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小説 弦月8


 鈴木さんとは表面上はいつも通りに接して、その冬は何事もなく終わった。年が明けて日がどんどん短くなり、やがて春が訪れようとしていた。

 私は腰痛対策として、週に一度マンションの近くにあるヨガ教室に通うようになった。同僚の間でも腰痛を抱えている人が多く、その教室を教えてもらって始めたら、すっかりはまってしまった。ヨガの先生は私よりもひとまわり年上の女性だったが、肌も髪も美しく、とても若々しく見えた。いつも前向きな言葉を発し、瞳はいつも希望の光で輝いていた。私はそんな先生の雰囲気に癒されていた。
 ヨガのポーズを取りながら、目を閉じて息を吸って吐き出す。私は今の施設で働きだしてから朝も昼も夜も鈴木さんのことしか考えられなくなっていた。何も手につかないというわけではないけれど、常に心の片隅に彼が存在する気配があった。ヨガをやっている際中は特にそうだった。全然瞑想なんてものはできなかった。もはや心を根こそぎ持っていかれているとしか思えなかった。あれから特に何があったわけでもないし、何か特別な言葉をかけられたわけでもないのに。

 暖かい春の日差しが届くようになり、3月になった。3月の半ばに、また鈴木さんと夜勤をすることがあった。魔の時間帯にナースコールがたくさん鳴って、忙しくなればいいなと思った。が、あいにくその日はとても静かな夜勤だった。

 夜中の3時35分、ナースステーションの中で、鈴木さんと私はそれぞれパソコンに向かって作業をしていた。

「齋藤さんて、水が苦手って本当?」

 鈴木さんはキーボードをうつ手を止めて、落ち着いた口調で私に話しかけた。私が利用者の入浴介助を苦手としていることを誰かから聞いたのだろう。

「そうなんです、物心ついたときから。なぜだかさっぱりわからないんですけどね。おかげで湯船にはつかれないからシャワーしか浴びられないんです。海も行けないし温泉も行けない。小学校の時もプールなんて一度も入れませんでした」と私は言った。

「実をいうと、僕も少しそういうところがある。小さい時から、溺れる夢を見ることがあるんだ。子供の頃はそれでもなんとか泳げていたんだけど、もう無理だと思う。だから、海で泳いだこともない。つい、足が底につかなかったらどうしようって考えてしまう。ジムに言っても、プールには近寄らない」

 彼はうつむきながら言った。言葉のひとつひとつを選んでいるように思えた。

「溺れたことがあるんですか?」
「いや、多分ないと思う」

 私はなんだか不思議な気持ちがした。こんな奇妙な偶然があるものなのだろうか。

 二人の間に沈黙が流れた。ナースコールが鳴ればいいのにな、と思った。

「鈴木さんは、どうして看護師になったんですか?」と私はその時思ったことを素直にきいてみた。

「いや、よくわからないんだよ。何かこうなりたいって理想が、自分のなかで明確にあったわけじゃないんだ。漠然と、何か人の役に立つ仕事がしたいと思ってたんだろうね。もっと勉強をして、教師にでもなれればよかったんだけどね。あるいは、放射線技師とか、理学療法士とか、ほかにも道はあったはずなのに、何故看護師になったんだろうって今でも思う。昔は男の看護師なんて、手術室か精神科病院か、透析か、救急外来とかしか働ける場所が無かったんだ。だから、総合病院で救急外来と手術室にずっといたんだけど……」
鈴木さんは軽くため息をつきながらうつむいた。

「今でも、つくづく嫌な仕事だなって思うことがあるよ。人の死や病気を、なんとも思わなくなる。そうならないと、こんな仕事は出来ないからね。こういう仕事をしてると、いろんな家庭の事情を垣間見たり、いろんな死にざまを見たりするでしょう?」

 私は軽く頷いた。

「変な話だけど、僕は……、運命って言うと大げさだけど、人それぞれ生まれ持った何かがあるような気がするんだ。例えば若くして事故で亡くなったり、病気になったりする人を見ていると。でも、それぞれ何かを背負っていても、その中で精一杯の努力をすれば、与えられた人生の選択肢の中では一番いい道に導かれるんじゃないかって。そんな気がするんだ」

 鈴木さんは顔をあげて真剣な目で私を見た。そして軽く微笑んで言った。

「だから、僕は……」

 そのあと彼は何も言わなかった。またうつむいて、膝の上にある彼自身の手をずっと見つめていた。私の好きな、細くて長い指を。
 沈黙が流れていた。

 だから、僕は、……君の気持ちに応えることは出来ない。そう言いたかったのだろうと私は思った。

 鈴木さんが私の気持ちに気づいていることは知っていた。そして彼が、私に好意を寄せてくれている事を私は知っていた。出逢って間もない時からお互いにわかっていた。私達は臆病で、勇気がなくて、人を傷つけることがどうしようもなく怖いのだ。その性質を二人して呪ってはどうすることも出来ずに、ただひたすら途方に暮れているだけなのだ。

「鈴木さん、前に一緒に夜勤を組んだとき、私に何かを言いかけませんでしたか?」

 魔の時間帯だったせいか、私は絶対にきくまいと思っていたことを口にしてしまった。鈴木さんは顔をあげて驚いたような目で私を見た。

「ああ、そんなことがあったね。なんだろう、多分……、知り合った時から、僕は齋藤さんに変なことばかり話してるから、その事を謝ろうと思ったのかも知れない」
鈴木さんは軽く微笑みながら言った。

「僕の悪い癖なんだろうけど、僕は自分に興味を持ってくれる人にしか自分の本音を絶対に話さない。齋藤さんには、何を話してもわかってもらえる気がしたんだ。ずいぶん年下の女性なのにね。ごめん」

 鈴木さんの声の響きに、偽りのない気持ちがこもっていることが感じ取れた。

 私達は似た者同士だから、お互いがその立場だったらどうするかまでだいたい予想が出来た。鈴木さんは、ことあと何もなかったように仕事を始めるはずだ。だから私も、何もなかったようにふるまえばいいだけだ。

「私も鈴木さんならわかってくれる気がして、くだらないことをたくさん話したので、こちらこそすみませんでした。お互い様ということで、気にしないでくださいね」と私は明るい笑顔を作りながら言った。鈴木さんも微笑みながら頷いた。

 4時になった。鈴木さんが「時間になったから巡視に行こうか」と明るい声で言った。私は「そうですね」と答えた。



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