学生に賃金を――学祭トークイベント先行公開資料②

 10月27日(金)14時から、東北大学川内キャンパスC402教室にて「学生に賃金を」をテーマにトークイベントを行ないます。アナキズム研究者でアナキストの栗原康氏とフランス文学者の白石嘉治氏をイベントにお招きし、われわれ学生と議論を交わしていただきます。詳細はこちら

 以下は、そのトークイベントのために作成した資料です。当日、栗原・白石両氏とどのような議論を行ないたいかという指針を示しておく目的で先行公開します。読み上げ原稿みたいになってしまいましたが、あくまで指針です。イベント当日、ご来場の方々には印刷した資料を配布する予定です。資料はのちのち加筆修正する可能性があります。

資料② 学費

 栗原・白石両氏は数多くの機会で「大学は無償であるべきである」と発言して/書いてこられました。それらの文章にも影響を受けつつ、イベントを主催するわれわれは、「学費」を中心に据えて大学について論じてきました。
 学費の存在は次のような問題を生みます。

  1. 学生から労働者としての尊厳を奪う

  2. 教育の機会均衡を損なう

これらの問題を解決するには学費無償化しかありません。
 学費無償化の思想的根拠はこれらの問題に対応して、次のようにまとめられます。

  1. 学生は労働者であるということ

  2. 知は無償であるということ

 そして、学費無償化は可能です。そのことの根拠は次のようにまとめられます。

  1. 他のOECD諸国の水準まで高等教育予算を引き上げれば、私立も含めて大学の授業量はすべてタダになること

  2. 政府が貨幣の発行権を銀行から奪い返せば、いくらでもカネは刷ることができるということ(社会的信用論)


学費無償化の思想的根拠――なぜ学費は無償化されなければならないか

・「学費を無償化すべきである」という主張の根拠は、大まかに次の二つに分類することができるでしょう。

  1. 学生は労働者である。ゆえにその労働に応じた賃金を支払われなければならない。学費の存在は、学生を「消費者」と規定し、学生の「労働」を隠蔽している。学生に賃金を

  2. 知識や教育はそれ自体無償のものである。知は「使えば減る」ものではなく、使うほど豊かになる「共同財」である。

▽根拠①「学生は労働者である。学生に賃金を」

・まず、一つ目の根拠から見ていきましょう。それは、「大学生が大学に行くということはそれ自体「労働」である」ということです。大学生は教育という商品の体裁を保つために労働しているのであって、本来賃金を支払われるべきでさえあり、当然学費を支払う立場ではない。栗原氏が『学生に賃金を』を書くきっかけとなった文章でその筆者である矢部史郎は次のように言います。

 実際のところ、大学生は二重の意味で労働者である。第一に、教育費と教育期間を食いつなぐための生活費を稼がなければならない。本分の研究とはまったく関係なく、無駄な賃労働に従事し、消耗を強いられる。
 第二に、教育という商品が、商品という体裁を保つための不可欠の要素として、大学生は大学生であらねばならない。
 第二の労働には、単に授業に出席するという水準から、そこで語られた内容を覚えること、明るく穏便に振る舞うこと、大学自治の体裁のために忙しく活動することまでが含まれる。大学生たちの持続的な活動と創意と忍耐がなければ、大学生は存在し得ないし、大学は大学でなくなってしまうだろう。

(矢部史郎+山の手緑『愛と暴力の現代思想』p. 114)

・この「二重の労働」に関して、矢部は「第二の労働はそれに付随する諸々の消費を要求し、第一の労働を増大させる」、「女子学生については、猥褻な男性教員や頭のおろそかな男子学生を適当にあしらうというもうひとつの重労働が課せられている」というような重要な指摘もしていますが、とにかくここでは学費無償化の根拠として「第二の労働」に注目することにしましょう。

・大学生は大学に行くことによって、教育という商品の価値を担保している。大学やそこで行なわれていることの権威を担保していると言ってもいいかもしれません。それは、社会が必要としているものを生産・提供し、そのために自らの時間を割いているという意味で「労働」にほかなりません。

・しかし、一般に大学生は労働者とはみなされていません。大学に行くことは「消費」活動であり、大学生は「消費者」とみなされています。「好きで大学に行っているんでしょ」という物言いが前提としているのはこの認識です。仮に「好きで」大学に行っているとしても、それは学生が大学で行なっていることが労働であることを否定するものではありえません。「やりがい」がある仕事なら賃金は低くてもいい、ということにはならないのと同じです。

・では、なぜ学生は「消費者」とみなされているのでしょうか。矢部は、大学生は〝「賃金」を支払われないから〟「労働者」としてみなされずに尊厳が奪われているのであり、〝学費を支払うから〟「消費者」としてみなされ尊厳が奪われているのだ、と指摘します。

 一般に、大学生がどのような境遇におかれているかについて、大学生も大学生でない者も総じて関心を持たない。キャッチセールスやサラ金にむしられたり、バイト先でひどい目にあわされたり、女子学生が男子学生にレイプされたり、学生が教員に殺されたりというときに、そうした被害を受けたひとりの学生に同情が寄せられることは少ないし、さらに学生たち一般の境遇に同情が寄せられることはほとんどない。彼ら大学生は、関心を払うべき同胞として正当に認知されることはない。なぜか。なぜなら大学生は、大学から賃金を得ていないからだ。大学生は大学からカネをとっていない。むしろカネを支払っている。いくつかの例外を除けば、普通の大学は学費を徴収する。大学生は消費者である。だから誰も同情しない。観念的な経済学が一般に信じさせようとしているのとはまったく逆に、現実は、消費者ほど尊厳のない者はいない。一円でも学費を支払ったら、もう人間以下。学費が高額になればなるほど、受ける扱いはひどくなる。大学生が学費を支払わされ、消費者と見なされている間は、彼らへの虐待と搾取は看過され続けるだろう。

(矢部史郎+山の手緑『愛と暴力の現代思想』pp. 114-115)

・〝学生は消費者だから〟代金として学費を払っているのではなく、実際には逆に、学生は〝学費を支払っているから〟消費者とみなされるのです。

・ここまでは、「学生〝は〟賃金を支払われるべきだ」という議論として「学生に賃金を」をまとめましたが、このスローガンは「学生」という固有の「職業」を超え出ていきます。つまり、従来労働として位置づけられていなかった「大学に行くこと」を労働として捉え返す「学生に賃金を」の論理は、労働として位置づけられてこなかったほかのものにおいて反復されることで、「○○に賃金を」という主張を無限に導き出すことができるのです。というより、そのような反復の一形態として、「学生に賃金を」が存在しているというべきでしょう。

・このような反復が可能になった背景には、社会の「工場」化があります。

 さて、「学生に賃金を」はこうした[68年イタリアの]学生叛乱のなかで提起されたわけだが、その理論的根拠になったのは、1960年代のオペライズモであった。オペライズモは、労働者主義という意味で、当時のイタリア左翼に共通の言葉であり、共産党系の知識人から新左翼の活動家にいたるまではばひろく共有されていた。なかでも、キーワードとなったのが、マリオ・トロンティやアントニオ・ネグリによって提起された社会工場という概念である。社会工場とは、文字どおり社会全体がひとつの工場になったことを意味している。こんにちの資本主義の支配は、工場や会社のオフィスのようないわゆる生産の領域にとどまらず、再生産の領域にまでおよんでいる。というか、そうしなければもはや資本主義がなりたたなくなっている。たとえば、工場の生産活動がなりたっているのは、再生産の領域でいそがしい家事をやりくりする女性がいるからであるし、高度な先進技術をまなばされてきた学生がいるからであるし、いつでも安くてキケンな日雇い仕事をひきうけてくれる失業者がいるからである。みんながみんな四六時中、社会工場ではたらいている。はたらきすぎだ。
 学生も、失業者も、主婦も、みんな社会的労働者とよぶべき存在である。しかも、みんなおもむろにタダ働きをさせられている。搾取だ。なんで、女性は夫の世話をさせられ、子どもをそだて、ときに親の介護をさせられているのに、カネがでないのか。なんで、学生は仕事のためにつまらない勉強をさせられているのに、カネがでないのか。なんで、失業者はいつでもどこでもはたらきにでられるように、苦しいおもいをして食いつないでいるのに、カネがでないのか。おかしい。

(『奨こわ』pp. 36-37)

・資本主義の支配が浸透していくにつれて、同時に労働として名指しなおすことのできる領域も広がっています。そして、いまやその支配領域は生活全体に及んでいる。ということは、言ってみれば、もはや生活していること、生きていることそれ自体が労働なのです。そうであるならば、われわれは労働者として正当な賃金を支払われなければなりません。ここにおいて「学生に賃金を」はベーシックインカムの思想的根拠でもあります。

アウトノミア運動で主張されたのはまさに「労働力という概念の粉砕」であり、家事労働や学生生活への賃金のみならず、ひろく「社会賃金」という呼称でベーシックインカムの要求がみられた。資本は生の営みを賃金によって生産と再生産に分割する。支払われるのが生産であり、支払われないのが再生産である。それゆえ資本との闘いは、この分割を取り払うことからはじまる。「社会賃金」の名のもと、無条件かつ普遍的に賃金を要求することで、いわば「あらゆる種類の、雑多で非-並行的な生産の流れ」の全面的な肯定が目指されたのである。

(『不純なる教養』p. 172)

▽根拠②「知は無償の共同財である」

・学費無償化の二つ目の根拠について。これは、「知識や教育はそれ自体無償のものである。知は「使えば減る」ものではなく、使うほど豊かになる「共同財」である」というものです。

・共同財について、白石氏の引用するラッツァラートは次のように述べます。

 このような財は、タルドによれば「触れたり、所有したり、交換したり、消費したり」することができる政治経済学的な財とは異なり、「知ることはできるが、所有することも、交換することも、消費することもできない」ものとしての財である。共同財は、さまざまな主観性の協同による共同的創造と共同的実現の結果である。それが所有できないものであるのは、ある共同財(認識、言語、芸術作品、科学など)が、たとえある人物によって入手され、数多く蓄積されたとしても、それらは彼の「独占的所有物」とされるべきではなく、その特徴からして分有されることに正当性を認めるべきものだからである。

(マウリツィオ・ラッツァラート『出来事のポリティクス』p. 170, 『不純なる教養』p. 66から孫引き)

・白石氏がまとめるところによれば、認知資本主義と呼ばれる今日の資本のあり方は、もはや有限な物質の交換に根ざすのではなく、人間の非物質な能力に照準を定めています。

・しかし、認知資本主義が「交換」の論理に乗せようとしているこの知という「共同財」は、その性質からして「交換」という経済の原則になじまないと白石氏は主張します。

「経済学」の「財」は希少性によって規定されているが、「共同財」はたとえ万人に無償で提供されても消失することはない。ネオリベラリストたちが語る「コモンズの悲劇」(入会地の牧草の消滅)は起こらないのである。

(『不純なる教養』p. 68)

[…]非物質的なものを交換財とみなす認知資本主義は、まさにそのことによって理論的な欺瞞をかかえる。そもそも交換が成立するためには、まず何かを失わなければならない。その代価として別の何かをえる。こうした交換のプロセスは物質的なものについては妥当するだろう。だが、われわれが語り愛し合うときに、いったい何が失われているというのか? いわばタルド的な模倣と伝播が生じているだけであり、この意味で非物資的なものは、厳密には市場の交換のロジックとはなじまない。だからこそ認知資本主義は、新自由主義の教説と連動したコミュニケーションのプロパガンダなしにはありえないだろう。

(同p. 176)

このように「共同財」はそれ自身の性質から無償であり、ゆえに「共同財」である知識や教育も無償でなければならない。そして、知識や教育は使えば使うほど豊かになる。これは、認知資本主義が知識や教育を無限の富の源泉として見出す所以でもある。

・栗原氏は『奨こわ』において、この「共同財」という観点からも改めて「学生に賃金を」というスローガンの意義を語っています。

 ほんとうのところ、「学生に賃金を」というスローガンをつかう意義は、この共同財の存在に気づくということにある。教員だけがただしいことをいっているわけではない。教員がしゃべったことを、あるいはそれとはぜんぜん関係ないことを、学生たちが好き勝手に解釈していく。そこに優劣はない。ほんとうにクズみたいなことをいう教員も学生もいるだろう。でも、それはそれで徹底的に侮辱してやればいいだけのことだ。自由闊達、よし。しかも、すごいことにこの発想からすると、知識という共同財は、大学という場所もこえていくことになる。家でゴロゴロしていたって、路上でタバコを吸っていたって、電車にのっていたって、友人と酒を飲んでいたって、恋人とデートをしていたって、みんななにかしらものを考えているのだから、どう考えても、そこに区別は存在しない。大学教員にカネがでているとしたら、家でゴロゴロしているひとにも、タバコを吸うひとにも、デートをしているひとにもカネをしはらうべきだ。ここまでくると、労働の対価として「賃金」がほしいといっているのではないのだとおもう。共同財にカネをよこせ。役立たずにベーシックインカムを。

(『奨こわ』p. 52-53)

・教員であれ学生であれ、「共同財」である知識の蓄積に触れることで何かを生み出していくのは同じことであり、その点において知性は誰においても一様に働いている。そのような意味で知性が平等であるならば、誰もが教員になりえ誰もが学生になりうるような「循環的共同性」こそが、知識や教育をめぐる状況の本来のあり方であり、いまの大学で失われているものです。「学生に賃金を」というスローガンは、自分たちと同じように知性を働かせているにすぎない教員と対等の賃金を要求することにより、「循環的共同性」を切断する階層秩序に対する疑義へともつながっていくのです。

▽学費は〝無条件で〟無償であるべきである

・上で確認してきたように、学生は労働者であり、同時に学生たちが扱う「共同材」は使えば使うほど豊かになるものです。ここに、知へのアクセスを拒む理由はありません。ゆえに、学費無償化は無条件であるべきです。しかし、学費無償化の議論は、この〝無条件〟性をめぐって批判にさらされてもいます。

・近年、特に2008年のリーマンショック以後、経済的な理由から高校を中退する学生が増えてきたことを受けて、2010年から高校授業料の無償化が始まりました。この高校授業料無償化法案に対して厳しい批判が向けられましたが、栗原氏は『奨こわ』で、この批判にはおおまかに言って次の二つのポイントがあると分析しています。

  1. 手をさしのべてもいいのは、ほんとうに生活に困っている家庭だけだ

  2. 拉致問題で対立している「北朝鮮」との関係が深い朝鮮学校は、高校授業料無償化の対象に含まれるべきではない

・一つ目について。これは、「手をさしのべてもいいのは、生活に困っている家庭だけ」だ、財源のことを考えても、裕福な家庭にまで税金を投入すべきではない、という批判です。

・これに対し、栗原氏は「高校授業料の無償化は福祉ではない」と主張します。

[…]ここで確認しておかなくてはならないのは、高校授業料の無償化は福祉ではない、ということだ。大学生にしても高校生にしても、授業料をはらわなくていいのは、かれらが貧しくてかわいそうだからではない。学生たちは授業をうけているその時点で知的活動をおこなっている。かれらはとうぜんそのわけまえとして授業料をもらうのであり、それ以上でもそれ以下でもないのである。親が金持ちだろうと貧乏だろうと、もらうべきものはもらうべきだ。だから、よく考えてほしい。かりに授業料をはらえたのにはらわなかった親がいたとして、それがどうかしたのだろうか。そもそも、親が授業料をはらってきたのがおかしい。むしろ、これまで授業料をはらってきた親たちが、返還請求をはじめてもおかしくないはずだ。

(『奨こわ』pp. 59-60)

・ここで想起しておきたいのが、白石氏のいう「犠牲の累進性」です。白石氏は、ネオリベラリズムが「真の犠牲者」とは誰かを問うことによって、遍在する問題を捨象し、社会保障を切り縮めていくことを指摘します。

[小説家・笙野頼子のエピソードを受けて]こうした「犠牲の累進性」が、ネオリベラリズムの典型的なレトリックであることに注意すべきだろう。「真の犠牲者」について多言を弄しつつ、社会的な保障の対象となる領域を可能なかぎり縮減していく。そこで置き去りにされるのは、「女性が女性である故に感じる差別や違和感」というような、けっして特殊な表象として処理できないような遍在しつつ特異である経験である。

(『不純なる教養』p. 130)

・白石氏は、上に引用したのとは別の場所で、「大学の授業料が高いと言うと、もっと大変な人、たとえばフリーターがいるだろうと言われる。[ネオリベラリズムは]そういう形で犠牲を累進させて、問題を少数者の特殊性へと囲い込んでいく」とも述べています(岩崎稔・本橋哲也編『21世紀を生き抜くためのブックガイド』p. 188)。

・高校授業料無償化に対する批判の二つ目について。これは、拉致問題で対立している「北朝鮮」との関係が深い朝鮮学校は、高校授業料無償化の対象に含まれるべきではない、というものです。このような批判を受けて、実際に、政府は朝鮮学校を2010年の段階では無償化の対象から除外してしまいます。この時点では、朝鮮学校を無償化の対象とするかどうかの最終判断は法案成立後に第三者評価機関を設置し、その後に下すということにされていましたが、2012年に第二次安倍内閣が発足すると早々に朝鮮学校は無償化の対象から外されてしまいます。

・これに対し、栗原氏はまず、たとえ「北朝鮮」が暴力団だったとしても、暴力団員の子どもが教育にアクセスできない理由はどこにもない、と批判したうえで、これは外国人学校全般にかかわる問題でもあるということに注意を促しています。授業料無償化からの朝鮮学校の排除は、財政赤字の日本の税金が外国人に使われることへの根強い反感が、いちばん叩きやすい朝鮮学校に対して集中したものである、と。そして、そもそも知識や教育は、つかったら減る「税金」のようなものではなく、つかえばつかうほど豊富になる「共同財」である、ということの確認を栗原氏は促します。

学費無償化の現実的根拠――学費無償化は実現可能か

学費は無償化できるかどうかに関係なく無償化しなければならないものであって、われわれは、「日本経済」のような「現実」(誰が何を根拠にこれを「現実」と認めているのでしょうか?)の説得に応じることなく、学費無償化を主張していかなければなりません。とはいえ、学費無償化が実際に可能なのかどうかというのは気になってしまうところです。そのことを考えるにあたって二つのポイントがあります。

・ひとつは実際の額です。栗原・白石両氏によると、私立大学も含む全国の大学生が「授業料」として払っている額の合計は約2兆5,000億円であり、これは日本が高等教育予算のGDPに占める割合を、現在の0.5%から、他のOECD諸国と同様の1%へと引き上げることで賄うことができる額です。「ふつうの国がやっているくらいのこと」をすれば、日本の大学の授業料は、私立も含めてすべてタダになるのです。(『奨こわ』pp. 55-56, 『不純なる教養』p. 20)

・しかし、その「ふつうの国がやっているくらいこと」をするだけの財源はない、という反論が出てくることが想定されます。これに対して栗原氏は「政府がじゃんじゃんカネを刷ってしまえばいい」と言います。

 だが、それでもわからずやたちは、こういってくるだろう。「おまえは日本の国債がいくらだか知っているのか、1,000兆円をこえているんだぞ。こんな借金まみれの状態で、どこにカネがあるっていうんだ。また増税でもしろというのか」と。ああ、めんどうくさい。わたしなどからすると、すでに1,000兆円も借金をしているのだから、毎年2兆円だか3兆円だかを借金したところで、べつにどうってことないじゃないかとおもえてしまうのだが、そうおもえないひともいるらしい。じゃあ、どうすればいいのか。たしかに増税はいやだ。消費税にしても所得税にしても、なんにしたって税金をとられるのはいやなのだ。税金、どろぼう。わたしはいま率直にこうおもっている。なにもいわずに、政府がちゃちゃっとカネを刷ればいいのである、と。

(『奨こわ』p. 56)

・ここで出てくるのが学費無償化の実現の第二のポイントである「社会的信用論」です。これは、貨幣の価値は金などのほかの価値ある物質に担保されている「商品貨幣論」に対し、貨幣は負債/信用を担保としていると主張する「信用貨幣論」に基づいています。栗原氏が引用する関曠野は、政府が銀行から貨幣発行権を奪い返して、政府がその信用のもとに貨幣を発行することを主張します。その信用は、その貨幣を税金として徴収する国家権力によって調達されます。国家が税金としてそれを用いることを法で定め、それを徴収することにするのであれば、それは「税金を払うことができる」という価値を持った貨幣になるのです。

(了)

配布資料一覧
「アナキズム・脱構成・ユートピア」
②「学生に賃金を」
「原子力体制」
「いまの大学を取り巻く問題の背景について」

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