「安南民族運動史」(3) 

 「明治21年、ハム・ギ帝は敗れて捕られ、アフリカの仏植民地アルジェリアに流されてしまった。この間フランスは勤王軍の抵抗に苦しい目をみせられていたので、懐柔策を試みるようになり、明治18年には民政を布いてポール・ベルを任命し、人心鎮撫の方策を実行させた。ベルは、越南王室内で外夷によって身を保とうとする分子の糾合に努め、官人のうちから皇帝の名によって「忠順」なるものを選ばせ、これに「経略(キン・ロク)」という官名を與て東京(トンキン)に駐在させ、フランスに協力して人心の安定に奔走させた。」

 「しかし、各地では依然として義軍の勢が盛んで容易に鎮圧すべくもなかった。フランスは、経略その他自己の走狗となる越南人を駆使して徹底した惨虐な殲滅策をとり、行政組織網を挙げて弾圧に精力を集注した。
 ひとは秘密警察の適例としてあれこれ例を挙げるが、その事例よりも更に強力な密偵網は、昔も今も印度支那(インドシナ)に張り巡らされており、全く土着民は窒息状態に陥っている。この弾圧策は、既に遠く極く初期の民政時代から行われているフランス伝統の異民族統治策である。」

 「明治28年前後になると、越南の義軍は漸く力を失って、征服者の前に屈服するの已むなきに至った。殊に有力だった乂安(ゲアン)及び河静(ハティン)の潘廷逢(ファン・ディン・フゥン)が捕えられて首を刎ねられた。十数年の間、苦汁を嘗めさせられたフランス当局者は、ただ敗将の首を刎ねるだけでは納まらず、その一族郎党を連座させて処刑し、家屋敷を焼き払い、そのうえ彼らに縁のある村までも焼却して村人を殺し或いは四散させた。かような無残な犠牲となった村及び村人の数は枚挙に遑がないほどであった。しかも此のフランスの蛮行の手先となったのは腐敗した亡国階級者たる官人連中及び帝室そのものであって、フエ亭室は越南刑法をフランスの利益になるように改正し之を励行した。」


 「フランス人は、欧米の政治的性格たる個人主義民主政治を政治上の公理としている。この政治によってのみ秩序が保たれ、これと異質の政治精神による国家は無秩序であると断定して憚らない。故に千年の永きに亘って東洋政治原理の一である儒教精神を支柱として国家を営んで来た越南国民に対して、強圧力を以て西洋政治精神を実践し、土着民の伝統的な政治精神と組織とを破壊し、土着民の政治上の発言を阻害した。これによって先ず叙上の如く勤王軍の蜂起に悩まされたのであった。」
 
「一般民衆に対して、西洋社会の生活原理たる個人主義精神に基く政策を強行し、更に貿易の独占によって、土着民の必需品の輸入を禁止し、苛酷な租税及び強制労働を賦課して勤労大衆を極度の貧困に押し込め、酒、塩の専売によって大衆の必需品を間接税徴収の要具としてしまった。越国の民は此等の租税のため、一年に平均一カ月間の全収入を徴収されている有様である。
 
 「先には、言わば越国社会の上層部が、皇帝が擁護する勤王軍の義軍が展開されたに過ぎなかったのが、次第に攘夷の志念は下層階級のものまで之を懐くようになり、反フランス的運動は真に民族開放運動たる正確を帯びて来たのである。勤王軍は、相次いで壊滅の悲運に陥ったが、帝室を中心とする祖国恢復の熱望は毫も衰えなかった。」


 「この機運を更に高めるのは、フランスが同慶(ドン・カイン)帝を擁立し、越国官人を懐柔して帝威を軽からしめた行動であり、さらに又、咸宜(ハム・ギ)帝を継いだ成泰(タイン・タイ)帝を軟禁状態に置いて、益々激しい圧制政治を強行したことであった。そして、フランスは明治40年に成泰帝を退位させ、その第4子である維新(ズイ・タン)帝が第11代皇帝に即位させる。この事件は越南の知識層を大いに怒らせた。成泰退位の横暴、及び その子供に、外夷に逐われた父帝の位に就けたのは、儒教精神を破壊するものであると憤慨せざるを得ないと、孝道に反する行為をなさしめる外夷の蛮行に激しい憎悪を感じたわけである。首府フエを中心として越南の民族主義者は反抗運動を展開し始めたのである。」




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