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沖縄地下格闘技の旅。失った思い出とアゴの骨。②

(前回の記事はこちら)

ノーガードで殴り合った結果、フルスイングでアゴを撃ち抜かれていました。なぜかダウンはしなかったのですが、その代わりに口から大量の出血をしていました。

速攻で病院搬送。あれ?アゴがない。

(ちょっとだけグロいかもしれないです。)

そのまま病院へ搬送され、緊急で処置をしてもらうことになりました。そして、鏡で初めて自分の状態を見ました。

「、、、歯が抜けてる?」

鏡に写った自分は、歯が2本くらい抜けて見えました。このときは、パンチの衝撃で歯が抜けて出血してたのか、と思っていたのですが、よく見ると歯が折れていたのではなく、歯茎が歯の場所から顎先に至るまで縦に裂けていました。

そこから緊急で処置をしてもらい、次の日に北海道へ帰るためホテルへ戻りました。

同じ部屋にいた刺青アニキはとても心配してくれていて、

「なんかあったらいつでも何でも電話してくれよ。」

そう言ってくださりました。

その後、アニキは外出されました。

部屋の窓を覗くと、ホテルの前にあるビーチでバナナボートに乗っているアニキがいました。たぶん電話をしても気付かれなかったでしょう。僕はそれをいろいろな気持ちで眺めていました。


落ち着いたところで母親に連絡。

心配していた母親は、沖縄まで来ようとしてくれていました。そんなに心配かけてしまって申し訳ない、ごめん、と謝りました。後日、用意していたキャリーバッグに水着が入っていたことを知ることになります。僕は大人が信じられなくなりました。


そうして、札幌に帰り、約3週間ほどの入院生活が始まりました。

盛んな高校3年生の入院生活


まずは手術。

アゴにプレートを入れ、上下の歯を約1ヶ月固定しました。プレートは1年近くアゴに入れ、完全にくっついた後に摘出しました。


こんな感じで固定して口を開くことができなかったため、食事は点滴と歯の隙間から液体を流し込むだけでした。この生活を約1ヶ月続けました。

食事は下の写真の通りです。


このように、バラエティに富んだ素晴らしい食事を提供していただきました。この日は品揃えも良く、美味しかったことが写真から伝わります。(これで1ヶ月7キロほど体重が落ちました。)

入院中はすることがないのですが、高校3年生の盛んな時期ということもあり、点滴の針がついた状態で毎日階段ダッシュをしてしまいました。その病院は10階くらいまであったため、タイムを測りながら1階から最上階まで全力で階段を駆け上がりました。後半、針が体の中に入ってしまい看護師さんに怒られて中止となりました。

入院中には、色々な方がお見舞いに来てくれました。

彼女や友人、担任の先生が会いに来てくれました。

彼女には、沖縄で買ったエメラルド色の石がついたネックレスをサプライズでプレゼントしました。その後、それをつけているところを見ることは一度もありませんでした。

担任の先生は、差し入れを持ってきてくれました。袋を開けると、大判のせんべいが入っており、それを見た先生は「あ、口開かないから食えないもんなwwww」と言い放って帰って行きました。僕は次第に孤独を感じるようになっていきました。

そうしている間に時間が経ち、ようやく退院&上下のアゴの固定が外れるときが来ました。

僕は口が開くようになったらまず、マックのポテトを食べると心に決めていました。

いざ実食のとき。

まず口が指一本分も開かなかったため、針に糸を通すように、ポテトを一本口の中に入れました。しかし、舌の使い方を体が忘れていたため、ポテトを噛むことができず、Mサイズを1人前食べ終えるまでに1時間半以上かかりました。

その後焼肉屋にも行ったのですが、肉を噛むことができず、舌の使い方を思い出すまでに1週間ほどかかりました。

でも、普通の生活に戻ってきたことが何よりも嬉しかったことを覚えています。

最後の学校祭。

普通の生活に戻り、高校生活最後の学校祭に滑り込みで参加できました。

高校に行くとまず、担任の先生と話をしました。通っていた高校は体育会系でもない普通の高校だったので、格闘技は辞めて普通の人生を歩むほうがいいんじゃないかと提案されました。でも、「こんなんで辞めんなよ!」と地下格の代表や副代表に言っていただいたこともあり、怪我が復活したらまたやるという選択をしました。どうやったら強くなれるのかとかはよくわからなかったけど、見返してやる(誰に対してかはわからないけど)と思っていました。

そうして先生との話し合いが終了し、仲間たちと出店を回り、終わりの花火を見ました。

打ち上げで仲間たちと焼肉を食べているときに、将来の話になりました。

「〜大学を推薦で受けようと思ってて、•••」

???

高校3年生の夏。大学受験まで半年となっていました。現実逃避をするように地下格の試合に出ていた自分は、他人事のようにニコニコ話を聞いていました。

当時、高校の成績は評定平均は2.3/5。テストは学年で下から10番圏内(320人中312位)でした。

沖縄まで水着を持って来ようとしてた母親からは、昔から「強い男=頭めっちゃ良い」みたいなことを刷り込まれていたため、大学には行こうと思ってましたが、上記のように成績がアレなため、担任からは私立の夜間を目指すように言われていました。しかしそんな先生の勧めを断り、国公立の小樽商科大学に受験することを決めました。

アホな自分は、ギリギリになったら覚醒するタイプだと思い込んでいたため、10月から受験勉強を開始し、大学受験に挑みました。


そうして迎えた受験合格発表日。


合格者の欄に、僕の名前はありませんでした。


僕は、ニートとなりました。


「このままニートでいるわけには行かない。働くか、来年もう一回受験するかのどっちかだ。」

考えた結果、僕は代々木ゼミナールの窓口で浪人する手続きをしていました。


そうして、親に金を借りて、1年間浪人することを決めました。


次回、「北大受験。予備校は天国か、はたまた地獄か」について書きます。


今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!



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