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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(11)

『ベトナム光復軍』
  → 「中国各地の軍事学校を卒業後、中国部隊に入隊して実施訓練を受けたベトナム同志等を中心に光復軍編成をした。」   『潘佩珠伝』

『光復軍方略』
  → 「全書百余枚、表紙に国旗と軍旗の交叉した絵を描き、内容は⑴光復軍の主義と目的、⑵軍規、⑶編成、⑷職員及びその俸給、⑸実行予定計画の五章より成っていた。」         『潘佩珠伝』
  → この時ファン・ボイ・チャウらが決めた国旗(黄地に赤星)と軍旗(赤地に白星、或いは金星)に関しては、神谷美保子氏著「ベトナム1945」の中で、1945年8月25日のサイゴン市内で現地に駐屯していた日本軍の大佐らが見た、この旗に関する妙な状況が書き残されています。

『天下無難事、只怕有心人』
  → 中国の古典小説『紅楼夢』の一節

『苦力(くーりー)』
  → 昔から、中国或いは東洋各地の下層人夫・下層労働者のことをこう呼んだそうです。

『牧老蛑(マイ・ラオ・バン)』
  → 「中部ベトナム出身。天主教の修道士。著作に詩集「老蛑普勧詩」がある。」          『ベトナム人物人名辞典』
  → 「1908年2月『全ベトナム・キリスト教徒代表兼維新会教徒代表』として青年学生十数名を連れて香港経由で日本へやって来た。その後何度も逮捕投獄され苦節の人生を歩んだ。」      『潘佩珠伝』

『同志たちによる爆弾投下』
  → 「1912年暮れ頃から、潘佩珠らの光復会同志らによる爆弾投下事件がベトナム北部、中部、南部で連続して起こった。」 『潘佩珠伝」     *この時の爆弾は、前述の中国人革命家陳其美に貰ったもの。

『(仏印)警察』
  → ファン・ボイ・チャウは、この警察の事を『フランス人の巡警兵を「魔邪兵(マータ―ビン)」といい、密偵兵を「密魔邪兵(マットマータービン)」だと説明しています。   『ヴェトナム亡国史』

『人頭税』
  → 「人頭税は、公捜銀といい、成年男子一人につき毎年二元二角である。また労役税は公益銀といい、成年男子一人につき毎年八角である。従って、一人の壮丁は、年に三元収めることになる。それぞれの公捜銀に対し、仏人は証明書を発行した。その証明書は、青、赤、黄の三種類があり、黄色は免税証、赤は納税証、青は外籍証である。」 
                                                                       『ヴェトナム亡国史』

『政府発行の票』
  → 「姓名、年齢、本籍が仏語で記載され、仏当局の印が押されたもの。フランスの巡警兵に不携帯が見つかると脱税の罪で重罪に処された。」   『ヴェトナム亡国史 他』より

『ピアストル』 
  → 当時のフランス領植民地通貨単位

『チョロン市内』 
  → 現在のホーチミン5区辺りの古くからの呼び名。現在に至るまで大きな中国人街を中心に街が形成されています。 ベトナム語は「Chợ Lớn(チョ・ロン)』と書いて『 Chợ=市場』『 Lớn=大きい』、要するに『大きい市場』という意味で、私もずっとそれが語源だと思っていたんですが、古い文献には『堤岸』と書いて『ショ・ロン』と読み仮名が着いています。古来の語源はもしかしてこちらかも知れません。。。大東亜戦争中1940年頃からの日本軍平和進駐期に、このチョロンに陸軍病院があったそうです。

 『美湫(ミトー、Mỹ Thơ)』
  → 現在のベトナム南部ティエンザン省(Tỉnh Tiền Giang)の省都ですね。メコン川クルーズなどの観光メッカです。確か『象の耳』という名の魚のから揚げ料理が有名なレストランがありました。。『フ―ティゥ, Hủ Tiếu』というスープ緬も名物でした。。。今から30年前位に食べたベトナム料理は本当に何でも美味しかったです。今は何處も観光化してしまって、なんでも高い…、値段が高過ぎますね!! 

『多数の正規兵と訓練兵』
  → フランス植民地政府の正規軍とその訓練兵に雇用されたベトナム人職業兵士のことを指していますね。仏印軍の内実7-9割(書籍により数字はまちまち)が、現地で雇用されたベトナム人兵士だったということです。自国民同士で殺し合う…実際考えるとなんとも恐ろしいことです。

『訓練生詩』
  → ファン・ボイ・チャウが作った詩。『ベトナム亡国史』に載っていました。原文は漢語です。⇩
訓練生詩   
各訓練兵 各訓練兵
註於安南生 註於安南長
註克註暢 註撫註比
註満限衛 税捜註折死也
戸当註羅劣 親戚註殻車
註擬吏別諸未也 西傷腰之註 西功恩之註
註昆没戸 註貼没茹
厭婆吏僕古婆 頼頼註
百拝 千拝 万拝註

『黄光誠(ホアン・クアン・タイン)』
  → 「(留学生の中に於いて)優秀な学生で、南部出身学生の中では断然倒閣を現わしていた。」「1908年資金の受けとりという重大使命を帯てサイゴンに戻るが、埠頭で手ぐすねを引いて待ち構えていたフランス税関吏、水上警察署員十数名が一斉にタラップを駆け上がるや否や、連行されて、藩佩珠の秘密文書を取り上げ、そのまま禁固刑、監禁されてしまった。」  
                 『潘佩珠伝』

『督撫長職』
  → 省長職のこと

『北圻で爆弾投下事件が2件発生した』
  → この時の北部爆弾投下実行役は『阮海臣(グエン・ハイ・タン)』と『阮仲常(グエン・チョン・トゥン)。」      『潘偑珠伝』

『省巡撫官』
  → 巡撫とは省官職のこと。

『キャプセイントジャック』
  → 現在の南部港町『ブン・タウ(Vũng Tàu)』の当時の呼び名ですね。1943年頃のこの港町の様子を、元南洋学院一期生の亀山哲三氏が本に書き残されています。
 「サンジャックは、西貢港をめざす船舶の仮泊地で、ここで水先案内のパイロットが乗り込む。軍事的にも重要な地点なので、岬の岩山は要塞化され、麓には鉄条網、衛門があって一般人の立入は厳禁、常時フランスの陸海兵が駐屯していた。ジブラルタルの要塞の様に岩山を刳りぬいて要塞砲が何門も隠されているらしい。西貢に100キロ、近くて綺麗な浜といので、火炎樹や合歓の並木に沿って富裕な階層の別荘が並び、鮮やかなブーゲンビリアの花垣が巡らされていた。」 『南洋学院』
  
 因みに『南洋学院』というのは、昭和17年に当時の仏領インドシナのサイゴンで開校された公立(文部省・外務省共管)の学校です。昭和17年ですから1942年です。仏印政府と日本が共同防衛・静謐保持政策を執った頃に、日本人学生が現地に留学して学ぶ学校が設立されていたのですね。当然ですが、昭和20年(1945)の日本の敗戦で廃校です。今では知る人も殆どいなくなってしまいましたね。

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(12)|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note





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