ふつつか者の概念を捨てた日
わたしの人生では、大事な日はいつも雨が降ります。降らないときももちろんありますが、雨が降って「やっぱり雨だ」と思うことがよくあります。
夫にプロポーズされた日も、雨が降っていました。六本木ヒルズの階段でした。プロポーズするなら雨の日にしてね、なんて申し合わせたわけでは、もちろんありません。結果として雨が降っていました。二人で傘をさして歩いている途中の、階段の踊り場でした。
書きながら気づいたのですが、もしかしたら、夫も雨の種族なのかもしれません。今度聞いてみます。もし彼も雨の種族なら、我が子たちは雨の種族のサラブレッドです。
プロポーズされたとき、わたしに驚きはありませんでした。「いま?」という意味での驚きは多少ありましたが、結婚するという方向性は、すでに二人の間では定まった路線でしたから。
「結婚してくれる?」と彼に聞かれて、わたしは「する、する!」と答えました。気持ち的には食い気味の回答でした。わたしの荒んだ婚活に、正式に終止符が打たれた瞬間でもありました。
「ふつつか者ですが、どうぞ宜しくお願いします」
わたしは、手を前に重ね、目を軽く伏せながら、最大限のしとやかさをまとって言いました。やまとなでしこのここ一番を見せてやるくらいの気持ちだったのです。
当時、日本人のカウンターパートと日本語でやりとりするくらい日本語ができた夫ですが、さすがに「ふつつか者」という言葉はわからなかったようです。
「どういう意味?」と尋ねる彼に、わたしはこのフレーズを英訳して伝えました。一字一句までは覚えていませんが、こんな感じの英訳だったと思います。
I'm not good enough, but please take me.
自分で言いながら、なんだこれってなりました。聞いている夫はもっとなんだそれって顔をしていました。
「ゴメン、言っている意味がわからない。」
要するに、君は僕の結婚相手としてふさわしくないって言っているの?だから結婚できない、というなら前後の意味がすっとつながるんだけど、でも結婚しましょうってことなの?だったら、前半部分をどうしてわざわざ言ったの?
わたしは、アメリカ人として至極まっとうな疑問を抱いた彼に、懇切丁寧に説明をしました。
要するに、いまわたしは謙遜しているのだということ。ふつつか者だと自分を落として見せながら、心のうちでは、ふつつか者だなんて5%くらいしか思っていないこと。それどころか、君はほんっとうに女を見る目があって、君の決断は決して間違っていないと全力で自分を推していること。
こうやって、日本人は本音と建て前をさりげなく使い分けて生きているんだよ、と。
「日本人ってときどき面白いことを言うよね。」
彼は、わたしの解説を聞いて、またひとつ、日本語と日本文化への理解を深めたのでした。それと同時に、わたしは、日本人の美徳である謙遜の概念がまったく通用しない、アメリカという世界へ一歩を踏み出したのです。
実際にアメリカで生活してみると、アメリカで人間関係を構築していくとき、謙遜することはちっとも役に立ちません。それどころか、謙遜した言葉のとおりに相手が受け止めてしまうので、狙ったのと逆効果になることすらあります。あとで、いやいや違うの、そういう意味じゃなくて…と説明なんてしだすと、相手はきょとんとしてしまいます。
なので、アメリカで生活するときのわたしは、謙遜の鎧は脱ぐことにしています。AはA、BはBというストレートな言葉を使った方が、コミュニケーションがうまくいきます。
だから、いまのアメリカ版のわたしなら、プロポーズを受けたときに、「ふつつか者ですが…」なんて回答はしません。そうだなあ、
Good decision!
といって、相手の決断をまず褒めますね。
(おわり)
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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