ故に私=〇〇であると言う図式は永遠に存在せず、あるのは『私=〇〇ではない』ということのみ。

 私は何者でもないわけです。
 例えばタンスの角に小指をぶつけたらめちゃくちゃ痛いわけですが、私=〇〇と言う図式は永遠に成り立たないので、『私=痛がっている私』もまた存在しないのです。

 では、我々の人生とは一体何かというと、『全く意味のないもの』なのです。この世で起こることは私とは全くの無関係であり、人生とは、ただ目に映る映像を傍観し続けているだけなのです。
 これを古代インドでは『踊り子』と『観客』と言う言葉で表したそうです。
 今風に置き換えて『映画』と『観客』と置き換えましょう。人生で起こることと言うのは映画のスクリーンに映し出された映像のようなものであり、それを見ている観客である私(アートマン)に取っては一切関係ないことなのである。
 つまり!!!私(アートマン)は絶対に害されることがなく、永遠不滅のもの(ブラフマン)なのだ。

 さてさて、ここでようやく宝石の国の話に戻りましょう。
 フォスくんは序盤、自分に仕事がないことに感して大いに不満を持っています。
 彼は何者をも通さぬ不器用の地層の持ち主であり、更に宝石の中で一番脆い性質の持ち主です。

 フォスくんはそれを克服するかのように、彼の足は誰よりも早くなり、手は誰よりも器用で力強くなり、頭すら他人のモノとすげ替え、最後にはフォスくんと呼んでいいのかどうかすら分からない存在になりました。

 しかし、梵我一如の考え方からすると、仕事とか脆いと言う特性とかちょーどうでもいいことなのです。
 なぜならば、そんなことで自分の存在が定義されることなど一切ないからです。
 いるだけで迷惑と言われようが、そんなの一切自分とは関係ないのです。

 彼の…いや、宝石達の身に起こった悲劇の発端は一重にその『ちょーどうでもいいこと』にとらわれたからだと言えます。

 ダイヤモンドが

 『誰と比べたりもせず、嫉妬したり見栄をはったりしなくてすむかしら』

そして、フォス(だと思っている)に 

宝石の国より引用


『幸せ?』

 と第5話で言いますが、逆説的に言うと、嫉妬や見栄があるから不幸せなんです。

・ブッダの教え【私は存在しない】

ちなみに手塚治虫ブッダは名著of名著ですよ

 さて次にブッダのお話をしましょう!!!

 例によってブッダの人生や歴史については書き出すととんでもない長さになるので、超絶はしょります。

 ブッダは今で言うネパールの辺りにあった国の王子様だったんですけど人々の苦しみを見て、
『おっし!!!いっちょ、人の苦しみを無くす方法見つけてみっか!!!』と思い立ち29歳で出家します。

 当時の人々は…と言うか、今でもやってる人いるんですけど、梵我一如の考え方を発展させて苦行と言う修行をして悟り(真理を得ること)を開こうとしていました。

 梵我一如の考え方からすると、私は不滅な訳です。
なぜならば私を害することは何者にも出来ないからです。
  
 当然、ほんとぉ〜?
 と疑う人も出てきますよね。
 「あなたが、本当に不滅なら火炙りにされても痛くないはずですよね?できます?」
 とか意地悪なこと聞いてくるかもしれない。
 それに対して

 『できらぁ!!!』

  と答えるのが苦行です。
  苦行とは自分の身体を痛めつけ続けるのです。なぜならば、本当に梵我一如を理解しているのなら不滅なので痛くない。つまり、痛みに我慢できるほど理解に近付いていると言う考えに当時の方々は至ったからです。

 ブッダも出家して早々に苦行を始めますが、

 『これ意味なくね?』

 と速攻でやめます。

 なぜならば梵我一如の考え方からすると、
 不幸は仕事や役割といったちょーどうでもいいことに自分を同化させ『私はエリートサラリーマンである!』とか言い出すことから始まる訳であります。
 ならば苛烈な苦行をすることは『私は超痛い苦行に耐えた修行者である!』と言う誤った同化に他ならず、むしろ悟りから程遠い行為と考えたのです。

 そして、ブッダは考えます。
 そして考えに考えた結果、至った答えは…

 『私なんてモノは存在しない!!!』である。

 これはどう言うことかと言うと、梵我一如の考え方でいくと『私=〇〇ではない』としか言えないと先ほどの章で記載しましたね?
 しかし、こかにも大いなる矛盾が潜んでいます。

 『私は『私=〇〇ではない』としか言いようがない』と言う文章は既に『私=〇〇である』と言っているのに他ならない。つまり、破綻している文章なのです。なのでブッダは

 もうこれは…存在しないとしか言いようがねえな!!!

 とウパニシャッド哲学を完全否定した答えに到達したのであります。
 
 え!?私っていないの!?ちゃんとここに存在してんだけどぉ!!!と言う声が聞こえてきそうですが、ちゃんとブッダは説明しております。

 ブッダは縁起と言う言葉を用いて、私が存在しないことを説明しました。
 縁起とは、私たちの存在はとんでもない無数の因縁によって成り立っていると言う考えです。
 ピンと来ていない方が多くいらっしゃると思います。
 要するにガンプラです。
 私たちはガンプラなのです、そして私たちと言う存在は無数のパーツ(縁)によって成り立っていると言うわけです。
 私は今自分のアパートで風呂上がりにジャージ来て夜中にこれをぽちぽち書いているわけです。そんな今私が風呂上がりに執筆していると言う行為は、アパートを作った人がいないと存在せず、スマホを作った人がいないと存在せず、風呂釜を作った人がいないと存在せず、そもそも私の両親がいなければ存在せず、そんな両親の両親がいなければ存在しなかったわけです。
 つまり、私はさまざまな縁の集合体でしかなく、私と言う独立した存在はいない。故に私はいないと言えるのです。

 この実態がない状況をと言い、私が存在しないことを無我といいます。

 色即是空、空即是色

 の空なのです。

 さぁ、いよいよ般若心経の話をし始めようではありませんか!!!…とその前に他力本願についてお話をさせて下さい。

・他力本願について 

 

宝石の国より


 他力本願と言う言葉が作中に出てきたのを覚えていらっしゃいますでしょうか?
 第88話にてエンマが話しています。

『緊急時、金剛を祈らせる条件はふたつあって
 ひとつは金剛が人間と認めた者であること、
 もうひとつは他力本願であること
 
 人類にとって他力である金剛に心の底から生の終わりを願う』
  
   そうエンマはいいます。
 思い返せば、月人達…と言うかエンマってとんでもなく最悪じゃないですか?
 金剛に祈ってほしいと頼み込みまくって、聞き入れられないと金剛の大切にしている宝石達を破壊し始めるし、金剛がダメだと思えばフォスくんを1万年かけて神にしたてあげて祈りを強要する。自分はカンゴームちゃんとイチャイチャしまくって安全なところで計画練っているだけ!!!マジで他人頼み過ぎて最低!!!

 それでいいんです!!!
 
 仏教的には他力本願って悪い意味じゃないんです。
 むしろ、いい意味なんです。

 他力本願を重視したのは浄土真宗の親鸞
 
そもそも浄土真宗の教えは、一心に『南無阿弥陀仏』と唱えること。これはどう言う意味かといいますと

 『助けてください!!!阿弥陀(偉いお坊さんの名前です)様!!!』

 と言う意味なのです。
   教えからして他力本願なのですが、一体なぜそうまで人を頼るのかというとですね、人は本来『無為自然(あるがままに任せる)』なのだと言うことが東洋哲学の根幹だからです。そもそもブッダが『私と言う存在はいない』といった段階で自力と言うものは存在しないことも証明されているからです。
 それなのに自力で何かしようなんて言うのは、まったくの無駄も良いところ。むしろ、自堕落でどうしようもない悪人の方が他力を意識し易く真理へと近づくわけです。

 それを元に考えると、エンマの『他人に祈ってもらおう!』と言う他力は『自分たちで無に行こう!!!』よりも確かにとても現実的で一番筋道が立った行動のように思えてきます。

 また、エンマ以上に作中で他力本願の存在がいます。それが主人公フォスです。
 中盤から終盤にかけてフォスの行動原理は一貫して金剛に祈ってもらおうなのです。
 見方を変えれば一心に地蔵菩薩に祈りを捧げていたとも取れます。
 これは南無阿弥陀仏(助けてください!阿弥陀様!)と同じく、助けてください!金剛様!と言っているようなもの。つまり真理へと到達するための修行とほぼイコールなのです。
 しかし、問題がありました。
 金剛はどうやっても祈ってくれません。
 ここでまた大いなる矛盾が生じたのです。

 梵我一如の項で説明した通り、『私は他力本願である』と言う結論は絶対に出ないのです。 
 なぜならば、私はどこまで考えても存在しないわけですから、『私は他力本願である』なんて言えるはずがないのです。
 
 そこでフォスは金剛に『壊れろ!』と言い、他力すらも否定します。
 そして、1万年に及ぶ孤独が始まるのです…

・ひたすらに座り続ける禅

絶望しかないシーン

 金剛の力を移行するのに1万年かかる…
 フォスはひたすら海辺で祈り続けます。
 その最中、金剛の過去が脳裏に映し出されたり、自分の過去を思い出したりしていた様が描かれています。
 この描写、私は非常に禅に近いと考えました。
 禅とは、仏教の宗派のひとつ禅宗の修行のひとつです。それはつまり、ひたすら座り続けると言うことを指します。

 なぜそんなことをするのか?
 それは『捉われる』ことから脱出する為です。

 これはどう言うことかと言うと、
 たとえば、さきほどの他力本願の項目で『他力になって無為自然(あるがままの状態)になるべし!』と記載しましたが、『他力本願になって無為自然になるべしと言う思考自体が無為自然(あるがまま)ではない』状態と言えましょう。
 なるほど、『無為自然(ひとつの真理)に捉われてはいけないんだ』と言うことが明らかになります。
 しかし、これは『無為自然に捉われてはいけない』という思考に捉われているわけです。なるほど!!捉われてはいけないにも捉われてはいけないんだな!!!と手を打ってまたも、今度は捉われてはいけないに捉われてはいけないに捉われているわけです。

 ならどうすりゃええねん!!!

 に対して禅宗の答えはひとつです。
 
 座れ
 
 です。

 え?座るの?

 ってびっくりしますよね。禅宗はとにかく座れと言います。
 そう言われたあなたは言われるがままに座り、とにかくじっとじーーーーっと座り続けます。

 ったく、こんなことがなんの役に立つんだよ…
 腹減ったぁ…
 女の子と遊びたいなぁ…
 あ、いかんいかん…ちゃんと心を静かにしないと…

 ダメだ…心を静かにしようとすればするほど、雑念が湧き出す…

 ならば、もう考えちゃダメだではなく、浮かび上がる雑念をただ見た目よう。

 あなたはまるで第三者のようにあなた自身を見つめていきます。すると、あなたは自分の思考は思考する道具ではなくなり、その意義を失い勢いも失っていきます。つまり苦しみも悲しみも全てなくなっていきます。
 そして、あなたの中に完全な静寂が訪れます。
 その瞬間、気がつくのです。

 なんだ、散々探していた真理は既に自分の中にあったんだ、と。

 探して求めていた仏は実は自分自身だったのです。
 ここで、フォス=弥勒菩薩の図式が完成します。

 さて、ここでフォスくんの足跡を辿りましょう。

彼は役立たずと言われていた

多くの装飾品を身につけ強くなるが自分自身ではなくなっていく

金剛に祈らせようとする

金剛は祈ってくれず、1万年の孤独を彷徨う

1万年の時を経て金剛の力を移管させ、神にも近い存在になる。

実はこのプロセスこそ、般若心経なのです。

・この世のものは全て存在しない!!!

 ここからがいよいよ本題です。
 般若心経の般若とは、あの鬼女のことではありません。仏教における般若とは『知恵』を指します。そして、心経は『教え』を意味します。
 つまり、般若心経は『知恵の教え』なのです。
 では、一体何を教えてくれているのでしょうか?

 
 般若心経で有名な『色即是空・空即是色』ですが、これは『そもそもこの世に実体のあるモノなんてのはねえ!!!』という話です。
 それは、先ほどの縁起の話からもご理解いただせるハズ。
 そを元に般若心経が語っている知恵が『無分別智』です。

 物事を理解する方法には、言葉や方程式による理解『分別智』があります。
 例えばA=B、B=C、故にA=Cみたいな感じです。そして、ほとんどの人間が日常的に扱っている理解の方法はこの分別智なわけです。

 これに対していやいやちょっと待てよ!!!と般若心経は言っているわけです。
 そもそもこの世のモノは全て縁起であり、全てはゆるやかに繋がりあっているのにどうしてAとかBとかCとか分別出来るんだよ!!!
 もっと概念的に考えようぜ!!!!
 と言うのが『無分別智』なのです。

 もちろん、無分別智の答えはひとつである。

 この世も、篠崎愛も、GWも何もかもぜーんぶないのだ!!!
 
 スタープラチナがオラオラオラオラオラ!!!とオラオララッシュするがごとく、般若心経はないないないないないないなラッシュを繰り出しやがるのです。
  
 でも、ないないラッシュでもどうしても否定できない。それが『私』と『他人』です。
 冒頭にも記載したように、どう頑張っても今ここに存在している私だけは否定できず、私がいることはつまり他人がいると言うことなのです。
 それ故、私と他者だけはこのないないラッシュが通用せず、また、この私と他者の垣根をぶち破った時、究極の知恵=般若が誕生するわけです。

 つまり、究極的にブッダの無我に真の意味で辿り着くわけです。

 さてさてさてさて!!!
 フォスくんの足跡をもう一度辿ってみましょう。

彼は役立たずと言われていた
(梵我一如の考え方からすると、役に立つとか立たないとか全く無意味な考え方)

多くの装飾品を身につけ強くなるが自分自身ではなくなっていく
(自分を間違ったモノと同化させていき、悩みが更に加速する)

金剛に祈らせようとする
ないないラッシュ発動!!!自力を否定
(間違ったモノとの同化により、フォスは自力を否定し、悪人[人間臭い存在]となり他力本願に至る)

金剛は祈ってくれず、1万年の孤独を彷徨う
ないないラッシュ!!!今度は他力本願を否定
(他力本願すら否定し、禅に入る)


1万年の時を経て金剛の力を移管させ、神にも近い存在になる。
ないないラッシュ!!!私すらも捨てる
(第98話で、『私はずっと1人』『1万年と少しの間はなにもなかった』と語るフォス。全ての事象を否定し、神に近い存在となる)

 こう考えると、宝石の国とはフォスくんが悟るまでのプロセスを描いた作品とも言えるわけです。
 しかし、本作が超名作たらしめているのは、むしろこの悟った後にこそあると私は考えています。

・悟りすら否定する

石くんたち。かわいい。

 神に近い存在となり、地上を1人彷徨っていたフォスは石くんと出会います。人間に変わる新たなる無機生物です。
 そして、金剛の兄である兄機とも遭遇。
 みんなで仲良く暮らします。
 金剛は宝石と出会った時、執着が心の中に渦巻き、宝石に人間の形を与え、役割を与えて縛りますが、悟ったフォスくんはそんな愚行を犯しません。
 あくまでも自然の流れに沿って石くんたちと平和に暮らします。
 
 そして、フォスくんは物語の最終盤で地球が崩壊する時、地球に残り自らの生を捨てて文字通り『無』になろうとします。
 そんな死に行くフォス君の前に現れたのは兄機。
 彼はフォス君の身体に残った純粋なフォス…つまり『フォスフォフィライト』を連れて行きます。

兄機大好き

 フォスくん、石くん達、そして兄機は宇宙船に乗って石達が幸せに暮らす星(宝石の国)で幸せに暮らし続けました…と言うところで物語が終わります。

 兄機が『連れてくぜ!!!』とフォスを助けるシーン…あそこで涙腺決壊しました。

 なぜならばあのシーンは、 
 
 役立たずである自分に悩み、葛藤して、そんな自分から逃れるかのように、姿形が変わっていき、更にそこから全てを捨てて、傷つき、傷つけ、悩み苦しみ、そして悩みや苦しみすらも捨てて弥勒菩薩となり、その上で無我の境地に至り、自分すらも文字通り捨てると言う悟りの境地にたどり着いた果てが、

 否定に否定を重ねても否定しきれなかった自分自身を誰かが助けにきてくれるわけです…
 つまり、最後の最後にフォスは無我すらも否定するわけです。

 その悟りすらも否定した先の世界が、とっっても素敵な穏やかな国だったなんて涙出ますよ…自分…

 そして、最後、フォスくんは絡んで彼の身体は割れてしまいます。でも、石達の国(宝石の国)ではそれを役立たずだなんて言う人はいません。
 ただ、軽くなったね!と言う事実のみがそこにあるのです。
 そして、砕けたフォスの破片は、宇宙をかけ、時空すらも駆け抜け、昔の自分を暖かく照らすのです。
 私を否定するかのように、変貌を遂げてきたフォスが自分自身あるがままでいいと受け入れ(無為自然)、自分自身を照らすんですよ!!!
 
 もうね…感動とかそう言う言葉で言い尽くせないですよ…私は…

・最後に

 気がつけば1万字以上書き殴っていました。
 ハッキリ言って、私の東洋哲学の知識は本当に浅いです。なんなら今回の記事もwiki情報と超絶名著『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』を読んで自分なりに解釈して抜粋してお話をさせていただいたに過ぎません。
 なので、解釈とかだいぶ間違っているかもしれないと結構不安ですので、詳しい人補足&修正情報下さい。
 あと『史上最強の哲学入門』は名著過ぎるので、是非とも気になった方はご一読のほどよろしくです。
 私がここまでアツからなってしまった理由としては、フォスくんに自分をめちゃくちゃ投影しちゃったからなんです(東洋哲学的には愚の骨頂ですね)。
 私も、昔から何か秀でたところとかなく、どちらかと言うと周りと馴染めず役立たずと言われている立場でした。と言うか、今も職場で上手く馴染めてません爆笑。
 
 フォスくんが迷走したり、他人に傷つけられたり、傷つけてしまったりするのが本当に見ててツラくてツラくて…

 そんなお辛いお話の最後にフォスはフォスのままでいいんだよ。と言うとんでもなく優しい結論を突きつけられた時、なぜだか自分まで少し気分が軽くなったんです。
 
 結局私がつまり、1万字かけて何が言いたかったかと言うとですね…

 めっっちゃ面白かったわぁあ!!!

 と言う言葉につきます。
 ここまで読んでいただきどうもありがとうございました。

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