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小説 弦月9

 直子とは時々仕事帰りに居酒屋やバーで酒を飲んだ。直子には恋人がいて、結婚の準備を進めているところだった。直子が結婚してしまったら、仕事帰りに気軽に食事をしたり出来なくなるんだろうなと思うと少しだけ寂しかった。

 4月のはじめの週末、仕事が終わったあと直子の恋人とその友達と飲み会をした。直子の恋人は背が高く、日焼けをしているがっちりした男性だった。言葉の雰囲気に、男性的な力強さが漲っていた。サーフィンが趣味だと言っていた。こういう人と一緒になれば、自分の人生はその人に引っ張られてひとりでに決まっていくのだろうな、とぼんやりと思った。それがいい事なのか悪いことなのか私にはわからない。でも直子は言いたいことをハッキリ言うタイプなので、きっとお似合いなのだろうと想像した。

 直子の恋人の友人は、私と同い年の男性で、証券会社に務めるサラリーマンだった。そこそこハンサムで、話上手な人だった。酒を飲みながらみんなで色んな話をした。

 私はその男性の話をききながら、鈴木さんの事ばかり考えていた。ここにいるのが鈴木さんだったらいいのになと思った。そして、前のように小料理屋でゆっくり鈴木さんと話が出来ればどんなに素敵だろうと想像した。別に二人で一緒に飲むくらい、職場の上司と部下だと考えれば全然問題はないはずだ。でも私には白か黒のいずれかしか選択肢がないように思えた。気持ちが強いぶん、グレーを維持するとかとてもそんな器用な真似は出来ないと思った。別れ際、そのサラリーマンとライン交換をした。

「また機会があれば一緒に食事でもしましょう」と彼は言った。

「そうですね、ぜひ」と私は笑顔で思ってもいない言葉を口にした。

 改札口を出て、マンションまでゆっくりと歩いた。酔って頬が熱かったので、夜の冷たい風が心地良かった。公園の前を通ると、桜が満開に咲いており、その上に満月が輝いていた。月明かりのなか、桜の枝が風に揺れて、花びらがひらひらと舞うのが見えた。美しい眺めだった。

 そうか、離婚してもう一年経ったんだ。たった今、楽しく会話をしてきたばかりなのに、私は孤独だった。浩が今どうしているかなんて心底どうでも良かった。もう二度と会いたくないし、向こうも私になんて会いたくないだろう。それでいいと思った。私は私の孤独と一生仲良く付き合っていかなければならないのだ。

 こんなとき、鈴木さんがそばにいてくれたらどんなにいいだろうと思った。鈴木さんが話をきいてくれたら、どんなに心が満たされるだろう。でもそんな事を思ったところで何になるのだ。そんな事を願ったって、彼は決して私のものにはならないのだ。

 腕時計を見ると22時半だった。なんとなく小料理屋に立ち寄ってみることにした。

 ドアをあけると同時に、マスターとママが私の方を見て、「あらー、理佳ちゃん久しぶりじゃない」と声を掛けてくれた。カウンターの奥には、鈴木さんが座っていた。さっきあんなに望んでいたことがすぐに叶ってしまったので、私はかえって息苦しくなってしまった。

 私はマスターとママに勧められるまま、鈴木さんの隣の席に座った。私は梅酒のロックを注文した。私がここにこないあいだ、鈴木さんは私の事を一切マスターとママに話していないようだった。なので私は二人に、離婚したところから現在に至るまでを全て話さなければならなかった。

 話し終わると、マスターとママはなんとなく元気がなくなってしまった。私は酔いがまわっていたので、そのことについて特に何も感じなかった。鈴木さんは私の隣でハイボールを飲みながら、黙って話をきいていた。

「齋藤さんはうちの職場ですごくよく働いてくれてるんだよ。みんな齋藤さんを褒めてるよ」と彼は言った。そんなことを言われると余計息苦しくなってしまう。

「鈴木さんの奥さんはどんな人なんですか?」
 私は酔った勢いで今まで決してきけなかったことをきいてしまった。

 鈴木さんは軽く笑って、「知ってると思うけど、僕と同業者だから、すごく気が強いんだよ。救命病棟で働いてるから、忙しいらしいね。僕がこんな感じで、向こうは言いたいことをハッキリ言ってくるから、一緒にいて楽といえば楽だよね」と答えた。

「同じ職場で知り合ったんですか?」

「そう。一番始めに務めた病院で同期だったんだ」

 私はそれ以上何もきけなくなってしまった。私と鈴木さんは13歳年が離れているので、私が子供の頃に二人はもう出会っていたということになる。どう考えても勝ち目がないように思えた。

 私は、テーブルの上にある鈴木さんの長い指を眺めた。

 もし今が魔の時間帯だったら、何か変わるのだろうか。もしかして鈴木さんでも魔が差すということがあるのだろうか。

 鈴木さんの手にあるグラスの氷がカランと音を立てた。それが合図のように、彼は無表情で話し始めた。

「うちの妻のお父さんはわりと早く亡くなって、妻はほとんど母子家庭で育ったんだけど、そのお母さんも看護師なんだ。すごくおしゃべりで、元気な人なんだよ。でも最近、お母さんに癌が見つかって……。なんていうのかな……だいぶ進行していて、手術で取り切れるものでもなさそうなんだ。だからたぶん、これからも色々な治療が続くと思う」

 鈴木さんはハイボールをひとくち飲んだ。彼の喉仏が動くのを、私はじっと見ていた。

「妻の実家は四国なんだけど、たぶん、そのうち妻の家の近くに引っ越すことになると思う。妻は一人っ子だし、お母さんが抗癌剤でもするようになれば、色々心配だろうしね。僕と妻の仕事は、選びさえしなければわりとすぐに見つかるから」

「じゃあ、鈴木さんは今の職場を辞めるんですか?」

「そうなるだろうね。まだわからないけど。お母さんは、お父さんが亡くなってからずっと働きづめで、ようやく自分の人生を楽しめるって時になって病気が見つかったでしょう。だから妻も、そばにいてできる限りの事をしてあげたいんだと思う」

 私の頭はすっかり混乱してしまった。鈴木さんがわざわざ口に出して言うことは、限りなく正解に近いことなのだ。引っ越すということは、おそらく鈴木さんの中では決定事項なのだろう。

 私は言葉が出なくなってしまった。耳が聞こえにくい。まるで水の底にいるみたいだ。

 鈴木さんは私の異変に気づき、「齋藤さん、顔色が悪いけど大丈夫?」と言った。

 大丈夫だと言おうとした。でも唇がわずかに動くだけでどうしても言葉が出てこなかった。かすかに手が震えているのが自分でもわかった。

「齋藤さん!」
鈴木さんの手が私の左肩に触れた。そして彼は真っ直ぐ私の目をのぞき込んだ。

 私はそのまま彼の胸に倒れこんだ。どうしてもそうしないわけにはいかなかった。

 彼はとっさに右腕を私の背中にまわし、私を支えながら左手で私の手首に触れていた。脈を確認しているのだろう。私は、涙が自分の膝の辺りにポタポタと落ちるのをただ眺めていた。私はそれを見て自分が泣いていることに気がついた。

 鈴木さんは、私が椅子から落ちないように力強く支えながら、両手をゆっくり私の背中にまわした。
 その手の感触は、儚く壊れやすいものを慎重に扱うように、とても優しかった。

 どんな時でも、この人は冷静で真面目なのだと思った。

 どうしてこんな男性に会ってしまったのだろう。多分、こういう人でなければこんなに魅かれることはなかったのだ。そして心を根こそぎ持っていかれる事にはならなかったのだ。そう考えると胸が痛くて肺が潰れそうだった。でもその一方で、もう間もなくこの苦しい日々から開放されるのだと思うとほっとする気持ちもあった。

 どれだけの時間、鈴木さんの胸に顔をうずめていたのかわからない。気がつくと、鈴木さんは何も言わずに私の頭を撫でていた。私は彼の心臓の拍動を胸から直接きいていた。

 私はそっと彼から離れて、「もう大丈夫です。すみません」と言った。

 鈴木さんは何も言わなかった。ただ悲しそうな目で私を見ていた。周りを見ると、マスターもママも、テーブル席にいた数人の客も、その場にいた全員が心配そうな顔つきで私を見ていた。その事に気がつくと、私は消えてしまいたい気持ちになった。何も言わずに荷物を持って立ち上がり、慌てて店を出た。

 帰り道の記憶はない。でも気がつくと私はマンションのリビングのソファに座っていた。相変わらず息が苦しかった。ふとその時、代金を支払っていないことに気がついた。まあいい、鈴木さんが払ってくれているだろう。私は職場で彼に会ったときに、何もなかったような顔をして謝罪し、代金を返せばいいだけだ。

 色んな気持ちが入り混じっていたわりには私は冷静だった。

 はじめからずっと、いつか自分からこの気持ちを終わりにしなければいけないと思っていた。でも、向こうが私の目の前から姿を消すことになるとは夢にも思わなかった。私の望みが思いがけない形で叶っただけだ。そう思うとたまらなく悲しい気持ちになった。

 


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