中世の本質(15)強権と集権

 研究者の方々は<強権と集権>の区別ができていません。強権とは秀吉や家康の揮う強力な権力です。一方、集権制とは国土、国民、国家権力が一元的に掌握されている国家体制です。ですから強権と集権とは全く違う。例えば多くの室町将軍は弱い権力を持っていました、一方秀吉は強い権力を持つ。しかしそれでも室町時代も桃山時代も日本は分権国でした。いずれも国家、国民は封建領主たちによって分割、分与されていたのです。全土、全民、全権を占有する者は一人もいません。権力の強弱と国家体制とは関係ないのです。

 研究者の多くの方々は例えば国替えに注目します。国替えは秀吉や家康の強者ぶりを示すものであり、そして大名たちはその国替えに唯々諾々として従っている。国替えの下、大名たちは満足であろうと不満であろうと東へ西へと移動する、大きな領地を手に入れる者もいれば逆に小さな領地を手にする者もいます。大名たちは文句も言わず、従順に移動する。そんな彼らはまるで秀吉や家康の地方長官のようではないか、と。

 しかしこの認識も誤っています。それは典型的な印象判断です。大名たちは秀吉や家康の奴隷ではありません。中世王に絶対服従しているのではないのです、そして秀吉や家康も古代王ではないのです。

 説明します。国替えは主君と従者との間に交わされた彼らの双務契約の履行です。(双務契約は武家社会を成立させる根源的なものです。双務契約については後で詳述します。)中世王は大名たちの戦功や忠節をもとに領地を安堵します。この領地安堵は武家にとって根本的なことです。そもそも大名たちが合意の上で中世王を選び、領地安堵の大権を彼に与えたのですから。

 従って中世王が戦功や忠節をもとに公正に決める領地安堵こそ大名にとって至上のものです。それは領地所有の公的認証であり、大名が土地泥棒ではないことを証明する、つまり大名の生存を約束します。中世王の存在価値はここにあります。

 従って指示されたその地が大名の本領であろうとなかろうとそれは二次的なこと、三次的なことでしかありません。(すでに説明しましたが、本領安堵は領地安堵の一種にすぎません。本領安堵にこだわって国替えを誤解してはいけない。)

 ですから大名たちは中世王の判断に従い、本領に留まる場合もあれば、他の領地へと移動すること(国替え)もある。それはいずれにせよ領地安堵であり、領地を得ることで初めて彼らの主従関係は築かれ、領主は生存を手にすることができます。そうした領地安堵は中世武家の鉄則です。ですから国替えは大名にとって特別な僥倖でもなければ屈辱でもありません。

 確かに本領を離れることは大名にとって寂しいことかもしれません。しかしそれは実に些末なことです。武士にとって領地安堵こそ絶対です。もしも中世王のその指示を無視すれば、大名は土地泥棒と化す。土地所有の公的認証を失うのですから。そして忽ち、その領地は中世王によって剥奪され、大名は路頭に迷う、あるいは切腹する。

 国替えは一見、大名(特に小さな土地を与えられた大名)を地方長官のように見せます。本領を失い、地方回りをする哀れな従者である、と。そしてそんな国替えを強行する秀吉や家康を専制君主と錯覚する。しかしこの見方は問題です、それはまさに印象判断です。物事の本質ではなく、表面だけを見ています。

 大名と地方長官とは全く違います。大名は領主権を持つ人種です。本領であれ、新しい土地であれ、大名は大名である限り、領主権を持っています。その地が以前より大きな土地であろうと、小さなものであろうと大名はその地を所有し、その領民を支配する。そしてその地の支配者は彼のみです。秀吉も家康も決してその地に介入しません。それは国土、国民、国家権力が分割されている証であり、それが分権統治です。

 一方、地方長官はいくら位が高いといっても一介の役人にすぎない。彼は勤務先の地で王民を支配しますが、その支配はあくまでも古代王の代理でしかない。彼はその地を離れた途端、支配権を失うのです。彼は領主権を持ちません。古代において国家権力は古代王のみが持つ。それが古代の中央集権統治です。

 ですから大名は地方長官ではありません。そこには雲泥の差があります。それが古代支配と中世支配の決定的な違いです。中央集権制と分権制との違いです。従って国替えを専制主義の政策ととらえ、秀吉や家康を専制君主と見立て、そして大名を地方長官と断じる中世論は大きく的を外れています。それは皮相的な解釈です。桃山時代と江戸時代を見誤り、歴史区分に失敗し、そして中世史を歪めています。

 研究者の多くは歴史を印象判断する。しかし中世の国家支配を検証するには国家の分割というものを真に理解しなければいけません。例えば将軍が強ければその国家体制は集権であろうと、あるいは将軍の力が弱ければそれは分権であろう、と思い込む。それは全く根拠のない、見当はずれの思い込みです。

 繰り返しますが、国家体制の変革は明治維新の革命家たちによって強行されたのです。西郷や大久保が廃藩置県を断行し、江戸時代の分権制を廃止し、その代り中央集権制を全国に布きました。つまり江戸時代が分権制であったからこそ明治維新は成立したのです。江戸時代の日本は中央集権国ではなかった、それは疑いのない歴史事実です。

 国替えや参勤交代や武家諸法度やその他の徳川の強圧的な政策は強権故の政策ですが、しかしそれらは大名たちの領主権を侵さない限りにおいての政策です。徳川は大名たちの権力を奪おうとはしていません、徳川は日本全土を征服しようとはしていません。国家体制を中央集権化しようとはしていないのです。革命家ではありません

 徳川は関東の地を超えて他国を占領しようとはしていません、拡大政策を採ってはいない。日本国の行政権も司法権も徴税権もすべては大名たちに分与されています。つまり徳川は専制君主ではありません。頼朝以来の分権統治を堅持する中世王です。

 強権と集権との混同は歴史研究者の方々が国家体制というものを真に理解できていないことを暴露します。そして彼らは中央政府と主従政府の違いをも理解していません。桃山時代を中央集権国と騙り、中世室町時代死亡説を唱え、そして近世というまやかしの歴史をひねり出したのです。その結果、日本史は四つに区切られてしまった、古代、中世、近世、現代と。

 決定的なことですが、近世は近世固有の三種の神器を有していません。近世は近世固有の支配主体を持たないのです。桃山時代と江戸時代の支配主体は中世の支配主体です。何故なら桃山時代と江戸時代の支配者は(古代の古代王でもなく、現代の憲法でもない)中世の中世王です。封建領主たちの棟領です。そして桃山時代や江戸時代の国家体制は(古代と現代の中央集権制ではなく)分権制です。国家は200名以上の大名たちに分割、分与されています。国家のすべてを掌握する者は一人もいません。

 そして桃山時代や江戸時代の政治は(古代の専制政治でもなく現代の民主政治でもない)主従政治です。それは鎌倉時代以来続く中世固有の政治です。つまり桃山時代と江戸時代の日本は分権の世であり、中世の一部であった。

 近世は実体を伴わない空疎な歴史名です。近世には歴史を名乗る資格が無い。近世は古代、中世、現代と並ぶ資格が無い。つまり近世史は歴史ではありません。

 従って桃山時代と江戸時代の日本を近世とすることは日本史の改ざんです、桃山時代と江戸時代の日本を中央集権国とすることも改ざんです、そして大阪政権と江戸幕府を中央政府と呼ぶことも改ざんです。

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