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小説 弦月(げんげつ)1


あらすじ

齋藤理佳(さいとうりか)は離婚を機に介護老人保険施設へ就職するが、密かに思いを寄せていた人物とそこで再会してしまう。
その男は既婚者だった。
時間軸を超えて現在と過去の熱情が交錯する物語。抑え切れない感情を飲み込んだその先に、運命の糸が紐解かれる。



〈本文〉
 私が入水心中を図りこの世を去ったのは、18歳になったばかりのある秋の夜のことでございました。その晩は東の空に下弦の月が大きく輝き、あの方のお顔を大変美しく眺めることが出来ました。

 ごう、ごう、とまるで地響きのような海鳴りが絶え間なく聞こえておりました。私は海の無い土地で育ちましたので、生まれてから一度も海を見たことがありません。ですからそれがどんなものなのか最期にどうしても見たかったのでございます。しかし、私達がその海岸に辿り着いたときにはとうに日が暮れておりましたので、どこまでも続く水平線というものを見ることは叶いませんでした。

 月明かりの中、あの方が私の腰と自分の腰に縄をくくりつけました。決して離れることの無いように固く……。そのお姿を見つめる私はどのような表情をしていたのでしょうか。
 最早思い出すことも出来ません。

  自分が浅ましい女であることは重々承知しております。ですがその時私は本当に幸せでした。美しく輝く月とあの方の姿を交互に眺めながら、たとえ魂だけになろうとも決して戻れることのない私の故郷の風景を思い出しておりました。

 私が生まれたのは、辺り一面に桑畑が広がる田舎の小さな集落でございました。夏は夕方になると、どこからともなく雷雲が立ちこめ空一面を覆い尽くし、激しい夕立を降らせたものでした。雷が怖くて怖くて仕方がなかった私は、「遠くのくわばら遠くのくわばら」と念仏のように唱えておりました。夕立が来るときの乾いた土の匂い、雷雲が去り雨が止んだときの湿った土の匂い、懐かしい故郷の夏の匂い……今はもう思い出すことすら出来ません。

 私が13歳になった秋、肺を病んでいた父親が亡くなり、貧しい暮らしのなか家を出ました。妹と弟を養うため、紡績工場へ奉公に出ることになりました。私が男の人に連れられて家を出るとき、母は人目も憚らず大粒の涙をこぼし、私をきつく抱き締め、「辛抱ばっかりでごめんね、何年かしたら必ず迎えに行くから」と言ってくださいました。さらに麦飯のおにぎりも持たせてくださいました。おうどんやすいとんしか食べたことのなかった私は、泣きながらほおばったこのしょっぱいおにぎりの味は一生忘れないと思いました。

 辛抱して辛抱して努力すれば、運命は変えられるのでございましょうか。それとも、私達は運命に弄ばれる存在として全てを諦めるよりほかないのでしょうか。

 私は、あの方に連れて行っていただきます。それがどれだけ親不孝なことかも、重々承知しております。しかし私には、どうしてもこれが自分の運命だったとしか思えないのです。

 私はあの世に辿り着けたら、あの方のご両親様、ご先祖様方にご挨拶をしたいと思っております。

 もしそれも叶わなかったら……。それすらも許されなかったなら……。

 生まれ変わったときに、ほんのひと目でいいですから、あの方にお会い出来れば幸せでございます。


 


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