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小説 月に背いて 1

あらすじ
妻を亡くしたばかりの高校教師との恋。
ーー「七年ぶりに再会して、毎週会うようになっても、もう教師と生徒じゃなくなっても、私の瞼の裏に浮かび上がるのは彼の背中ばかりだ。…」
彼が抱える闇の世界に体を重ね、その瞳を覗き込んだ時、見えるものとは。


 スマートフォンの着信音が鳴る。私は目を閉じて、彼の声の響きを聞いていた。それはまるで深い深い海の底にいるように、無機質で乾いた声だった。

「これから行ってもいいか?」と彼は言う。いいよと私は答える。

 彼が私の体の輪郭をなぞるたびに、このまま消えてしまいたくなる。私は見えない鎖で繋がれている。私の心はその鎖につながれたまま、どこまでも彼と歩調を共にしなければならない。触れている冷たい肌の感触は間違いなく彼のものなのに、実体は、魂は、ここにはない。どんなに手を伸ばしても私は彼の孤独に触れることは出来ない。ここはきっと夜の底なのだ。

         



 出来ることならば一生思い出したくないと思っていた男にその日会った。

 3月末の晴れた日曜日、高校時代の友人、恭子の結婚式があった。恭子は高校卒業後地元の大学の教育学部に進学し、そのまま高校教師となった。そして母校で現国教師として勤務している。相手は同じ大学の同級生だそうた。

 私は肩まである黒髪を美容院でセットしてもらい、普段より念入りに化粧をして会場へ向かった。黒いドレスの上にベージュのトレンチコートを羽織り、スカートをひるがえしながら街を歩くと、すれ違う人達が時々振り返って私を見た。雲一つない青空を眺めながら、やっぱり私は黒が一番似合うのだなと思った。

「葉月、久しぶり」

 式場のホテルのロビーで友人の美希に会った。美希はピンクベージュのドレスに身を包み、ゆるいパーマのかかった明るい髪をアップにしていた。私は高校三年生の時、恭子と美希といつも三人で一緒にいた。高校を卒業してからも、時々三人で集まって食事をしたり、旅行へ行ったりしていた。

 私と美希はゲストの控室へ向かい、そこのソファに二人で並んで腰掛けた。

「恭子のやつ、25歳で結婚なんて早いよね。でも大学の時から付き合ってるんだからそうなるかあ。葉月は最近どう?彼氏できた?」

「ううん、仕事が忙しくて全然。誰かいい人がいたら紹介して」

 美希は大学卒業後地元の食品会社に就職し、経理を担当していた。同じ職場の二歳年上の男と先月から交際を始めたばかりだった。一方私は地元の大学の看護学部へ進学し、そのまま大学病院で看護師として働いている。

「そういえば今日、佐田先生も来るんだって。ほら、今恭子と一緒に働いてるでしょう」と美希は言った。

「そうなんだ。懐かしい」

 なんとなくそんな気はしていたから驚きはしなかったが、私は少しだけ気持ちが落ち着かなくなった。

 その教師は私達が三年生のときの担任で、化学を教えていた。私はその姿を今でもありありと思い浮かべる事が出来た。背が高く痩せていて、いつも黒いジャージの上に丈の長い白衣を着ていた。無愛想で授業の時以外は余計な事は喋らないけど、時々妙に人なつこい笑顔を見せる先生だった。高校を卒業してから全く接点がないので、顔を合わせるのは7年ぶりになるのだろうか。そうすると彼は今35歳だ。

「先生って、結婚したのかな?」と私は言った。すると美希は目を伏せながら言った。

「恭子から聞いたんだけど、奥さんが病気がちの人みたいで、時々学校を休んだりしてるみたい」

「そうなの?」私は驚いて大きな声を出していた。7年も経つのだから結婚していて当然だとは思っていたが、先生が奥さんに寄り添っている姿を私は全く想像が出来なかった。彼はいつも一人でいる印象があった。

「なんの病気なんだろう」
「たしか癌だって言ってたよ。詳しいことはよくわからないけど」



 挙式が始まるので、私と美希はホテルに併設されている教会の礼拝堂へ移動し、長椅子に腰掛けた。次々と招待客が席についていく。70人くらいはいるだろうか。
 しばらくすると、黒いスーツを着た佐田先生が姿を現した。先生は周囲を見回しながら、前方の空いている長椅子に腰掛けた。7年ぶりに会うのに、彼の外見はほとんど変わっていなかった。相変わらずスーツが全く似合わない。背中を丸めて歩くその姿は昔と同じだった。
「あ、佐田先生だね。全然変わらないじゃん」と美希が言った。

 私達がじっと先生を見つめていると、彼は振り向いてこちらを見た。そして驚いたような表情を浮かべたあと、懐かしそうな目をして小さく手を振った。私達は軽く頭を下げた。

 挙式が始まった。私は恭子の姿をぼんやりと見つめていた。ウエディングドレスに身を包んだ美しい彼女を見ていると、嬉しいような、寂しいような、不思議な感覚があった。なんだか別人のように思える。月日の流れを走馬灯のように思い出しながら、いつか自分もこんな風にウエディングドレスを着る日がくるのだろうかと考えた。

「恭子、きれいだなあ」
 美希はうっとりした目でつぶやいた。
「そうだね」と私は小声で言った。

 挙式のあと、ホテルの会場で披露宴が行われた。私達の隣の円卓には、校長先生らしい白髪の中年男性と佐田先生が座っていた。彼らは静かに談話していた。

 乾杯が終わり、私と美希はシャンパンを持ちながら佐田先生の席に向かい声をかけた。

「先生、私達の事覚えてますかー?」と美希は言った。
「松永美希と椎名葉月だろう?覚えてるよ。お前ら三人仲良かったもんな」

 佐田先生は昔と変わらない人なつこい笑顔を浮かべた。話す時に襟足に手を伸ばす癖もあの頃のままだ。ただ顔色がひどく悪く、それだけが月日の流れを感じさせた。

「先生のことだから覚えてないと思った」
 悪びれる様子もなく美希は言った。
「どういう意味だよ」
「だって先生、生徒にあんまり関心なさそうだったから」
「そんな事ないよ」
 彼の目に少しだけ困惑の色が浮かんだが、すぐにいつもの無表情に戻った。美希は声を出して笑っていた。

「先生はずっとあの学校に勤めてるんですか?」と私は訊ねた。
「そうだな。相変わらずだな」彼は私に視線を向けてすぐに逸らした。
「先生とまた会えるなんて思わなかったです。ね、葉月」
 美希は私に目を向けながら言った。私は軽く微笑みながら頷いた。私もこの人に会う事になるなんて夢にも思わなかった。思い出したくもないと思っていたのに。

「お前ら、今地元にいるのか?何やってるんだ?」
「私は経理をやってまーす」と美希は左手を挙げながら言った。
「椎名は?たしか看護学部いったんだよな」
「私はN大学病院で働いてます」
 そう言うと、先生は一瞬何かを言いたそうな目で私を見た。でもそのあとは何も言わなかった。

 披露宴が終わり、招待客はそれぞれ帰り支度を始めていた。私と美希はクロークに預けていた荷物を受け取り、ロビーで立ち話をしていた。
「先生、一緒に二次会に行きましょうよ」と美希は佐田先生に声をかけた。
「ごめん、これから用があるんだ。あんまり羽目を外して飲みすぎるなよ」
 彼は目を細めて私達を見た。その言い方は、私達が酒を飲むような年齢になったことを実感するような響きと、それに戸惑うような響きが入り混じっていた。

「えー、残念。じゃあせっかく会えたんだし、私達とライン交換しましょうよ」

 もうすでに美希は酔っ払っているようだった。私達はスマートフォンを取り出し、その場でライン交換をした。先生は「じゃあな、気をつけて帰れよ」と言って出口の方へ歩き出した。私はその背中をじっと見つめた。

「先生」
 彼は振り返って私を見た。
「気をつけて帰ってくださいね」
 先生は寂しそうな微笑を浮かべて「ありがとう」と言った。



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