今泉馨翔 (イマイズミ カショウ)
これまで蒐めて来た、古造形の展示や挿花を紹介したいと思います。当時はまさかこんな形で紹介する事になろうとは思ってもいなかったので、ひどい写真ばかりで恐縮なのですが、これも私から出て来た表現の一つと言う事かも知れません。
『 普通ということ 』の価値などと言っても、およそ世間の流れに逆行するようで、最近の人に賛同されない事は重々承知の上なのですが、長い事色々な物を見て、色々な経験をして、色々と考え続けて行くと、どうもこの事がとても大事な事の様に思われて来るのです。
岩絵具を使った制作をしていたのですが、段々とその使い方が画面上の表面的な上滑りの風合い や 変化 に傾いて行っている様な気がして来て、徐々に違和感やもどかしさを感じるようになって、またそこから試行錯誤が始まりました。『 本当の自分のもの 』に辿り着くのも中々大変なものですね!
私は、ずっと以前から美術、芸術がこの世から無くなっても生きて行けるが、もし自然が無くなったら恐らく生きていけないだろうーとさえ思っていました。それ程 強い想いのある「 自然 」の中に見ている「 もの 」。それを少しでも伝え得たらと思います。
私が若い頃から悩んできたスランプや制作の中で、「 禅 」に触れ、学び、認識出来た事など、紹介出来たら ー と思います。もちろん「 禅 」の深い意味など私に分かるはずもありません。ですからここは鈴木大拙氏の思想を参考にさせていただき、少しでも『 東洋的世界観 』に興味を持って頂けたらーと思います。
私は小さい頃から自然の中で遊ぶのが好きで、夕方 暗くなるまで どろんこになって遊んでいたものです。高校に入って絵を描くようになっても、モチーフは自然と決まっていて、他のものにはあまり興味がありませんでした。 大学に入り、民藝、古造形の世界を知り親しむ様になり、骨董屋に行って気に入った物を購入して行くうちに、それらの物に野の花などを活けて楽しむようになるのは、ごく自然な流れでした。そのような中で若い華道家の方と知り合いになり、少なからず影響を受けたものです。 しかしながら、もち
展示などと言うと、ちょっと大袈裟な言葉になってしまうのですが、要するに自分の好きな物、蒐めたものを部屋に飾る、陳列する事ですが、それに見合った丁度いい言葉が見当たらないので、とりあえず「展示」という言葉を使わせていただきたいと思います。と言うのも、部屋に展示していて毎日観るという行為も、自分の中では結構大事な行為で、単なる飾り付けではなく、自分の好きなもの、自分の良いと思うもの、自分のもの、その当体とは何か?を見極める、確認する大事な作業になっているからです。要するに、『自分
『 生活の中で 』 自分でも良く分からないのですが、私は中学、高校の時からテレビの天気予報の時に流れているようなBGMの音楽が大好きでした。どういう訳か自分の中の大事な琴線に触れるような感じがあって、ふと幸福な気分に身を置けるような気がするのです。そして、今の若い人は知らないでしょうが、その頃はテレビも夜の12時になると各局とも放送終了となり、それぞれの終了時の映像と音楽が流れるのですが、それはおそらく開局当時のものなのでしょう、何とも素朴でノスタルジー溢れる魅力的なも
私は、自分のことを 芸術家 とか 美術家 とか、ましてや アーティスト などと思ったことはありません。そんな大したものではありません。ただの絵描きです。然し、できれば少しでもいい絵を描きたいと思っています。そしてそのためには自分の底にある要求、坂本繁二郎氏の言うところの、自分の内なる切実な『自質の声』を聞き届けなければならないと思っています。 私は昔から、たとえ世界中の人から非難罵倒されようとも、「いや!それでも自分はこれだ!」と言うものを出してこなければ、自分も自分の創るも
「 書から思うこと 」 こちらは、上から友人、家内、甥っ子のもので、みんな身内のもので恐縮ですが、美しいものだと思います。私はこの様なものを愛するのです。何も狙っていない、素直なところに好感がもてます。 このようなものを見ると、現代の書などは、何をそんなにあがいているのだろうと思うのです。何も狙わないところから自然に持っているものが出てくると考えれば全てはそれで済むはずですが. . . . 美術という世界が生まれて以降、ものを創ろうとする人は実用工藝を離れ、「美の為の
『 はじめに 』 「 普通ということ 」の価値などと言い出しても、およそ世間の流れに逆行するようで、今の人に賛同されない事は重々承知の上なのですが、長い事いろいろのものを観て、いろいろな経験をし、いろいろと考え続けて行く中で、どうもこの事がとても大事なもののように思われ、どうしてもこの事を書いておきたいという想いに駆られ、自分の書けることだけでも書いてみようと思います。 私は小さい頃から、どういう訳か 普通のものと言いますか、表だったものではなく、縁の下の力持ち的な渋
誰でも多かれ少なかれ様々な岐路に立たされ、右に行くか左に行くか、どちらの道へ進むかの選択を迫られた経験があることと思います。 その様な時、一体自分の中の何がそれを決定しているのでしょうか? それを『 自分の中の羅針盤 』と呼んでみたいと思います。 私は制作して行く中で、一時期 現代の美術の流れというものを少しでも知っておいた方がいいのではないかとも思い、現代美術の展覧会に行ったり本屋に行った時には現代美術を紹介している美術雑誌を見るようにしていたものですが、しかし現代美術を
『 削りの後 」 私はこれまでずっと自然を写真で描いていました。モチーフが山の中の渓流だったり、画材が岩絵具だったりしたので、当然現地での制作は断念するしかありませんでした。しかし自分が実際に見て感動したものは自分の中にしっかりと残っているもので、別段 不都合を感じた事はありません。表現したいものはその外形では無いのですからー。 私の仕事の中で、削った後は また別の仕事の始まりのように思っています。 その後は思い切り煮詰まる時間が始まります。この後どう進めて行くか?
画材の使い方など試行錯誤する中で、結局3種類のものを使う様になり、それぞれ中々に難しく、ある程度使えるようになるまで結構な時間を費やす事になってしまいました。もちろんこれは自分の要求から来たもので必然の事だったのですが、個展の時などにもよく若い方からどんな画材を使っているのですか?と聞かれたもので、もしこのような画材を使おうとする人がいたら何かしらの参考になるかとも思い、少し紹介したいと思います。 『 岩絵具 』 こちらは最初に始めた岩絵具です。日本画の方のアトリエに
『 試行錯誤 』 .2 『 試行錯誤 』 .1 で試みた 粒子の細かい 岩絵具 白(びゃく)の手法は、色合いは岩絵具のままの美しい色で、表現方法も大分自由になり結果も悪くなく順調に進んでいたのですが、一度 自由を求め出してしまった欲求は止まらなくなってしまうものらしく、さらにもっとモチーフに 入り込みたい、のめり込みたい 気持ちを抑え難く、さらに自由に表現できる様な方法はないかと求める様になります。 そこで思いついたのは、アクリル絵の具+ライトモデリングペーストで
『 試行錯誤 』 .1 『 制作 』.1 で紹介したように、岩絵具の制作に何となく違和感 や もどかしさ を感じるようになってから試行錯誤が始まりました。 何と言っても 薄い絵の具を 塗って塗って塗り重ねるその工程や、ボリューム感の出ないそのテクスチャーに段々ともどかしさを感じ始めるようになったのが一番の原因でしょう。平面的なモチーフならまだいいのですが、形の強いものなどはグッと突っ込めるものが欲しいのです。間接的なものでは無く、直接的な手段が欲しくなって来た様です。
『 はじめに 』 以前、マガジンの『 自然の中で 』.5 の中の「 禅との出会いと制作 」の中で私の画材の使い方を紹介したのですが、長いスランプの中で、岩絵具を使い始めてから『 自分の絵 』というものを再出発する事が出来たように思います。画材を変えるというのも中々大変な事で、使いこなせるようになるにはかなりの時間と労力を必要としました。と言うのも、岩絵具は隠蔽力が無いので何度も塗り重ねばならず、しかも私の場合一色一色小瓶から取り出して色を作らねばならず、さらに水性なの
『 石たち 』 誰でも子供の頃、好きな石や貝などを宝物のように大事に持っていたのではないでしょうか?私なども近所の工場に積んであった砂利の山の中から金色の入った鉄鉱石などを近所の子供達と何時間も探していたものです。その様な中で自然の美しさと言うものが誰しもの体の中に入り込んできたのではないかという気がしているのです。 以前、少しの間実家に帰っていた時があって、自分の事など何も出来ず、唯一の楽しみは山や川に出かけモチーフの写真を撮ったり、自然の中でボ〜ッとする時間でした。そ
『 ふだん使いのものたち 』 いつも使っている食器などを紹介したいと思います。学生の時から民藝、骨董に親しんで来た私と家内は、それ以来ずっと自分達の気に入った物たちを蒐め続けて来ました。特に良い物だからと言う訳ではなく、良いかどうか分からないけれども、何か気に入った物であったり、使っていたいと思う物であったり、自分達にとって懐かしいものであったり、もう玉石混淆ですが、兎にも角にも四十年以上かかって出来上がった自分達の世界のもののような気がします。 食
『 その他のもの 』 これ等のものは、ジャンクと言うか、何と言うか 人から見たらガラクタみたいなものかも知れません。しかし、どう言う訳かこの様な物が好きで、人から怪訝な顔をされる所以でしょう。 ガラスの器。ちょっと信じられない程、薄くて軽いのです。こんな薄いものをよく作れるものです。まるで風船の様。形と言い全体の雰囲気と言い、作ろうとして作られたものでは無い自然発生的な所がたまりません。一体何に使われたのでしょうか? これは小さな招き猫。まあ可愛いですね。猫が好きな
『 絵画 』 こちらは韓国、朝鮮 李朝時代の民画です。これも民藝運動で評価され、次第に評価が高まった分野で、他のものと同様、今ではとんでもない値段になっている様です。私もまさか所有出来るとは思ってもいなかったのですが、こちらのものは色が消えかかってしまっていて、破格の値段で出ていたもの。本当は赤い牡丹の花が4輪あり、葉も繁り、つがいの鳥がとまっているのです。他の人にはちょっと分かってもらえないかも知れませんが、それでも私には何とも美しく見えるのです。正倉院の鳥毛立女屏風