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「前へ進めじゃ、レミ」by ビタリス座長

20代の頃、どうしてもどうしてもその土地に行きたくて、全く縁もゆかりもない土地で約 3 年暮らしたことがありました。

「そこに住み続ける」という当初の望みからしたら、結果は失敗。

でも、そんな「阿呆」としか言いようのないことは、それから倍以上も生きている今ではとてもできないことなので、それをやった自分には「いいね!」と思うし、

・そんなことする必要ないでしょ、と思いながら見守ってくれた身内
・「何こいつ、○○も読めなくて、ほんとにここにいるつもり?」とか思いながらも、日々一緒に過ごしてくださった職場の方々

には、本当に「脱帽」。(○○は、地元の人じゃないと読めないような地名。よそ者判定の効果抜群!)

そのときは、理想と現実のギャップに日々うちのめされ、生活していくのに必死だっただけですが、こうして振り返ると、そんな「阿呆」なことでも、やっぱりやってよかったな、と思うのです。

それはなんといってもまず、やったことによって、

「あのときやっぱりやっておけばよかった」と思うことが無い!

からです。

傍から見たら「理解不能」で、当人も決行に迷いがあるようなことって、必要無いことなら、最終的にはやらない方向に舵を切っている、と思います。

でも、やる方向に舵を切った。

それだけ、思い切ったことをするにはエネルギーを必要とするわけで、往々にして当初の思い通りにはいかないにしても、それは自分の人生の流れ的に、どうしてもそこを通るように仕向けられているかと思うほどの、重要な一幕なんだと思います。

さらに、今はこんなふうに「周りの人の理解があって初めて実現できたことだ」と、他者も含んで振り返っていますが、そのくらい落ち着いて振り返るようになるまでには、だいぶ時間差があるものだとも思います。

そんなぐらいのこと、そこまで他人に迷惑をかけるようなことをしなくてもわかるだろ

的なご指摘もあろうかというところですけど、それがわかる状況ならばそもそもそんな行動には出ないわけで。

こうしたことは、頭でわかるのではなく、体感的にわかることが、その状況からその先を生きていくためには大事なんだろうと思います。

・あのときのあんな自分を受け止めてくれていた人たちがいたこと
・つまり、自分が勝手に「今の自分ではダメだ」と思っていただけで、「いやいや、あなたはあなただからさ」と、「何ものでもない自分」はとっくに受け入れられていたということ

今は、「ああ、そうだったんだな」と思うけれど、そのときは、全く気づくことができない。

とかく、自分で自分を受け容れることができないときには、起こりがちな盲点だろうけれど、ただそれはやはりことばで聞いてもわかるものではない。

よくも悪くも、それまでの自分を叩き壊すくらいの行動に出て、そのことを少し引いて眺められるくらいになったとき、

あ、なんだ、自分は自分なんだ

と「自分が」思えるようになる。そして、地に足がついたとでも言うような感覚と共に、やっと他者と共にある自分というものが「わかる」んだと思います。

まあでも、それは 100 % の理解というようなものではなくて、ようやく「そちら側からも」ものが見えるようになる、くらいの感じです。

だから、若いうちはその辺のバランスの取り方がうまくいかなくて、また悩んだりもするけれど。

自分も他者も共に肯定される、自分なりのさじ加減でいいんだ、と「いい意味でアバウトに考えられるようになる」のが、年を取るということなんだろうな。

(これは決して安易な妥協というわけではなく、
・そんな完璧を目指したら息苦しくて生きられないよ
・だって神様じゃないんだし
という、衆生としての「生きる知恵」です( ̄ー+ ̄)キラリ )

で、いつになったらビタリスさん、出てくんの?

前置きが、すでに本題と化してしまいましたが、今自分はそんな「安易な妥協(否、生きる知恵!)を覚えた」いわゆる大人なんでしょう。(自覚はないけど)

最近、ビタリスさんの

「前へ進めじゃ、レミ」

が、頭の中でエコーすることはとんと無くなっていましたが。

・自分で自分を受け容れることができなくて
・だから、知らない土地で誰にも本音を打ち明けられなくて
・テレビやラジオくらいしか自分を癒してくれるものがなくて

というのが、約 3 年の「憧れの」地での私の暮らしぶりでした。

ちょうどそのタイミングで、自分が見れる時間に再放送していたアニメ『家なき子』の中で、小さな旅芸人一座の座長、ビタリスさんがいつも言うことばが、これなんです。(レミが男の子の、古い方の「アニメ」です。ドラマの方ではありません。)

旅芸人という立場で、主人公レミ含む一座は、これでもかこれでもかと困難なことに遭遇しますが、そんなときにビタリスさんは、

「前へ進めじゃ、レミ」

と言って、歩き出す。それを、レミ、追いかける。

何でも、すぐに解決なんてしないし、なんだか変わらず同じことをぐるぐると思い悩んでいるようだけれど。

どうでもいいやと思えば、そもそも悩んだりしないんだし。

考えているってことは、「前に進もうとしている」ってことで、実際に少しずつでも進んでいるか、「ある日バーンと堰を切って推進力となる」エネルギーをためているか。

いずれにしても、前進している。

それでいいんだよ、って思えることばで、当時の支えだったな、と思い出しました。

なぜ今思い出したかというと、この頃の note での「読み」活動の中で、特に、若い方々が書かれているものを読んでいたら、

聞こえてきた!

んです。

そうはいっても、note の書き手の方々が、それぞれの人生の中で迷い、悩みながら前に進もうとされている、それぞれの道を思うに、20 代の頃の自分の悩みなんて大したことではなかったな、と思うし。

どんなふうにしても、他の人間がその人のことを「わかる」なんてことは、そんな気がする、の範囲だと思います。

だって、
・そもそもその人自身にだってわからないのが自分なんだし
・完全一致しちゃったら、クローンだって!

だから、まったくもって、的はずれかもしれないけれど、私にもこんなことがあって、そのときはこんなふうだったよ、ってことで書きました ^^


▶▶▶▶▶ 以下、蛇足です(まだ、書くんかい!)

本当は今、今まで「スキ」を付けさせて頂いた note がだいぶたまって、「これ、ダーッと出てくるというだけの状態じゃ、すっごく宝の持ち腐れ」と思い、なんかうまく「もっかい見よ」ができる方法はないかな、と悩み中でした。(タイトル画もそれをつぶやくだけ、のつもりのもの)

もうじき 50 代にもなろうかという人間の悩みは、どちらかと言えば、

チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱ってもらえば

背筋もシャンとする、という程度のものです。

でも、人生 100 年時代ということになれば、まだ私にも、ビタリスさんの声が聞こえてくるようなことがあるかもしれないし。

若い人の声が聞ける、というのはいいことですね ^^