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小説 弦月6


 その方の年齢は30代半ばといったところでしょうか。眼鏡をかけた長身痩躯の寡黙な男性でした。

 そして肺病を患っているようで、借家で一人住まいをなさっておりました。私はその方の家で、女中のようなことをして暮らすことになりました。その方は肺病を患う以前は教師をなさっていたようで、非常に聡明で博識な方でした。同時に優しい心根の持ち主でした。私に読み書きを教えて下さったのです。

 いつしか私はその方を先生と呼び、お慕いするようになりました。私は、先生が余命幾許もないことを知りながら、また、離れて暮らしているとはいえ奥様がいらっしゃることを知りながら、先生のことを愛するようになりました。その気持ちは、私の胸の中をもうどうする事もできないくらい巣食っておりました。世間知らずの田舎娘だと言われようとも、私は先生以上に敬愛する男性にはもう決して巡り会えないと思いました。

 先生との静かな生活は私の心に安らぎを与えてくれました。先生の言葉のひとつひとつは、日記に書き残しておきたいくらい私に感動を与えてくれました。

 そんな穏やかな生活の一方で、先生のお体は日に日に悪くなっていきました。頬はこけ、あばら骨はさらに浮き出ていきました。そして少し動くと息切れをするようになり、真っ赤な血も吐くようになりました。横になると苦しいようで、夜もほとんど睡れない様子でした。それでも先生は私にひと言も辛いとはおっしゃらないのです。私はそのお姿をみると、悲しくて悲しくて、涙がこぼれてきました。

 私がこの家に来た頃は、先生は時々ひとりでどこかへ出掛ける事がありましたが、お体が悪くなるにつれて、ほとんど家で過ごすようになりました。先生はご自分のことはあまり話されない方でしたから、私は先生のご家族のことやご実家のことなど何ひとつ知りませんでした。

 ただ一度だけ、奥様がこの家にいらっしゃった事がありました。奥様は、この女中はずいぶんとみすぼらしい田舎娘だなという目で私を見て、それきり一度も私の方を見ることはありませんでした。先生と奥様は、お金の話をしているようでした。先生も孤独だったのでしょうか。先生の横顔には、いつも寂しさが漂っていました。

 蒸し暑かった夏が終わりに近づき、乾いた秋の風が吹き始めた頃、先生はおっしゃいました。自分はもう長くはないから、これから言う人のところへ行きなさい、その人に君の世話をしてもらうよう頼んでおいたから、と。

 私はその頃、ひどく体が疲れるようになり、寝汗も酷く、軽い熱も出るようになっていました。薄々、私も先生と同じ病かもしれないと思っていたところでした。

 私はそのことを先生にお伝えし、三日三晩泣き続け、後追い自殺は嫌なのでどうか一緒に連れて行って下さいとお願いしました。連れて行ってくださらないのなら、私を今ここで殺して下さいと申し上げました。そんなやりとりを一週間にもわたり繰り返して、私は先生を身体的にも精神的にも苦しめました。

 ああ、神様、浅ましく罪深いのはこの私なのです。

 先生は大きく息を吐いたあと、とても苦しそうな表情を浮かべて5秒ほど目を閉じました。そして目を開けて、私の目をまっすぐに見つめてこうおっしゃいました。
 一緒に死のう、と。

 その時の先生の瞳の奥には、今まで見たこともないような美しい色が宿っておりました。その瞳から、大粒の涙がこぼれました。今までこんなに激しく人が泣くところを見たことがありませんでした。私には君しかいない、と先生はおっしゃいました。私も先生しかおりませんと言い二人で朝まで泣きました。

 神様、生まれ変わったら、私は先生に生涯の忠誠を誓います。ですからどうか、どうか来世では、先生にこんなに苦しいご病気を与えないでくださいませ。


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