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ちょっとバカなほうがいい

元家族と離れ、もう10日が過ぎた。
さびしいときやつらいときもあるけど、
そうじゃないときもある。

血が流れ、
かさぶたがかたまり、
そのかさぶたの下では、
どんどん傷が治っているのだろう。

たまに傷がうずくことがある。
かさぶたをみて、
「おれは傷ついているんだ」
なんて思うときもある。

でも、こんな傷、ほっときゃ治るんだ。

かさぶたをいじらない。
かさぶたを眺めない。
かさぶたをはがさない。

そのままにしておく。
そっとしておく。

悲しみを。
さびしさを。
痛みを。

そしたら勝手に治る。
そんな傷だ。


傷のことを忘れ、さびしさを忘れ、いまを生きる。
これから起きる素晴らしいことに思いをはせる。

そんな時間もある。
増えてきた。

ただ、そういうときには、noteの記事が書けない。

すべてのことに当てはまるとは思わないけど、
人ってさびしいから動ける。
悲しいから。つらいから。
そういうものを解消したくて、ラクになりたくて、動き出す。
動き出せる。

身も心も満たされてしまったら、おれは動けなくなる。

だって動かなくたってしあわせなんだもの。
なにもしなくても満たされているんだもの。

動けなくなり、書けなくなる。
文章が書けなくなる。

おれが文章を書くのは、しあわせになりたいからだ。

でももうすでにしあわせであるのならば。
おれは文章を書く意味がない。

文章を書かなくても、満たされている。
文章を書かなくてもしあわせ。
誰かに承認されなくてもしあわせ。
スキがもらえなくてもしあわせ。

そうなってしまったら、
表現者としてのおれは死んでしまうのだ。
原動力を失ってしまう。

心の中の葛藤、
あるいは不幸、悲しみ、苦しみ、無理解、孤独。
そういうのって、人が動くちからになると思う。

それは人にダメージを与えるときがある。
致命傷を与えるときがある。

でもそれだけじゃないんだよね。
物事はいろんな側面を持っている。

やさしくしすぎてダメになる子がいれば、
きびしくしすぎてダメになる子もいる。

おれは今回、元家族との離別という、
けっこうな試練を神様からいただいた。

それはおれに適度なダメージを与えた。
でもそれでおれが潰れたかというとそうでもなく、
こうやって死なずに生きている。

「乗り越えられそうにない」
そう思った時期もあったけど、今はそうじゃない。

時間とともに傷が癒え、
考え方や受け取り方も変化し、
きっと乗り越えられると信じられる。

人間だから、まだまだ揺れるかもしれない。
「もうだめだ」って、なるかもしれない。

人間だから。

そういうの、すごくいいと思う。
おれはすごくいいと思う。
イケてる。
人間として。
めっちゃイケてる。

悲しいことがあって、
すごい困難があって、
それを涼しい顔で乗り越える。

おれはそういう人に憧れそうになる。
そういう人はすごくカッコいいけど、
でも、かわいげがない。

揺れない信念があって。
自分への絶対の信頼があって。
世界を、神を、悪魔を、運命を、すべてを固く強く信じていて。
どんな困難も乗り越えていく。

そういう人には葛藤がないから、
こうやってうだうだ文章を書いたりしないだろう。

達観した人は、きっとなにもしないだろう。
だって、する必要がない。

不完全だから、こうやって悩める。
動ける。文章が書ける。
なにかしようって思える。

人はちょっとバカなほうがかわいい。
バカなおれで、本当によかった。


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