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花子の物語(祖母の記憶)昭和の代7

終戦後、花子が「寺かあちゃん」として、住んでいた部落は、街道筋にありました。
近くには金属工場や製糸工場などもあり、妹シマが住んでいる部落からも、
そう離れてはいませんでした。

末子の産後から具合の悪いシマ、コウ(花子の養子、シマの長男)が学徒動員から戻っても、病状は悪くなるばかりでした。
シマの夫も、初老となり、広い田畑の耕作には、助けも必要でした。
母スカやシマの家族と花子一家は、助け合いながら生活しておりました。

小学校に併設されたばかりの新制中学。
ほとんど授業を受ける間もなく、卒業証書をもらうったコウ。
その少し前、シマと末子は共にこの世を去りました。
2つの家族の中で、微妙な立場にいたコウは、家を出て製糸工場に住み込みで働くことになりました。

残されたシマの子供達やセツは、シマの家の農作業を手伝いながら、一緒に学校へ通っていました。
この頃セツが一番嫌だったのは、妹のトミも連れて学校へいくこと。

他のクラスメートは、だれも弟妹を連れてきてはいませんでした。
けれど、大人たちは農作業や商いに忙しいため、セツに妹の世話を依頼。

昔、子守り子として生き、学校へ行けなかった花子には、セツの立場は、
さほど気にはなりませんでした。
しかし、セツにすれば、トミの存在は授業の妨げになり、先生や級友たちに迷惑がかかり、家庭事情が公開されている恥ずかしさに、悶えていました。

それでも、学友たちや先生は、やさしく対応してくれたようで、トミは大人になっても、自身の同級生より、セツの同級生との交流の方が続きました。

セツが中学に上がると、トミも小学校へ上がり、花子たちの生活も一段落したころ、留吉が腸閉塞で亡くなりました。

留吉は戦争中は、反戦者ではなく、精神病者として田畑や私財を手放して過ごし、終戦後も働かずに生活しておりました。
花子やセツが時折見舞いにいくと、いつもセツには小遣いをくれたり、悩みを聞いてくれたり、とてもやさしく接していたそうです。
花子の援助をやんわりと断り、医者にもかからずに亡くなりました。

留吉と花子の間には、お互い小さい時のわだかまりがありました。

留吉は、子供時代にあった両親と義兄家族とこことで、人と争うことも、家や自分自身の存在も、嫌になったのかもしれません。
だから、両親亡きあと家をたたみ、戦争を拒み、セツにやさしかったのかもしれません。


花子は、留吉の両親の墓の前に留吉を埋葬して、目印に頭位の大きさの石を置いて、墓としました。
セツはこの時、やさしかった留吉伯父に「いつかちゃんとお墓を建ててあげるね」と約束したそうです。

この約束をセツは、自身が還暦を迎えた時に果たしました。
それを見た花子は、「これには、もったいないことだ」とぽつり。
90歳に近かった花子のこの一言は、きっと先人への甘えだと思います。

花子とセツの確執を産むお話は、この後も続きます。
そして、親子の口喧嘩は、長年つづきました。
けれどそれは、セツの花子に対する甘えだったようにも思います。

そして、この甘えが人生の支えだったのかもしれません。


今回は、妹シマと留吉が亡くなったお話でした。
続きは、また次回です。

おばあの実話をもとに、憶測や妄想などでつないで書いています。
ただの想像作品ということで、ゆる~く、お許しください。


貴重なお時間を、誠にありがとうございました。


ここまで、ご覧いただきありがとうございました💖 妄想竹は、気まぐれで鈍脳、時間管理能力低、メカ音痴&超遅筆な未熟者ゆえ、記事の内容、スキやフォロー、コメントへの無返答等、多々不備不足があるかと存じます。 その節は、どうか寛大なお心でお許しくださいますようお願いいたします🙇