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わたしの思う「美しい」についての迷走録②


土曜日の夜、「ビッグ・リトル・ファーム」という映画を観ていると、一週間ぶりのおばあちゃんからの電話。
今週は本当に怒涛でわたしなりのフルスイング状態。 ほんとにほんとに心も身体もクタクタだった。
そんな時に大好きなおばあちゃんの声を聞いたら、不思議と涙が止まらなくて相槌も打てなかった。

おばあちゃんはどんな時でも私の味方でいてくれた人。
大人になったらぜったいに恩返しをし尽くそうと思っていた。だけど今はおばあちゃんの1番の願いの「会いたい」を叶えられずにいる。
                         会いに行くのは電車で1時間弱。
帰ることなんてとても簡単だったのに、今はそれができない。ただ、「ただいま」って言いたいのに、おばあちゃんのみそおにぎり食べたいのに。そんな気持ちも伝えられないし、叶わなくて、電話で声を聞くたびに「ごめんね。」の気持ちでいっぱいになる。

大袈裟に聞こえてしまったかもしれないけど、私は大切な誰かに会いたかったり、触れたいと思ってしまうことは、人間だったら当たり前のようなことな気がしていて。
生まれたばかりの赤ちゃんだって、そのためにあんなに泣いて、あんなにかわいく笑って、自分を守ってくれる誰かと触れ合うことを求めている。
いくら大人になったといっても、触れ合いたい誰かと触れ合うことや、会うこともシャットダウンされることがこんなにも辛いんだと。やっぱりちゃんと私も人間なんだなぁと。

だけど、そんな時に不思議と、学生時代から仲良しで呑兵衛で陽気な2人から電話がかかってくる。
駅でイチャつくカップルの生中継や各々恋バナ、今日のお酒のラインナップや紅白歌合戦の感想など。
偶然なのかもしれないけど、1人だったら落ちるところまで落ちていたかもしれないけど、そんなタイミングで私を涙が出るほど笑わしてくれるものだから、やっぱり2人はすごいと思うし、落ちるべきタイミングでないのだと思った。

こうやって、わたしを依存させてくれる先が多いことに感謝と、当たり前の日常も当たり前でなく偶然の連続で、そして特別で。


そう思い、最近、子どもたちとの日常もなにか形に残せないかなと模索していて、2週間ほど前からチェキで記録を残している。(1日1枚、子どもに好きなように好きな風景を撮ってもらっている)


心動くときってほんの一瞬かもしれないけど、その一瞬に気付いたり、共感し合えたり、よろこびあえるだけで、今日があってよかった。そう思える。

叶わないことがあるからこそ、美しく見える風景がある。そう思った土曜日。

とりあえず、予定とは全く違う投稿だったけどこれが今のわたしの感じること。きっと美しさに通ずる何かがあるはず。

金曜日に降った雪、すごくきれいだったなぁ。その瞬間が形に残ってくれていてよかった。そこにわたしと大切な誰かがいた証が残っていてくれてよかった。その証が形としてきれいでなくても。でもそれが積み重なったとき、生まれるものがたのしみである。

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