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第2回 視覚障害のある教員として、小学生が社会に出る基礎を築く~片平考美さん~【前編】|マイノリティのハローワーク|現代書館

ある程度年齢を重ねてから障害があると気づくこともあれば、物心ついた頃からずっと障害がともにあるケースもあります。第2回では、生まれつきのロービジョンが成長とともに進行した経験を持つ視覚障害者であり、視覚特別支援学校で小学生を教えている教員の片平考美さんにお話を伺いました。障害への認識や進路選択、教員の視点で視覚障害者の進路の課題など、進路選択を考える上で欠かせないお話でした。

片平考美(かたひら・ちかみ)さんプロフィール

視覚特別支援学校教員、日本視覚障害者団体連合(日視連)(注1)青年協議会(注2)会長。生まれつきの神経異形成症(注3)のほか、左目の緑内障(注4)、右目の白内障(注5)など眼疾患が重なり、元々ロービジョン(注6)であったが、小学1年生のときに左目を失明する。7回の眼の手術を経て、現在は左目失明、右目は視力0.4程度、夜盲(注7)もある状態。そのため、慣れない道や夜は白杖(注8)を使用する。

注1:日本視覚障害者団体連合(通称:日視連)………社会福祉法人 日本視覚障害者団体連合。国内の視覚障害当事者団体で構成されている組織。視覚障害者の人権や福祉、教育などの問題に対する政治への働きかけや視覚障害者への支援を行っている。
注2:青年協議会………日視連のなかの組織で、視覚障害のある18歳~45歳の若者の抱える課題を解決するために活動している。若者の就労についても積極的。
注3:神経異形成症………視神経の形が正常ではない状態で生まれる病気。片平さんの場合は網膜の病気や白内障なども併発している。
注4:緑内障………視神経に問題が生じ、視野が狭まっていく病気。進行すると、失明もありうる。
注5:白内障………水晶体が白く濁り、視力が低下する病気。
注6:ロービジョン………視機能の低下により、生活に不便が生じている状態。失明は含まない。少し意味が異なるが、「弱視」と表現されることもある。
注7:夜盲(やもう)………暗いところや夜に見えにくくなる症状。
注8:白杖(はくじょう)………視覚障害者や聴覚障害者、平衡感覚の障害のある人が使う杖。周囲の情報を得たり、安全を確保したりする役割がある。使用前に歩行訓練を受けて、使い方に慣れる。

「みんなと同じでいたかった」小学校時代

地域の公立小学校か、あるいは特別支援学校か。この悩みは現在でも障害児を育てる親御さんから耳にするものです。生まれつきのロービジョンがある片平さんの就学についても同様です。片平さんの就学先は先に挙げた二択のどちらでもなく、私立の小学校に決まりました。

あまり聞かない選択肢に思えますが、片平さんによると、「20人程度の少人数のクラスで教員の目や配慮も行き届いていて、過ごしやすかった」そうです。ルーペを使い、前の席で授業を受ける形で、小学校4年生までを私立の小学校で過ごしました。

配慮と言っても、障害があることを過度に意識させられることはなく、片平さん自身もある時期までは左目が見えないと強く意識していませんでした。「左目が見えていないせいで転んでいるのに、足の長さが違うからだと思っていたんです」と当時の障害認識を振り返ります。

私立の小学校での時間を「他の人にも合うかはわからないけれど、私は通ってよかったです」と片平さんは言葉にしてくれました。小学校受験を伴うこと、学費は公立よりも高額になることもあり、親子ともに負担もある選択肢ですが、考えてみる価値はあります。

環境の変化で不登校や保健室登校も経験

家庭環境の変化のため、小学校5年生からは地域の公立小学校に通うようになった片平さん。そこでは今まで通っていた私立の小学校とは大きく違い、「障害があるから危ない」と体育はじめ多くの活動を制限され、戸惑いました。特に、校外学習の沢登りを止められたことは大きな衝撃でした。

視力も落ちてきて、電子辞書や芯の太いシャープペンシルといった「人と違う」アイテムを使用しなければならないことも当時の片平さんにはつらいことでした。学校に行くのが嫌になり、家にいる日も多くなりました。そんななか、視力のこともあり、平日は寄宿舎、週末に帰宅する形で盲学校(注9)に通い始めました。

盲学校では大きく環境が変わります。私立の小学校でも、公立の小学校でも、「見えない人」だった片平さんですが、盲学校では相対的に「見える」側になったのです。友だちは皆自分より見えていないため、頼りにされるのが嬉しく、「盲学校の先生になりたい」と考えるようになりました。

しかし、平日は家族と離れて暮らす生活があまりにもつらく、月曜日の朝に家族に盲学校まで車で送ってもらったときは別れを泣いて嫌がる片平さんを当時の担任がどうにか教室へ連れて行くほどでした。そういった状況もあり、小学6年生の3学期に地域の公立小学校に戻りました。

そのまま地域の公立中学校に進学しますが、教室で一人だけ拡大読書器やルーペを使う気にもなれず、家や保健室で過ごす日々でした。小学4年生までいた私立の学校の編入試験を受け、中学2年生でよく知った仲間の元へ戻ってからは楽しく学校生活を送ることができました。

注9:盲学校/視覚特別支援学校………視覚障害を持つ児童生徒のための学校。昔は盲学校と呼ぶことが多かったが、近年では視覚特別支援学校との名称が定着しつつある。通常の学習のほか、補助具など視覚障害者として必要な生活方法についても学ぶ。地域の公立学校より圧倒的に数が少ないため、通学する児童生徒は家族と離れて寄宿舎で過ごさなければならなかったり、長すぎる通学時間が課せられたりする現状がある。

障害について話す必要性を強く感じた研修交流

教員を目指し、大学での教育実習に挑む前、片平さんは意を決して教授に「私、目が悪いんです」と視覚障害について伝えました。それまでの大学生活では困ったことがあっても支援を頼ることなく頑張ってきてしまい、教育実習の前に「自分一人の問題でないから」と勇気を振り絞りました。教授には「言うのが遅い」と怒られましたが、それほどまでに言いたくなかったのです。実習先は母校の私立小学校で児童数も少なく、他の教員に代わりに文字を読んでもらう以外に大きな配慮の必要性は生じませんでした。

片平さんは無事に小学校の教員免許を取得し、2007年に視覚特別支援学校の教員として採用されました。意外に思えるかもしれませんが、視覚特別支援学校で視覚障害のある教員が普通教科を教えるのは珍しいのです。片平さんによると、視覚特別支援学校にいる視覚障害のある教員のほとんどは、理療(注10)を教えています。

視覚特別支援学校で6年勤務した後、片平さんは研修交流の制度を利用して公立小学校の教員も経験しました。視覚特別支援学校は必然的に児童数が少ないため、児童数の多い公立小学校で経験を積んでみたいと手を挙げたのです。全校児童400人の前で、「先生は目が見えにくいので、呼んでから話しかけてください。物を落としてしまったら拾えません。服装が変わると誰かわからないので名乗ってくれると嬉しいです」と障害開示をしました。

研修交流は3年間と決まっていましたが、最初の2年間は担任を持たせてもらえませんでした。片平さんの積極的なアピールや加配の支援員(注11)の配置により、最後の1年は1年生の担任をすることができました。その経験は視覚特別支援学校でも活かされています。

3年間の研修交流を通して、片平さんは「障害のことは言わないとわかってもらえない」と痛感しました。視覚特別支援学校では何となくわかってもらえることも少なくないですが、公立の小学校ではそうはいきません。障害開示をして助けてもらったり、決まった位置にはんこを押すためにダンボールでアイテムを自作したりと、工夫を重ねていきました。

注10:理療……あんま、はり、灸の総称。長らく視覚障害者の職業として知られている。視覚障害者だからといって理療に向いているとは限らないが、向いていた場合は技を磨き開業する人もいる。対面での施術のため、新型コロナウイルスの流行時には企業でヘルスキーパーとして働く理療に従事する視覚障害者が打撃を受けた。
注11:加配の支援員………何らかの支援が必要な児童がいる場合に、追加で教室に配置される支援員。

【後編】に続きます

雁屋優(かりや・ゆう)………1995年、東京都生まれ。生後数ヶ月でアルビノと診断される。高校までを北海道の普通校で過ごし、茨城大学理学部に進学、卒業する。卒業とほぼ同時期に発達障害の一つ、自閉スペクトラム症(ASD)とうつ病と診断され、治療しながら就職活動をする。病院勤務、行政機関勤務を経て、現在はフリーランスのライターとして活動。科学、障害に関するインタビュー記事、ジェンダー、障害、セクシュアルマイノリティに関するコラムの他、さまざまな執筆業務を手がけている。障害やセクシュアリティをはじめとしたマイノリティ性のある当事者が職業選択の幅を狭められている現状を、執筆活動を通して変えようと動いている。日本アルビニズムネットワーク(JAN)スタッフ。視覚障害者手帳4級、精神障害保健福祉手帳2級。


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