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小説 弦月11

 7月の始め、仕事が終わり駅からマンションへ向かう途中、道ばたで偶然鈴木さんに会った。向こうも仕事帰りだった。彼は白いTシャツにジーンズという格好だった。黒いショルダーバッグを肩にかけていた。

 鈴木さんはおそらく私のマンションのすぐ近くに住んでいるのだろうとは思っていたが、小料理屋以外で会うのは初めてだった。私は近所のスーパーに寄ったので、肉や野菜が入ったレジ袋を右手に持ち、左手にはトイレットペーパーを持っていた。

 時刻は19時を少し過ぎていて、やっと日が暮れるところだった。暑い中荷物を持って歩いていた事に加えて、鈴木さんに会うという予期せぬ出来事が起こってしまったので、私は動揺して全身から汗が吹き出ていた。

「さ、齋藤さん、顔色が悪いけど大丈夫?そこの公園にベンチがあるからちょっと座った方がいいよ」
 鈴木さんは桜の木が植えてある公園を指さして心配そうに言った。

 公園のベンチに二人で並んで腰掛けた。蝉がうるさく鳴いていた。

「水分をとった方がいいよ。お、俺の飲みかけでよければ水を飲む?」と彼は言い、いつも仕事に持ってきている黒いショルダーバッグからペットボトルの水を取り出した。この間のようにまた私が倒れるのではないかと心配しているのだろう。鈴木さんは珍しく動揺しているようだった。

「大丈夫です。ちょっと暑くて、疲れただけです。倒れたりしないですよ。お茶も持ってます」と私は言った。バッグに入っていた水筒を出して中に残っていた麦茶をひとくちだけ飲んだ。すると鈴木さんは少し安心したようだった。

 ふと空を見ると、南の空にうっすらと半月が浮かんでいた。鈴木さんもそれを見て、「この間新月を見た気がするから、今日は上弦の月だね」と言った。

「私には上弦の月と下弦の月の違いがよくわかりません」
 近くで見る鈴木さんの横顔はとても素敵だった。とても40歳を過ぎているようには見えない。

「新月から上弦になって、満月になってから下弦になるんだよね。そしてまた新月になる。上弦と下弦では、月が昇る時間と沈む時間が違うんだ。満月だろうと半月だろうと新月だろうと、月っていうだけで秋の季語なんだって。何かの本で読んだ気がするな。きっと秋は月が美しく見えるからなんだろうね」

私は頷いた。

「つくづく思うけど、月って不思議だよね。月の裏側って、絶対に地球からは見えないんだよ。まあ衛星だから当然なんだけど。月の裏側には一体何があるんだろうって、子供の頃思ったよ。少なくともウサギはいないよね。宇宙人の基地かな」
鈴木さんは真面目な顔で言った。

「宇宙人の基地ですか」と私は笑って言った。

「ごめん、俺はなんか変なところがあるよね。普通の人は月なんか気にしないと思うんだ」と鈴木さんも笑いながら言った。私は鈴木さんが自分のことを俺と言うのを久しぶりにきいた。

「鈴木さん、普段は自分のことを俺って言うんですか?」と私は訊ねた。

「それはもちろん。僕って言うのは仕事のときだけだよ」 

「そうですよね。なんか、鈴木さんが俺って言うと、いつもより男性的な雰囲気がします」私はその時思ったことを正直に言った。

鈴木さんは少しだけ私の方を見て、それからまた月を見上げた。

「俺はこういう仕事をしてるから、異性からあんまり男としてみられないんだ。こういう性格のせいもあるだろうけど。それがいい事なのか悪いことなのか自分でもわからない」
彼は月を見上げたまま言った。

「鈴木さんはそのままで素敵だと思います。私は……」

 私は、……それ以上何も言えなくなってしまって、黙りこんでしまった。私は今何を言うつもりだったのだろう。
 すると鈴木さんが「私は?今なんて言おうとしたの?」と言った。無表情だった。

 私は、……そんな鈴木さんが好きですと言おうとしたのだ。でも言えなかったのだ。冗談でも言ってはいけないことだから。どうして今さらそんな事を鈴木さんはきいてくるのだろう。もうどうでもいい事ではないか。どっちみちこの人にはもう会えなくなるのだ。

「私は鈴木さんのことが好きです」

 私はその言葉を口にした時、自分がどんな表情をしているのか全く想像が出来なかった。自分でも驚くほど冷静だった。彼はそのままじっと私を見つめていた。その瞳にはなんの感情も含まれていないように見えた。

 鈴木さんはうつむいて、「どうして齋藤さんみたいな女性が、こんなおじさんを好きだなんて言ってくれるのか俺には理解出来ない」と静かな声で言った。

「俺も齋藤さんとこうして二人でいると辛いときがある。ていうかすごく辛い。俺もずっと……」

「やめましょう!」
私は大声を出して鈴木さんの言葉を遮った。「私達は、ていうか私と鈴木さんは、何もなかったんですよ。はじめから何も。もうそれでいいじゃないですか」

 涙が頬をつたう感触で、自分が泣いていることに気がついた。私は自分が泣いていることに気がつかないなんて、鈴木さんに会うまで経験したことが無かった。自分の感情を飲み込むことがこんなにも辛いなんて、知らなかったのだ。

 鈴木さんは一瞬驚いたような表情をして私を見たあと、うつむきながらゆっくりと目を閉じた。そして苦しそうな表情を浮かべて5秒くらい目を閉じていた。月の裏側の事でも考えていたのだろうか。それからまたゆっくりと目をあけて、少しだけ微笑んで「そうだね」と言った。

 日が落ちて辺りは暗くなり、月はより一層はっきりと見えるようになった。上弦の月は美しかった。もう蝉は鳴いていなかった。

「それじゃあ帰ろうか、仕事お疲れさまでした。もう暗いから気をつけて帰ってね」と彼は言って、立ち上がった。

「心配かけてすみませんでした」と私は言った。

 鈴木さんが「じゃあ」と言って私に背を向けて歩き出した時、私は彼の背後から声をかけた。
「鈴木さん、さようなら」

 すると鈴木さんは振り返って私を見て、「さようなら」と言った。口もとは微笑んでいたが、その瞳の奥にはひどく悲しい色が浮かんでいた。そして彼は私のマンションとは反対の方向へ向かって歩き出した。私は鈴木さんが見えなくなるまでずっとその後ろ姿を見つめていたが、彼がこちらを振り返ることはなかった。

 〈次回、最終話です。ここまで読んでくださった皆様、心より感謝申し上げます!〉



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