見出し画像

吉田好寛の出自について+a

現在発売中の歴史群像に、連載コラムの最新回、載っています。今回の題材は「吉田修理亮好寛(よしだ・しゅりのすけ・よしひろ)です。

・ちょっとでも宣伝になればいいかなと思い、今回のコラムで使った逸話の出典をTwitterに投稿してみました。

・好寛については他に「性素より遠識あり、兼て兵事に精し」といった『越藩史略』の評などがあるものの、『備前老人物語』の「妙なる心がけありし人」の方が、彼の人柄がよく表現されていると思うのですが、いかがでしょう。

・で、Twitterでも少し触れましたが、吉田好寛の出自について、コラムを書く際に調べたことを、以下に書いていきたいと思います。

『国事叢記』内の吉田好寛のプロフィール

・『国事叢記』は江戸後期に編まれた、福井藩の正史です。福井藩士・田川清介(纓)が藩命により編纂し、弘化3年(1846)に完成させました。

吉田修理亮源好寛
佐々木氏、元、秀次公臣久右衛門。前、石橋彦四郎云。於越前領一万四千石、与力知行共ニ。元和元年乙卯年五月七日溺死、節叟道義大居士。法泉寺墓在り。
父者、吉田内記守氏入道長英、武衛臣、尾州岩塚城主。好寛兄者内記。永禄十一戊辰年九月十三日勢州大河内城責、討死。其子吉田九郎左衛門、同長蔵、織田信雄仕。

『国事叢記』より

・「吉田修理亮好寛は、元は豊臣秀次の家臣で、(修理亮と名乗る以前は)久右(左)衛門と称し、越前で1万4千石を領した」
「元和元年5月7日に溺死した」
「法名は節叟道義大居士、墓は(福井市の)法泉寺にある」
……これらの情報は、他の史料とも一致します。

・ちなみに、法泉寺(宝泉寺)は、九代藩主・松平宗昌の法名の「豊仙院」と音が似ていたため、霊泉寺と改称され(『越藩史略』)、現在に至ります。

・……で、ここまでは良いのです。問題は、それ以外の記述。

・「秀次に仕える前は、石橋彦四郎と称した」
「父は、尾張守護斯波氏(武衛家)の家臣・吉田守氏(通称・内記、号・長英)」
「守氏は尾張岩塚の城主だった」

・「好寛の兄は(父と同じく)内記といい、永禄11年9月13日、伊勢大河内城の戦いで討死した」
「内記の遺児・九郎左衛門、長蔵の兄弟は、織田信雄に仕えた」

つまり、系図にするとこうなります。

吉田守氏(内記入道、長英)―某(内記)――――九郎左衛門
             ―好寛      ―長蔵

(内記の実名は『尾張志』では元氏、『断家譜』では元壽とされます)

・この、「好寛を岩塚吉田氏に結び付ける記述」が、とても怪しい……という話をしていこうと思います。

吉田守氏とその周辺

・尾張岩塚城主・吉田守氏については、江戸後期の地誌『尾張志』(天保15年(1844年)成立)の、「愛知郡 岩塚城」の項に詳しいです。

・同書によれば、「吉田守氏は斯波氏の一族であったが、(主家である)斯波氏の衰微後は家督を嫡子・内記元氏に譲り、自らは蟄居(隠居か)して長英と号し、天文元年8月13日に没した」とのこと。

・後を継いだ吉田元氏については、『国事叢書』の記述と同じく、「永禄11年に伊勢大河内城の戦いで戦死し、その子・九郎左衛門は織田信雄に仕え、岩塚領を領した」とあります。

・……あれ? 好寛は?

・そうです。どうも、岩塚吉田氏側の伝承・記録には、好寛についての言及がないようなのです(『尾張志』は編纂にあたって、岩塚吉田氏の家譜を参照したそうです)。

・また、岩塚吉田氏の子孫は江戸期には旗本になっており(寛永14年に無嗣断絶)、幕府が編纂した『断家譜』にも系譜が掲載されているのですが、ここにも好寛の記述は一切ありません。

・それ以前に、好寛が天文元年(1532年)に没した吉田守氏の子だとすれば、たとえ父の死ぬ直前に生まれた子だとしても、大坂夏の陣のときは数え84歳……その年で越前家の先鋒を任せるのは、いくらなんでも無理でしょう。
また、斯波家臣であった守氏の子とするのは、好寛の活動時期からしても、世代的に違和感があるように思われます。

・加えて、越前家の分限帳に記載された好寛の本国は、尾張ではなく美濃です。

・では、なぜこんな混乱が起こってしまったのか。

・結論を申せば、江戸時代の俗書の仕業と思われます。

『関原軍記大成』と『明良洪範続編』

・僕が確認できた範囲では、『国事叢記』以前に、吉田好寛と岩塚吉田氏を結びつける記述が出て来るのは、『関原軍記大成』と『明良洪範続編』という、江戸中期の逸話集・軍記です。

・前者は正徳3年(1713年)成立、後者ははっきりとした成立年は不明、どちらも、現在では信憑性が高くない史料とされていますが、『国事叢記』編纂当時にはそう考えられず、こうした俗書が参考にされてしまったのではないか……というのが、僕の推測です。

・では、これらの史料の具体的な内容を見ていきたいと思います。

・まず『関原軍記大成』は、途中までは、おおむね『国事叢記』と同じです。
「尾張岩塚城は、斯波氏の一族・吉田守氏が領していたが、斯波氏が衰えると守氏は隠居」
「長男・内記、次男・石橋彦四郎は織田信長に仕え、内記は永禄11年に、大河内城の戦いで戦死した」
「内記の子・九郎左衛門、長蔵、そして弟の石橋彦四郎は織田信雄に仕えた」

・「その後、織田信雄は尾張を召し上げられ、同国は豊臣秀次が拝領」
「彦四郎改め吉田修理は秀次の近習となり、九郎左衛門・長蔵兄弟も秀次に仕えて岩塚を領した」
「やがて、秀次が滅ぶと、修理は越前家に仕える。吉田兄弟は牢人した」

・『関原軍記大成』では、これ以降、吉田兄弟――九郎左衛門と長蔵の話になって、修理(好寛)への言及はなくなります。
その後の吉田兄弟は、関ヶ原の戦い直前、なぜか福島正則を討ち取ることを企て、味方したいと偽って正則に近づくも、陰謀を見破られて誅殺された……みたいな話が同書には書かれていますが、恐らく創作でしょう。

・『断家譜』によれば、長蔵(守定)の没年は不明ですが、九郎左衛門(豊壽)は慶長5年11月29日に病没。子の九助(通壽)は徳川家康に仕え、五百石を賜ったとのことです。

・『明良洪範続編』も、九郎左衛門を太郎左衛門と誤記している以外は、おおむね同じような内容です。
吉田兄弟については、「功をあげて吉田家を再興するため、尾張の国主である福島正則に味方を申し出たが、西軍の織田信雄の調略を受けていたと告発され、誅殺された」という、『関原軍記大成』よりもストーリーのはっきりした構成になっています。ちょっと歴史小説の短編っぽい筋書きで、興味深いですね。

・『関原軍記大成』にせよ『明良洪範続編』にせよ、信憑性は疑わしいにしても、読み物としては面白くて魅力的ではあるんですよね……。

・「石橋彦四郎」もどこから来たんでしょうね。斯波一族の中に石橋氏がいるので、そこから持って来たのか、あるいは石橋彦四郎という人物の伝承がまずあって、そこに好寛を当てはめた、ないし混同してしまったのか……。

そもそも好寛は何歳なのか

・というわけで、ここまで
「吉田好寛が吉田守氏の子であるという『国事叢記』の説は疑わしい」
「その発祥は、江戸時代の俗書の創作と思われる」
という話をして来ました。

・コラムを書くにあたって、なんでこんな細かいことを頑張って調べたかというと、好寛の生年が不明だったからです。
吉田守氏の子=大坂の陣の際に80歳以上だとすると、それに応じてコラム本文の内容・ニュアンスも変わって来るため、それはほぼあり得ないだろうという根拠を、自分の中で固める必要があったわけです。

・というわけで、
「好寛は守氏の子ではない」
「仮に、彼が歴史に登場する小牧長久手の戦いの際、20~25歳ぐらいだとすれば、1565~60生まれぐらいではないか」
「これなら、大坂の陣の時は51~56歳、よし! 自然だな!」

・そんな想定で、コラムを書き上げ、初稿を提出し、何度かの校正を経て、全ての作業は終わったのですが……。

・実はその後で、決定的な史料を見つけてしまいました。


吉田修理亮 年四十餘

・これは、医師・曲直瀬玄朔の診療記録『医学天正記』、「文禄2年初め」の項からの抜粋です。

・文禄2年(1593年)に40歳あまり、仮に1554年生まれとすると、大坂夏の陣では数え62歳……

・想定よりやや年上ですが、手掛かりのない中、わりと頑張って寄せられたと思います……いや、でも、はじめからこの記述の存在を知っていれば、こんなに苦労することなく、ほぼピンポイントで当てられたのに……!

・なんとも締まらない結末ですが、ともあれ、これで吉田好寛が、天文元年(1532年)に没した吉田守氏の子ではあり得ないことが、はっきりしたのではないかと思います。

・ちなみに、好寛の家系は、史書『越藩史略』や軍記物『難波軍記』などでは、無嗣により断絶したとされますが、『国事叢記』では遺児が本多富正に匿われ、家臣になり(四百俵扶持)、子孫は吉田半兵衛と称したとのことです。

余談の余談

・そもそも、『国事叢記』の「佐々木氏」「源好寛」という記述を信じるのなら、好寛は宇多源氏であるはず……。
一方、岩塚吉田氏は斯波一族(足利一族)ですから清和源氏のはず(『断家譜』にも「足利義康の後裔」とある)……。
『国事叢記』がなにを根拠に、好寛を佐々木氏としたか分からないので、断定はできませんが、二つの吉田氏は、全く別の一族だった(少なくとも当人たちは異なるルーツを認識、あるいは自称していた)のではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?