「安南民族運動史」(4)

 「明治36年の頃になって漸く様々な中心が結成せられ。ほぼ二つの党派が均しく祖国復興を志して組織せられた。
 一には北圻勤王党でその党首は黄花探(ホアン・ホア・タム)将軍である。この将軍は阮碧公の遺鉢を継ぎ北圻すなわち北部越南及びトンキンを勢力として頑強に抵抗し、フランスも遂に屈して妥協を試み、将軍に広大な土地を与えて辛うじて事無きを得ていたのである。この党派は旧越南王国の遺臣の集まりであるだけに、中心人物の多くは支那文化に哺まれた保守思想に生きる豪傑で、その戦法も直接行動によって売国奴及びフランス官憲を毒殺し或いは暗殺するという手段を用いた。 
二つには、進歩的な青年分子の党派である。彼等は主として明治33年の拳匪事件このかた支那から流入した新しい出版物に啓蒙せられた知識層の構成要素であった。ところが此の青年派には二つの違った色彩があった。
 第一のものは、全面的に民族解放の実現を期して日本に来朝し、我が國の力を借りてフランス勢力を越南から徹底的に駆逐しようと努めた党派であって、その首領は今日もなお越南の民衆に救世主のごとく待望されている畿外候クオン・デである。之を助けて辛酸を嘗めた事実上の指導者は有名な潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)という儒者上がりの革命家であった。党派の名を「越南光復会」という。
 その第二のものは、潘周禎(ファン・チュ・チン)を指導者として結合した組織で改良主義者の集団である。叙上の「光復会」とは異なり、フランス勢力との協調を志す穏和な主張を掲げている。その直接目的は越南の近代国家としての成長を期するために、国人の知的活動を阻害して来た科挙の制を廃止し、ローマ字化した「国語」とフランス語を以てする教育方針に協力し、地方の教育機関農商工会の開設を主張し、フランスの風俗習慣を取り入れて自国の陋弊を矯正しようとした。
 これら2派、詳しく言えば3派は目的も手段も多少異なったが、一般に専制政治に反対し抵抗する点では一致していた。故に全国至るところで殆ど同時に蜂起し、重税に抗議を申し立て、林中秘かに会合して議を練り盛んに毒殺を行い、フランスが治めて以来初めて見る大規模な民族戦争を展開した。」

 「徹底的にフランスの勢力を駆逐しようとする党派は2つの流れを持っていたが、日本の対露戦争の勝報に喚び覚まされて団結して一党を結成し、日本に接触して其の援助の下に独立を実現する方向に進んだ。
潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は字を是漢、また巣南子と号する儒者であって、早くから独立運動に志して奔走したが、明治36年旧2月、同志黎璃(レ・ヴォ)を得て祖国復興の具体策を協議し、大義名分を明らかにして義軍を糾合する方針を立て、軍の頭領として越南帝室嫡流の皇族たる畿外候を戴き、国内に散在して相互の連絡をよく同志を集めるために、その頭領の下に北圻の勤王軍の中心に広く憂国の志士を募って事を起こす決意を固めた。
 畿外候クオン・デは、現越南帝室の世祖嘉隆(ザ―・ロン)帝の皇太子景(カイン)の直系4代の子孫であって、明命(ミン・マン)帝の血を承ける現皇帝よりも正しい帝位継承権を享有している皇族である。その遠祖たる景(カイン)はフランスから帰国したのち、父嘉隆帝が越南を反徒の手から救って帝位に即して間もなく21歳を一期として世を去った。
 明治35年前後に帝位に即いていた成泰(タイン・タイ)帝は、フランスの頤使に甘んじない気骨があったため、彼等白人支配者は帝を廃するに先立って、後継者としてクオン・デに目を付け秘かに事を謀ったことがあった。ところが畿外候は帝に劣らぬ愛国者であったので、フエに駐在したフランスの大使オリヴィエが奨め、候は正当の帝位後継者であると知って帝位に押そうという。その友情は有難いが、現帝の罪過が明らかでないのに之を恣に廃する行為に左袒するわけには行かない。天下の大法は私意によって ぐべからざるものであると言って、大使の策謀に乗じられなかったという経緯もある。要するに候は、賢明高邁にして能く事理を弁え、敢えてフランスの傀儡たるを潔しとしなかったのである。潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)がその同志と謀って候を首領と仰ぎ、国内の愛国者を団結させて祖国を復興しようとしたのも候の高風を慕うもの天下に満ちる実状を察したからである。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?