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小説 月に背いて 6

 月が南の空に高く昇った。カーテンの隙間から淡い月光が差し込む和室で、佐田先生と私は狭い布団に体を寄せ合っていた。彼はとても静かな寝息をたてている。枕元にある目覚まし時計に目を向けると、短針は一時を差していた。

 普段の彼からは想像出来ないくらい力強くて情熱的だった。私はまだ体の芯が熱くて、自分の胸ににうごめく熱情の気配に怯えながら、この感情をどのように取り扱えばいいのだろうと考えていた。

 そっと起き上がると先生は目を覚ました。

「椎名?……そうか、ここはお前の家か」
 私は小さく微笑んでうなづいた。
「何時だろう」
「一時です」 
「まだ夜中なのか。なんだかすごく長く寝た気がする。こんなに眠れたのは久しぶりだ」
「眠れないんですか?」
「まあ仕方がないよな」
 周囲を軽く見回したあと、彼はゆっくりと目を閉じた。

「この家、懐かしい感じがするな。和室の畳も、ベッドじゃなくて布団で眠るのも、すごく落ち着く。田舎のじいさんの家にいるみたいで安心する。……もうじいさんは亡くなって、ばあさんは施設に入ってるけど」

 微笑みを浮かべながら「この家はもともと私の祖父が建てた家なんですよ」と言うと、先生は私の肩をぐいと抱き寄せて布団の中に引っ張り込んだ。強い腕の感触になんだかくらくらして、これは夢ではなくて本当に現実なのだろうかと思ってしまった。

「椎名は、高校生の時からそのへんの大人より大人びてたよな。変わらないな」
「そうですか?」
「もう25になるのか」

 それきり彼は黙ってしまった。今のこの現実をまだ事実として受けとめきれていないような、私達の行く末を考えているような、行き場のない沈黙だった。

 私はそっと顔を挙げて彼を見た。

「私はもう25歳で大人なんです。私達はもう先生と生徒じゃないです。だから……」

 だから、……そんなに苦しそうな顔をしないで。窓ガラスがコツンと鳴る音が聞こえた。外の風のせいだろう。

「だから、責任とか感じなくていいんですよ」

 自分が吐き出した言葉がびっくりするくらい胸に虚しく響いた。彼は目を細めて口元だけで微笑んだ。

「朝までここで寝てもいい?」
「勿論」
「あと、申し訳ないんだけどねまきを貸してくれない?知ってると思うけど、俺は前から寒がりだから」
 叱られた子供のような顔をしながら彼は遠慮がちに言った。

 たまたま家に置いてあった叔父の厚手のスウェットは全くサイズが合っていなかったが、それでも彼は安堵の表情を浮かべて「ありがとう」と言った。シングルサイズの狭い敷布団で私達は再び体を寄せあった。

「誰かが隣にいるとあったかいんだな」
 彼はそうつぶやくと、穏やかな表情を浮かべて安心したように眠りについた。まるで子供のようだった。朝までこの寝顔を見つめていられたらいいのにと思う。いつも無愛想で無口なくせに、冷静で論理的なくせに、時々子供のように無邪気な事を言って人なつこい笑顔を見せる。昔と全く変わらない。

 外は風が強くなってきたようだ。家の周囲の木の枝が揺れる音が続き、風が窓を大きく叩きつけた。コツコツと規則的に鳴るその音は、まるで誰かがノックをしているように思えてならなかった。 


 翌朝七時頃に目が覚めた。日曜日だが、彼は午後学校に行かなければいけないとのことで、起きてすぐに帰り支度を始めた。

 台所で紅茶を淹れて、「お茶を飲んでいきませんか」と声をかけた。

 ダイニングテーブルをはさんで向かい合い、二人で紅茶を飲んだ。この世界は私達のほかは誰もいないのではないかと思えるくらい静かだった。

「椎名」
「はい?」
「昨日は変なことを言って悪かった。少し、疲れてたんだと思う」
 私がじっと見つめていると、彼は目を伏せて軽く息を吐いた。

「もう少し、待ってくれないか。今の俺はまだまともに物事を考えられない。お前の事を苦しめたり傷つけたりするかもしれない。だから、もう少しだけ時間をくれ」

「私は、……」夢が覚めて現実の世界が訪れてしまったような気がした。

「私は高校生の時からずっと先生のことが好きだったから、いつまでも待ちますよ」

 それは今の自分の正直な気持ちだった。

 それからしばらく先生から連絡はなかった。そうして12月に入り、木枯らしが吹き荒ぶようになった頃、突然「今から家に行ってもいいか」と電話がかかってきた。何かあったのだろうかと心配になった。

 それを皮切りに先生は私の家に泊まりにくるようになった。会う約束をするわけではなく、いつも突然今から行ってもいいかと連絡がくる。彼はうちにくると疲れ果てた表情を浮かべて死んだように眠った。本当に死んでしまったのではないかと心配になるほど眠った。おそらく、自分の家では眠れないせいなのだろう。あれから奥さんのことを一切話さない彼は、自分の感情すら一言も口にしなかった。まるで私に何かを隠しているかのように。それがとても辛かった。

 好きだとか付き合おうだとか言い出して始まったわけではない、吹けば飛ぶようなこの関係は、例えようのない心細さがあった。それは、彼の孤独に私が寄り添うような形で維持されているからだろう。あるいは、奥さんに対する罪悪感やもともとは教師と生徒だったという関係性、または二人の年齢差、そういうものが見えない鎖となってお互いの心を縛り付けているからかもしれない。それでも先生はいつも優しかった。私に対して誠実でなくてはいけないと思っていることがはっきりと感じとれる。でもそのぎこちない優しさが嬉しい反面、どうしようもなく苦しかった。どうしてこんなに苦しいのか。そして一緒にいるのにどうしてこんなに悲しいのだろう。肌が触れ合うと、彼が背負い込んでいる悲嘆とも憂苦ともつかない深い闇が浸透するように伝わってくる。それはまるで冬の底にいるような、果てのない闇だった。

 私は彼の力になりたいと思う一方で、自分の感情を持て余していた。肌を重ねるうちに、今まで知らなかった自分を感じないわけにはいかなかった。寂しい瞳を覗き込むたびに、冷たい肌の感触を分かち合うたびに、彼の全てを自分だけのものにしたい欲望に押し潰されそうになる。それは文字通り自分の欲望のための欲望だ。奥さんが亡くなったばかりなのにそんな事を伝えられるはずがない。

 お互いの全てを許し合ったらまた迷い始めて、心が彷徨っては途方に暮れる。好きになればなるほど、そうして心が彷徨えば彷徨うほど、どんどん夜の底に落ちていくような感覚がした。







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