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ビニール傘を日本に広めた人の話

ビニール傘を皆さんは知っていますか?おそらく知らない人はいないでしょう。そして、このビニール傘を日本に広めた人たちの話はおそらく誰も知らないでしょう。僕は知っています。なぜなら僕の父がその一人だったから

#ビニール傘 #ローソン #大粧 #パルタック #ビニール傘の歴史

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この話は、いつかしようと思ってたけど、ずっとしていませんでした。

僕は父との関係は親子というよりも、どちらかというと尊敬する友達の感覚でいます。というのは、幼少期にもまともに子育てしてもらったことがないので、そういう感覚です。父は海外出張が多く、ほとんど家にいませんでした。昔は土日なんてなかったし、夜は寝てからしか帰ってこなかったし、本当に少なかった休みはとにかく寝てた印象しかないです。今ならその気持ちが分かりますけど。

また、父は仕事の話を一切家庭に持ち込まないタイプの人間でした。なので、結構な大人になるまで僕は父がどういう会社で、何をしていたのか全く知りませんでした。見る目が変わったきっかけと言えば、高校生の時に父方の婆ちゃんが亡くなって、葬儀の時に資生堂の当時の代表取締役からでっかい献花が送られて来て、親戚の人に元ちゃんこんなのすごいよって言われてからこの人何をしている人なんだろうなぐらいの記憶しかありませんでした。

僕が就活か社会人数年目ぐらいの時に初めて、昔何の仕事をしてたの?と聞くようになり、やっと父がどういう会社で、どういう仕事をしていたのかを初めて知る事になりました

ビニール傘の話についても、知ったのは本当につい最近です。意外にも自分の父がどういう仕事をしていたかというのは、子供は知らない家庭も多いのではないでしょうか。聞くと面白いかもしれませんよ。

父の経歴

父は広島出身で、名は勝海と言います。勝海舟から取ったのか名前の由来は全く分かりません(祖父が原爆で若くして亡くなったため)。母とはお見合いで知り合い、無一文で大阪に来て、そこから社会人生活がスタートしています。確かたまたま受かった会社が大阪で、それで意を決して大阪へ移住することになりました

そして、その大阪の会社が、大粧という会社です。もうドラックストア業界、化粧品業界の感の良い人ならピンと来ているかもしれません。大粧という会社は現パルタック、今はメディセオパルタックホールディングスという東証一部の超大企業です。化粧品と医薬品の卸売業として業界No1を走り続けている会社です。ドラッグストアの化粧品や日用品、医薬品の卸としては、日本のトップの企業です。知らず知らずにほとんどの日本人がお世話になっている会社になります。

しかし、僕の父が就職した当時は大阪の小さい中小企業でした。なんと当時社員は30人ぐらい。今は売上3兆円、グループで1万4000人の立派すぎるほどの大企業なので比べ物になりません。そこにたまたま就職したのが父でした。資生堂さんの売上が1兆円ほど、花王さんの売上が1.5兆円ほどなどであくまで売上ベースですが、いかに大きい会社かが分かるかと思います


配属先された先が貿易部、海外事業部

どのタイミングで大粧(現パルタック)の海外事業部が出来たのかは知りませんが、立ち上げメンバーだったのが父でした。当初、貿易部という名ですでに貿易業務自体は元からあったらしいのですが、あまり機能はしていなかったようです。以後、父はパルタックの海外事業部の部長としてずーっと定年まで働くことになります。(定年後の話もあります。また今度)

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最初は海外事業部も、全くといっていいほど、仕事がなかったそうです。なんせ目標も方針も全くなかったようで、だから仕事がない。あまりにも暇すぎて、無理矢理、海外出張を入れて仕事をしているフリをしていたそうです。とにかく何をしたら良いのか、会社から指示がなかったので、とにかく手当たり次第、輸出できるもの、輸入できるものは何でもやったそうです。

化粧品、日用品の卸なのに車の輸入とか輸出とかwww
その中で父が目をつけたのがビニール傘です。そうあの透明の傘。ビニール傘。今では当たり前にコンビニにある使い捨ての傘です。

実際になぜ、私の父がパルタックでビニール傘事業をやることになったのかは、以下に父が私宛に当てたメールから読み取ることができます

僕の父が僕宛に人生を振り返った時に急に来たメール

元へ

ビニール傘の取り扱いの理由で30年前の状況を振り返ってみた。
43歳の時、痔が出て病院に入院した時、台湾の子会社を作ることが決まった。海外の子会社は初めて、対応できる人材は1人もいないのに、とんでも無いことを言い出し、台湾に投資した。

当然毎年赤字を続けて、どうしようもない経営を続けていた。台湾に決めたのは香港より、日本人に対して優しいからと言う理由だけで,とんでも無い文化や商習慣が底辺にあった。

そのとき、ローソンや他のコンビニに強い物流で、非食品はほとんどパルタックからコンビニに納入していた。その中にビニール傘があったが,中小の貿易会社から仕入て全国的に販売していた。国内の営業マンは海外から輸入して納入することなど夢にも思っていなかった。

その時、毎月、毎年台湾の子会社は赤字を垂れ流していた。台湾の子会社にマージンを落とし、輸入が増えれば少しでも赤字が減ると思い、このことを国内の営業及び責任者に理解して協力してもらえれば、ビニィール傘を小さいコンビニから徐々に切り替えて行ければと思い、台湾の葉さんの協力を得て、台湾から傘の輸入を開始した。

順調に販売が進み、クレームもないことから、国内営業と協力して、ローソン向けの台湾の業者から傘の仕入れ先を海外事業部から輸入し、納入することに成功した。

 其の間一年以上かけて切り崩して、定着して、年間100万本のビニール傘を輸入した。半年に一度は商品改良、生産工場見学等もしていた。中国の工場の生産現場、品質チェック、コスト競争力を見て、感心した。 この当時一ドル八十円に急騰し、毎月為替差益が大幅に出て、部署の輸出の補填をすることができ、海外事業部は会社に存続できた。

 長い貿易業務で、輸入の業務、ブランドものの平行輸入とビニィール傘の輸入で、パルタックの組織の中で生き残っていくことができた。ここ10年中国やアジア市場の生活レベルが上がり、日本のドラッグでの化粧品のバグ買がおこり、今にいたって来たと言うことです。これからのグローバル経済、独占化が進みもっと変化が早くなると思います。

勝海

つまり、僕の父は

それまで、色んな仲介業者を介して細々とコンビニで売られていたビニール傘をパルタックとして中国で生産して、生産と流通を一本化して、当時すでに取引のあったローソンさんに声をかけて、交渉して、ローソンさんにビニール傘を卸すようにした人になります。もちろん、元々化粧品卸、日用品卸として本業である取引のあるドラッグストアも全て、ビニール傘をこの方式で卸しています

ビニール傘は使い捨てでなかったものを使い捨てにしてしまった革命

おそらくビニール傘は僕が小さい当時のことを思い出すと、あまり良い印象を持たれていない面も多いと思います。それまで個別で買っていた傘が、大切にしていた傘が、コンビニのビニ傘になったことで消耗品になってしまったからです

おそらくビニール傘が出たことで、たくさんの傘メーカーが潰れたことだろうと思います。容易に想像できます。むしろ業界からは恨まれていた存在かもしれないとも思います。でもしかしこの傘が登場したことで、傘を無くしても良い、使い捨てで良い、すぐに安い値段で手に入るという新たな市場が生まれたことも確かだと思います。

そして傘のシェアのトップが今現在でもこのビニール傘であることは明白。一家に一個は必ず眠っているであろうビニール傘。そのことを考えると布がティッシュになったように、オムツが紙おむつになったように、またこのビニール傘も革命だったと思います。

ビニール傘自体は父がこの事業をやる昔からありました。しかし、ビニール傘自体が革命ではなく、ビニール傘を中国で大量に生産し、生産と流通を一本化して、コンビニという全国展開しているショップの物流に乗せ、どこでも同じ品質で、いつでも手に入る使い捨ての傘にしてしまったことが革命なのだと思っています。

時代の流れもあると思いますが、各コンビニ業者に絡んでいる商社さんや卸業者さんが、そこの発想に行き着き、実際に全国展開したことが、革命だと思っています。

もちろん色んな人が関わってるだろうし、各社コンビニも大手商社が絡んでおり、ライバルもあったと思います。さらに、すでに土台もあり、ビニール傘自体はコンビニに存在していたし、色んな業者が介在していたので、父がいなくてもビニール傘は広まったと思っており、父だけの功績では全くないと思っています。ただ、ビニール傘が世に広まるために奔走していたたくさんいた人たちの紛れもなくその中心にいたひとりは僕の父であり、そこに需要があることを早く気づいて、パルタックという会社でそれを主導していたのも父でした。

後にコンビニビニール傘が儲かる事がわかった時に、某大手商社がこの事業を買い取ろうと買収をしかけてきたらしいのですが、父はこの事業を手放さず、話を蹴って独自路線で行ったそうです。(信じるか信じないかはあなた次第)

面白い記事を発見しました。

父の話と年代が被るのでとても面白い記事でした。

最後に

僕が就職してから何年目かに、たまたまパルタックで働いていた元社員の若い女性と話す機会があり、聞くとパルタックと言えば化粧品、日用品卸もだけど、ビニール傘ですよねえ。海外事業部は今、超エリートコースで優秀な人しか所属できませんよと言われ、父が育てた事業や部署がこんなにも育ったのかと感慨深くなりました。

最初は全く仕事も何もなかったらしいですよ。

現在もビニール傘はドル箱事業だそうです。雨は降らない世界はないし、透明で安いビニール傘は日本人の文化となりました。父が目をつけ始めてから、もう30年以上も月日が流れているのにずっと売れ続けている変わらない事業もかなり珍しいのではないかと思います。そして今では各コンビニの親元大手商社が同じようにサービスを展開しているのを見るといかにこの事業が面白いか、日本の文化や気候ににマッチしていたかが分かるかと思います

僕は出先で雨が振り、傘を持って出なかった時に、毎度父のこの話を思い出します。今でも全国のローソン、ミニストップの店舗、パルタックと取引のある多くのドラッグストアでは父が開拓に奔走したビニール傘を見る事ができます

コンビニでビニール傘買お。

(今回の話はあくまで、僕が父から聞いた話で、親子と言えどもかなり古い話も混ざっており、言ってもまた聞きなので、間違っている部分はあると思います。)

問い合わせは以下から

父は化粧品や日用品の輸出入がほとんど行われてこなかった時代から、最前線で様々な商材を扱ってきました。少し話を聞いてみたい、海外進出したいという方はこちらからご連絡ください



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