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Paris 1874 印象派展感想(オルセー美術館)

1874年の春、第一回印象派展が開かれ、新たな美術史が始まりました。それから150周年を祝うためオルセー美術館が総力を上げた、今年を代表する展覧会です。

概要

いわゆる「印象派展」ではなく「第一回印象派展とは何だったのか展」であり、極度に1874年に焦点が注がれたものです。確かにモネやルノワールはそれらが始まる前から、いわゆる印象主義的な表現には至っていました。本展は彼らの画業を解き明かすというものではありません。

マネ《内戦(パリ・コミューン)》1871年

まず普仏戦争の敗北やパリ・コミューンの挫折といった、大量死の物語とそれからの復興再生という機運があったという、時代の空気を示します。ナポレオン3世的な時代の美意識に従う必要はなくなり、ある種の画家にとってはチャンスに見えたのでしょう。

カタストロフィが前衛の勃興につながるのは日本の戦後の前衛美術とも重なるところがありますが、それくらいの変化がないと新思潮が表れないというのが、権威のゲームである文化の領域でもあるのかなと再認識します。

スクリーンで当時の展示風景が再現される

反アカデミー、反サロンということでとうとう産声を上げた第一回印象派展ですが、皆が知っているモネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、セザンヌ含めて31人もの作家が参加していました。今日ではほぼ取り上げられない参加画家の作品も展示されています。本展の画期的な部分です。

参加画家たちの集合写真

印象派という言葉は蔑称で後付けであることは有名ですが、新たな美意識を持つ集団の参戦というよりは、反サロンで集まっただけの烏合の衆という感じです。現代人からすれば普通に古典的な表現に思える作品も多々ありました。ほぼアングルやクールベみたいなものも…。

フェリックス・ブラックモン《エラスムス》1863年
アドルフ=フェリックス・カルスの肖像画

まず参加画家のアドルフ=フェリックス・カルと、レオン=ポール・ロベールの間には40歳も歳の差がありますし、ブルジョワ出身のドガやモリゾから、全てを捨ててパリに出てきたピサロまで集まっており、組織としての一体感はほぼなかったでしょう。また反サロンで敬意を集めていたマネは参加を辞退し、エヴァ・ゴンザレスはサロンを終生重要視しました。本展は第一回印象派展の面々の収拾不可能な多様性を、これまでかというくらいに示します。

アカデミーの権威から締め出された連中が、自らの名前を売って商機を得ようとするために打算的に集まった展覧会だったという趣です。絵で食っていくためにはどうしたらいいかという近代芸術家の生々しいリアリティーを感じさせ、脱臭された崇高で先進的な絵の革命家たちという風には、まず思えなくなります。

ルノワール《桟敷席》1874年
モネ《キュピシーヌ大通り》1873〜74年

この展覧会はそこで満足しないで、そんな彼らが敵視した1874年のサロン展に出ていた作品も1ブース使って展示されており、確かに1874年印象派展のモネらの作品と比べればあまりに旧態依然としていて、極めて保守的でグロテスクに思えました。

とはいえ散々「反サロン的な絵画を志向して〜」と文字だけで説明されてきたところを、実際の同年のサロン作品をまとまって展示されたものを観たのは今回が初めてでした。彼らがなぜ新しかったか、という次元ではない、絵画世界の変革がここで起きたのだと鑑賞者に納得させる説得力があります。

展示作品は実際に1874年に並んでいた作品たちですから、いやはやなるほどとしか言えなくなるものばかりです。この展示の文脈で見る《印象 日の出》は、大寄せの印象派展の目玉としてくる展覧会とはまるで異なる趣のように思えました。

モネ《印象、日の出》1872年

ただ第一回印象派展の中の印象派ではない画家や同時代のサロン絵画を再評価したい、というものではなかったのは冷徹です。あくまで参考作品や資料としての価値ですと言わんばかりの、ごく簡潔なキャプションしかありません。

キャプションには太字で1874年印象派展出品作と明示してあります
これとは別に1874年サロン出品のものもあります

複数の未知の可能性があった展覧会で、その中で印象派のみがピックアップされて後に印象派展と呼ばれるようになった、というおめでたいニュアンスはなく、明らかに新旧の志向が入り乱れていた中で、印象派の画家とされる一派はどう見ても優れていたよね、というものです。

もっとセレブレーションな感じかと思いきや、正確に1874年の実像を提示するという、学術的な意志に貫かれた展覧会というものだと思います。

感想

①この年のこのタイミングでしかできない展覧会

はっきり言えば奇跡。印象派の出発点の混沌とした様相をそのまま提示するなどオルセー美術館にしかできない芸当でしょう。個々の画家ではなく、グループとして彼らが何をしようとしたのかを考えると、教科書的な理解とまた違う印象派の実存を垣間見た気になります。

ベルト・モリゾ《ゆりかご》1872年

印象派のみならず、19世紀後半のフランス美術全体の見方が変わるかもしれません。はるばる行ってよかったです。ヨーロッパに滞在している方ならぜひ。

②振り返るべき日本の印象派展の豊かさ

だいたいモネやルノワールらの作品には既視感があり、ここ10年でそれぞれ来日していたのですね。最近では2022年のアーティゾンでのパリ・オペラ座展で観たドガとマネを見かけましたし、他の作品も調べれば概ね来日歴があります。

それぞれ主役級が普通にずらりと配置されているのが本展の凄さですが、日本もかなりの部分受容してるなと思います。日本にいる印象派好きなら本展の半分は観たことがあるのではないでしょうか?(観たことがない残り半分は、言及のない参加画家とサロンの絵画)。そう考えると「また印象派かよ」的な美術関係者の愚痴も、まあまあと宥めたくなります。

③蛇足

第一回印象派展の統括といったものなのですが、最後は今後の展開と称してルノワールの《ムーラン・ギャレット》らが並んでいて、第一回印象派展と関係ないのではと思ってしまいました。確かに第一回の出品作だけだと展覧会を締め括れるような偉大な作品がぼんやりしているため、演出的にそうなったのでしょう。

ルノワール《ムーラン・ギャレット》1876年
第3回印象派展に展示された作品

そこまで私が体験してきた多くの印象派展とは異なるストイックな展示だったので、急に明るくなり脱力してしまいました。とはいえ写真を撮ったりして楽しめたのでいいのですが、そのまま知的にストイックに突き進んで、多少の満足感を犠牲にしても今回は良かったのではと思います。

まとめ

150周年のお祝いムードはなく、むしろ第一回印象派展とはどのようなものだったのかのみに集中したマクロ的な展示でした。写真やジャポニスムすら一切出てこないストイックなものです。新たなというよりはこれまで顧みられることのなかった実像へ冷徹に迫るという、もの凄い意義のある展示だったと思います。

ハッピーな名品展を期待してみると肩透かしを食らうかもしれません。拡張より焦点を明確に限定して絞ったことによる充実度があります。この展示思想は各人学べるところが多いのではないでしょうか。

閉館1時間前だと誰でも無料で入れます。この水準のものを無料で観れてしまうパリ在住者は羨ましいと素直に思いますが、観光スポットでもありますからすぐ隣の常設展の喧騒もあって、じっくり鑑賞するには集中力が必要でしょう。

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