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大学プロ志望編。格闘技が大嫌いだった頃の話。

今回は大学プロ志望時代の話について書きます。

地方からプロ選手を目指した若者のいち体験談として書いていこうと思います。


地下格から世界へ!なんて夢物語やんけ


地下格闘技の試合に出ていた19歳の頃に、当時所属していた地下格チームの代表が繋いでくれ、「Kick boxing academy Sapporo」にて練習することが決まりました。そのジムにはプロのキックボクサーが所属しており、まずはそこで打撃を磨いていくことになりました。

なんでMMAのプロ志望なのにMMAのジムに所属しないのか?

と思うかもしれませんが、
①当時の自分は札幌で他に良いMMAの練習環境があることをあまり知らなかった
②自分はこれだという明確な武器を持っていなかったので、ひとまずはちょっと得意な打撃を極めていくことを決めた
③ジムの代表の方が色々な格闘技団体とのコネクションを持っていて、プロの舞台で戦うチャンスを頂けると思った
という3つの理由で、当ジムに所属することとなりました。

水曜夜20時半頃。初めてのプロ練参加。

シャドーなどのアップを済まし、キックボクシングのスパーリングをすることになりました。

相手は山川賢誠さん(現RISEフェザー級7位)でした。

(賢誠さんが見てないことを信じて書くのですが、)
見た瞬間絶対殺れると思いました。当時、地下格では試合のほとんどでKO勝ちをしていて、ウクライナ人やヤクザモノと戦ってたので、自分のことを「修羅場をくぐり抜けてきたヤバいやつ」だと勘違いしていました。

いざ実戦の時。

開始してすぐに、蹴られた腕が上がらなくなりました。
当時蹴りのガードの仕方を知らなかったので、そのままひたすらに腕を蹴られ続けました。



↑練習後の写真

そうして腕が上がらなくなった後、三日月蹴りでダウンしてしまいました。

えげつないタイミングでもらったため、10カウントを過ぎても立つことができませんでした。

そうしていると、そのジムのボスである小堀師範から

「おーい、立てるかー?」

と言われました。倒れたままで顔を上げると、そこには師範と賢誠さんが倒れている僕に冷たい視線を送っていました。しばらく倒れてたら「じゃあ終わりだな」となると思っていたのですが、そこでそんなことはなく、立つまで待たれていました。

その後も練習続行。殴る蹴るの暴行を受け続け、10ラウンドのスパーリングの中で何度も倒されました。

よく「プロの洗礼を〜〜」みたいなことは聞くと思うのですが、当時のあの暴行はその域を超えていたように思います。デスノートがあればまずこの2人の名前を書くと、その日決心しました。

そうしてスパーリングが終わり、きつめのミットや補強を終えて、初めての「プロ練」を終えました。掃除を終えた頃、時計の針は23時を指していました。


↑悪魔(賢誠さん)の写真。先日狂犬森本選手をぶっ倒してました。

修行開始。サンドバッグにジャブ10ラウンド。

次の日の朝を迎えました。蹴られた手と足は動かず、手すりなしでは通学できない状態でした。

その状態で木〜火曜を過ごし、また水曜にボコられてその状態になる、というのを半年以上続けていました。木曜日の段階で、「水曜日まであと6日。。」みたいなカウントダウンをしていました。

大学の友達(だと僕が思っていた人たち)は、校内でジンギスカンパーティーをしたり合コンしたりしていました。大学生活序盤は、その人たちとジムの2人の悪魔に対する恨み妬み辛みを抱きながら生きることになります。

自分は基本的なところから練習をする必要があったので、スパーリング以外の練習では、サンドバッグにジャブをひたすら10ラウンド打ち続けたり、蹴りのやり方を教えてもらったり、砂袋を蹴ってスネを鍛えたりしていました。

時には人間サンドバッグ(ジムにいきなり来て「僕をサンドバッグとして雇ってください!」とお願いをしてきたやばいやつ)とスパーリングしたりもしました。

そうしているうちに少しずつマシになり、賢誠さんとのスパーリングでダウンする回数も徐々に減っていきました。


プロデビュー。


そうして迎えた総合格闘技のプロデビュー戦はパンクラスでした。結果は3-0の判定負け。3ラウンド通して抑え込まれ続けて、デビュー戦は負けというスタートでした。

そのときは投げとかで寝かされたら負けるくらいの感覚で試合をしていて、敗戦は当たり前の結果でした。

その後師範と相談した結果、次の自分の試合は総合格闘技ではなく、キックボクシングの試合でした。ジムに所属した当初の「武器を身につける」ということでいうとまだまだ発展途上だし、今は何か自信を持てる、信じることのできる武器を1つ持とう、という理由によっての判断でした。その判断が正しかったのかどうか、そのときはわかりませんでした。答え合わせはまだ先だ!

そうして、その決断から4ヶ月後。僕は後楽園ホールでRISEの試合に出場していました。相手はKENTA選手で、ジャパンカップというアマチュア全国大会みたいなやつの優勝者でした。応援団は50人以上来ていたのに対して、僕の応援団は2人でした。結果は引き分け。勝つことは難しいです。



その試合の2ヶ月後。

大会主催者からチャンスをいただいて、ジムに入門して約1年が経った自分の目の前には、当時RISEバンタム級6位の出口選手が立っていました。試合の結果は、3-0の判定勝ち。その試合後、雑誌の記事にて佐藤嘉洋さんに「北のペトロシアン」と書かれてめちゃくちゃ嬉しかったのを覚えています。笑
今までの苦しかったことが初めて報われた試合でした。賢誠さんにたくさんボコられてよかった。




その試合を経て、周りからはキックボクシングの選手として試合をしていくことを勧められたのですが、総合格闘技の選手として強くなることへの憧れが捨てらなかったし、キックの試合をする目的は「総合格闘技で勝っていくための武器を手に入れること」であったので、その武器を持って総合格闘技選手として戦っていくことを決めます。

ただ現実は甘くなく、その後勝って負けてを繰り返し、総合格闘技の戦績は4勝3敗。負けの試合はすべて組技・寝技でやられてしまいます。

大学の柔道部での練習やパラエストラ札幌でのグラップリング・柔術の練習などをさせてもらう中で、それぞれの競技力は少しずつついてきたのか?と感じていたのですが、すべてひっくるめての「総合」格闘技選手としては、思うように強くなれませんでした。地方にいても強くなれる選手はいますが、自分は覚えも悪く不器用なので、試合で勝つためには何か変えなきゃいけない、そう考えるようになりました。



そう考えるようになってから迎えた大学4年の夏。

自分は格闘技で強くなるために上京することを決めます。ただ、東京に数多くジムがある中、どのジムに所属すれば自分の武器を活かして強くなれるのか、当時は全くわかりませんでした。

まずは本格的に上京する前に、自分が所属すべきジムを探しに行こう。

そう思い、東京への出稽古合宿をすることを決めます。


次回、「上京編。TRIBE TOKYO MMAに入門を決めた理由。」について書いていきます。


今回も読んでいただき、ありがとうございました!



p.s. 
北海道で土台を作ってくれた師範に感謝します。


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