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ベトナム志士義人伝シリーズ⑬ ~陳福定(チャン・フック・ディン、Trần Phúc Định)~

 1918年に上海で秘密刊行されたという『越南義烈史』
 1936年『2.26事件』で、青年将校の思想的リーダーとされ死刑になった西田税(にしだ みつぎ)氏は、大正13(1924)年の自伝書『戦雲を麾く』の中で、陳福定(チャン・フック・ディン)の遺児から此の書を贈られたことを書いています。

 阮(グエン)朝皇族クオン・デ候の親書を携え1905年横浜に到着したベトナム抗仏志士潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、日本の政治家犬養毅(いぬかい つよし)氏柏原文太郎(かしわばら ぶんたろう)氏らから援助を受けて、愛国出洋運動=東遊(ドン・ズー)運動を起こしました。 
 そして、この運動で渡日した留学生の中に、ひと際目を引く可愛らしい小学生の兄弟がいました。それが、陳福定氏実子、陳文安(チャン・バン・アン、陳希聖)と弟の陳文書(チャン・バン・トゥ)。
  祖国民族の奴隷解放の為、東遊運動に邁進する決意を固めた陳福定(チャン・フック・ディン)氏は、二子を連れて渡日して、それ以後一切の事ベトナム皇族のクオン・デ候に預けたのです。
 
 フランス植民地だった当時のベトナム国内で、反フランス運動である東遊運動に身を投じる行動は、体制側から見た反体制者、国家転覆を謀る天下のお尋ね者、捕まれば即死刑、或いは流刑、投獄という重大犯罪人になることを意味しました。
 横浜で2人に別れを告げ、祖国へ引き返して行く父の背中を見送る文安(バン・アン)少年と文書(バン・トゥ)少年は、祖国にはもう自分達の帰る家が無くなったことを理解していたと思います。

 ですからこの兄弟は、フランス政府の圧力に屈した日本政府がベトナム人留学生の解散・国外退去令を発した後でも日本に残りました。
 当時の衆議院議員柏原文太郎氏が2人を自宅に引き取って我が子の様に慈しみ、幼い兄弟は柏原夫妻を”お父さん、お母さん”と呼んだと日本側の史料に残っています。

 兄の陳文安(チャン・バン・アン)少年は、その後も勉学に励んで早稲田大学に進みました。
 1936年には天津市行政府の外交課長、1940年にはベトナム復国同盟会外交部長兼広東駐在代表として駐南寧の第五師団と直接交渉を行い、仏印進駐の先鋒となったドンダン・ランソン進攻で日本軍の先導役を務めた約3千名の部隊-『ベトナム建国軍』を創設した、建国軍の総責任者です。

 一切の名誉を捨て、我が身と我が子を体制反逆者に投じた陳福定(チャン・フック・ディン)氏
 ベトナム近代革命史の中で、西洋植民地からの解放・革命運動成功に導いた運動初期に於ける最大の功労者の一人に間違いなく。

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 天が禍を我が国に下して、主人を奴隷に、奴隷を主人の座に交代させたとき、その禍を懼れて、ただただ安穏で居たい者どもは、膝を折って仇(フランス人)に仕え、時流の波に乗るばかり。
 激流の中で崩れず動かぬ砥柱の山にたとうべき人物が、どれだけいたか。

 我が同志陳福定(チャン・フック・ディン)は、強権圧制のもと、大義を堅持して時趨を逐わず、まことに鉄中の錚々、節操高きお方であった。

 公、字は知止、永隆(ビン・ロン)省平富総(ビン・フ・トン)の人。
 丙午丁未の間(1906-1907)、会主
(=クオン・デ候のこと)出洋の報は全国を震動した。続いて、「普ネク六省二告グルノ文(=クオン・デ候の書いた『普告六省ノ文』)」が南坼に広がった。
 公は言った。
 「皇族が東遊した。光復の大業を興すお方が現れた。荘士功を立つるは今この時、なんと嬉しいことか。」

 南部の父老20余人と出洋団を組織し、送り出す人材を選び、学資募集に送金作業と、これは救国の基礎作りだ、新しい学問知識の輸入だと、愛国出洋運動(=東遊運動)の拡張に専念した。
 揚句、自分が率先せねば諸人を励ますことにならぬと、思い至った。

 戊申の年(1908)の2月、福安(=陳文安(チャン・バン・アン)、兄)、玉書(=陳文書(チャン・バン・トゥ)、弟)の二子及び学生10余人を引率して、日本に渡った。 

 会主に会って吾が志を言い、東京を去る時二子に向かってこう言った。
 「二人の身は国と会主にゆだねた。これから起きる一切の労苦に耐え忍び、学業に勉励め、国家に貢献の人となれ。父のことを念ってはならぬ。『国ノ為二家ヲ忘レ、君ノ為二、身ヲ忘ル』
 この昔の人の言葉を銘記せよ。これに反えたならば、もはや我が子ではないと思え。父はお前達とは再び会わぬ、ただ死あるのみ…。」
 その場に居た20数名の留学生達は、皆ただただ泣いた。

 帰国した公は、益々奔走尽力、60余人の留学生を送り出した。
 しかし、庚戌の年(1910)3月に運動が漏れ、公は捕縛された。フランス法廷の訊問に、公は一切答えない。獄に入れられるが、この時の大掛かりな反体制者の捕縛入獄事件で世間が不穏となり、騒乱を怖れたフランスは、慌てて公を保釈した。

 公の愛国心は、この後以前にも増して激しくなった。
 各地を隈なく往来して、運動を鼓舞し続けたが、辛亥の年(1911)5月、党の密会に出席するためフランスが敷いた包囲網を避けて酷暑の悪路を歩み続けて10余日、高熱を発して某同志の家で没した。
 時に年45。

 その身は死んだが、公の丹(赤)心は凛然と万古に生きている。
 他日わが国が再建のとき、その功跡と芳名を永遠に伝える記念の碑を、必ず祖国に打ち建てようぞ。

 珠玉憐君委刼灰  憐れむべし珠玉(二子)を君 
           兵火に委ね
 平生荘志挟風雷  平生の荘志 風雷を挟む

    ー陳国維(チャン・クオック・トアン) 弔詩より抜粋ー

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  1975年以後のベトナムでは、革命運動を起こしたクオン・デ候革命同志らの名がベトナム社会・教育・歴史の場から消え、虚作歴史話が飄々として未だ表舞台に罷り通っています。
 我が身を殺しあらゆる艱難辛苦に耐えた先駆者たちのその屍の上に建てた虚飾の砂城が、永く続く道理は無いにも拘わらずに。

 「他日わが国が再建のとき、その功跡と芳名を永遠に伝える記念の碑を、必ず祖国に打ち建てようぞ。」

 平和になった今なら、外国投資を呼び込んでウハウハの現在のベトナムなら、祖国解放の犠牲になった”本物の抗仏志士記念碑”を建てるお金位あるでしょうと思うけれど、現体制は絶対にしない。

 祖父や父らが固く閉ざした仏領インドシナ史のパンドラの箱を開けてしまって、何故どうして自分が今の地位にあるのか知るのは怖い。そして、万一でも現在の自分の地位が夢如と雲散霧消するかも知れない恐怖など、生まれた時から一般人より上に在り、苦労した経験など皆無の今の2世3世らにとってはきっと耐え難いものなのでしょう。。。
 
 
 

 

 
 

 

 
 
 

 
 

   

 

 


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