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小説 弦月7

 その施設の介護スタッフのシフトはだいたい月に3、4回夜勤があった。夜勤は16時から翌日9時までの勤務だった。日勤は早番、中番、遅番と細かくシフトが組まれていて、休みは土日祝日関係なかった。鈴木さんのほかは、男性のスタッフはひとりだけだつた。

 私は畑違いの職種から転職してきたし、一番下っ端だったので、率先して雑用を引き受けるようにした。迷ったら自分ひとりで判断しないで、先輩に報告して相談するように努めた。食事の介助や入浴介助、排泄介助など、はじめは緊張したが、慣れると自分なりに工夫が出来るようになってきた。

 働いてみると、驚くべきことにみんな全く遠慮なく私に私生活の事をきいてきた。離婚の原因や元夫がどのような人物だったか、など。特別悪気はないようだった。私は正直に浮気されたのだと答えた。

 同僚と親しくなるにつれて、離婚歴のある女性が意外と多いことに気がついた。そのなかにはシングルマザーも数人いた。みんなそれぞれ介護福祉士やケアマネージャーの資格を取るため勉強をしていたり、何かしらのスキルアップを目指して努力しているようだった。

 6月の終わり頃から、私は夜勤をするようになった。夜勤のあいだ一時間の仮眠は取れるが、本当に体力勝負だと感じた。でも夜勤明けの翌日は必ず休みだったので、回数を重ねるうちに次第に慣れていった。

 夜勤は二人でするので、勤務時間が長いぶん嫌でも同僚と会話をしなければならなかった。その会話のなかで私は相手の身の上を知ることが出来た。そこにはさまざまな人生観が含まれており、なるほどな、と関心させられることもしばしばあった。直子が、こういう女性ばかりの職場は人間関係が良くないとやっていけないんだよと言っていたのが良くわかった。確かにここの居心地は悪くなかった。

 なかでも、看護主任の鈴木さんの管理能力は素晴らしいと思った。こんなに女性に囲まれて仕事をしているなら、これは聞き上手になるのも当然だと思った。介護主任は河原さんという50代後半の大柄な女性で、年齢の割に頭の回転が早く、的確な指示を出す仕事の出来る人だった。その一方で情にもろい面があり、スタッフの私生活の相談まで受けていた。孫もいるとのことだった。

 河原さんに比べると、鈴木さんは常に冷静で客観的に物事を捉えて仕事をするひとだった。仕事に私情をはさむことはなかった。つまりお気に入りのスタッフを作ってその人だけを優遇するような事は決してしなかった。

 そして鈴木さんは看護師だからといって介護スタッフを見下すような姿勢は全くなく、むしろ看護師と介護スタッフの間に軋轢が生まれないように、いつもさり気なく気を配っていた。さらに、利用者が急に体調が悪くなったりすると、鈴木さんは普段とは別人のように大声を出して周囲のスタッフに指示を出した。利用者が食事中に食べ物をのどにつかえたり、急に転倒したりすると、スタッフの誰もが真っ先に鈴木さんに指示を仰いた。鈴木さんはすぐさま現場に駆けつけ、状況を把握し、今出来る最善の処置を行いながら、施設長である医師に報告をしていた。ここは病院ではないので、出来る処置も、物品も人材も限られているだろう。鈴木さんその環境を充分に理解した上で動いているように見えた。

 こういうことは普通の人には絶対に出来ないだろうなと私は思った。私は鈴木さんを異性としてだけでなく、人として尊敬するようにまでなってしまった。

 この施設で初めて鈴木さんと顔を合わせたとき、お互い驚いて口もきけなかった。私は彼と一緒に働くうちに、さらに途方に暮れてしまった。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。ここでの仕事にやりがいを感じなかったら、すぐにでも辞められたのに。そうすれば、こんなに彼を好きにならずに済んだのに。これ以上好きにならないでいられる方法を誰でもいいから教えて欲しかった。でも、当然そんなことは誰にもきけなかった。

 小料理屋にもすっかり行かなくなった。もしそこで鈴木さんに会ってしまったらと考えると、行くわけにはいかなかった。鈴木さんも仕事中、その小料理屋について特に私に何も言わなかった。

 短い夏がきて、あっという間に秋がきた。そして木枯らしが吹くようになった。私は頻回に夢をみるようになった。溺れるような夢だ。これが本当に忌々しかった。大人になってから水に対する恐怖感はだいぶやわらいできたと思っていたのに。

 でも、本当に心底忌々しかったのは鈴木さんと組む夜勤だった。夜勤の間はふたりきりで一緒に仕事をしなければならない。看護師との夜勤は、介護士同士で夜勤をするより利用者の体調の変化に柔軟に対応してもらえるのがありがたかったが、相手が鈴木さんとなると、私はどうしても緊張してしまった。

 12月の終わり、鈴木さんとの夜勤があった。交代でのお互いの仮眠が終わり、時計の針は夜中の3時をまわっていた。ナースステーションで二人でコーヒーを飲みながら、それぞれ電子カルテに介護記録を入力していた。

 その時、鈴木さんが突然言った。
「長年この仕事をしていて思うんだけど、この3時から4時までの時間て、不思議な時間帯だよね。妙なテンションになったり、普段とは違うことを言ってしまったり。……なんていうか、いつもの自分じゃなくなるような、魔の時間帯だなって、よく思うよ」

「そうですね、なんとなくわかります。夜から朝になる不思議な時間帯ですよね。私もよく寝ぼけたことを言ったり、やったりしますよ」と私は笑って答えた。

 鈴木さんは眠そうな目でぼんやりとパソコンを見つめながらこう言った。

「かげろうや、塚より外に住むばかりって俳句知ってる?昔、何かの本で読んだ気がするんだ。たしか、松尾芭蕉の弟子の俳句だったような気がするんだけど」

「知らないです。初めてききました。どういう意味なんですか?」

「どういう意味なんだろうなって、今ふっと思ったんだ。昆虫の蜉蝣って、たしか成虫になってから一日しか生きられないんだよね。だから、生きていても墓にいても大差ないって意味だった気がするんだ。昆虫の蜉蝣の名前って、あの地面に揺らめく陽炎からつけられたものらしいんだけど、どっちにしろ儚いものの例えで使われるよね。虫の蜉蝣も揺らめく陽炎も」

 私は戸惑った。鈴木さんはどうして突然そんな事を言い出すのだろう。でも鈴木さんの話は興味深かった。彼は以前はよくこういう抽象的なことを話題にしていた。

「どうして急にそんな事を言い出すんですか?魔の時間帯だから?」と私は訊ねた。

「いや、齋藤さんて、陽炎みたいだなって思って。すぐに消えてしまいそうな、儚い女性というか……。つかまえたら、きっとすぐに消えちゃうんだろうなって」
 鈴木さんの口調に迷いは全く感じられなかった。無表情のままだった。

 私はその言葉をきいて、びっくりして胸の奥が苦しくなった。心拍数がみるみる上がり、次第に呼吸も苦しくなってきた。

「齋藤さんのご主人は本当に勿体ないことしたね」
 鈴木さんはまっすぐ私の目を見つめて言った。

 私はなんて答えたらいいのかわからずに黙っていた。ますます呼吸が苦しくなった。そして、自分の気持ちを洗いざらい全て鈴木さんにぶつけてしまいたい衝動にかられた。それは本当に激しい嵐で、目の前に小さな竜巻がおこっているようだった。私には砂嵐が見えていた。

 鈴木さんの瞳の奥に悲しい色が浮かんだ。そして彼は私を見つめたまま言った。

「齋藤さん、僕は……」

 その時ナースコールが鳴った。
 私ははっとして、慌ててナースコールが鳴った居室に向かった。居室に入ると、利用者の上原さんという女性がお茶を飲もうとして床頭台に置いてあったコップ落としてしまったと訴えた。私はコップを拾い、それをよく洗ってから新しい番茶を入れた。こぼれたお茶は少量だったので、床をティシュで軽く拭くだけで済んだ。「すみませんね」と上原さんに言われた。「いいえ、おやすみなさい」と私は声をかけた。

 さっき鈴木さんは私に何を言おうとしたのだろう。まだ胸がどきどきしていた。

 ナースステーションに戻り、上原さんがお茶を落としてしまったことを鈴木さんに報告した。鈴木さんは笑顔でありがとうと言い、また電子カルテの入力をはじめた。そのあと、何事もなかったように二人で仕事をした。

 夜勤が終わり、10時過ぎにマンションに着いた。靴を脱ぐと、そのまま床に座り込んでしまった。鈴木さんの言葉が、何度も何度も繰り返し頭の中に響いていた。とりあえずシャワーを浴びなければ、と思いのろのろと脱衣場まで足を運んだ。

 鈴木さんと出逢ってから、考えない日はない。鈴木さんが奥さんと別れて、私のことを好きになってはくれないかと。でもそんな事になったら、私が罰を受けるくらいでは済まない気がした。

 同僚の話では、鈴木さんと奥さんとの間に子供はいないそうだ。奥さんも看護師で、どこか大きい病院の救命病棟で働いているとのことだった。きっと奥さんにも夜勤があるから、その時に一人で小料理屋に飲みにいくのだろうと思っていた。

 私はシャワーを浴びたあと、冷蔵庫を開けて何か酒がないか探した。白ワインのボトルが半分残っていてので、それをマグカップに入れて電子レンジで温めた。とりあえず何も考えずにワインを飲んで眠ることにした。けれどもとても眠いのに、頭の芯が熱くて、布団に入ってもなかなか寝つけなかった。

 鈴木さんの言葉がいつまでも耳に残っていた。


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