見出し画像

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(14)-「越南国民党」に関して

 『越南国民党』は、『安南民族運動史概説』やその他の資料によりますと、指導者の名は『阮大学(グエン・ダイ・ホック)』となっています。
 この阮大学(グエン・ダイ・ホック)とは、
 『印度支那(インドシナ)大学商学部卒業。印度支那総督へ「新経済態勢及び改革計画」を要求、ベトナム人による「真実の民主主義政治」を標榜した。昭和五年二月安沛兵営襲撃事件の後、ギロチンにかけられて処刑された。享年25歳だった。』
 と説明がされています。
 そして、メルランへの爆弾投下事件の実行犯で広東沙面で河へ投身自殺した范鴻泰(ファム・ホン・タイ)も、この『越南国民党』の党員だったと言われています。

 しかしですね…、『クオン・デ 革命の生涯』の記述と、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)『自判』の記述を調べて行きますと、インドシナ総督メルランの襲撃事件発生は6月でして、国民党の結成はその一カ月後の7月になっているのです。。。

 広東沙面ビクトリアホテル爆弾投下事件が発生した日は1924年6月19日范鴻泰(ファム・ホン・タイ)は、丁度この頃に国許から広州へ出て来たばかりのベトナム青年でしたが、広州の同志らからインドシナ総督爆弾投下計画を聞き、すぐさまこの任務に志願をしたのです。(事件の詳細は、こちらをご一読下さい。⇒仏領インドシナ総督メルラン襲撃事件|何祐子|note

 この爆弾投下事件の反響は大きく、事件後、当時中国大陸にいた革命家らからベトナム革命運動が一目置かれるようになりました。これに呼応する為に、同年7月潘佩珠が広州へ行き、同志らと共に民本主義を執る『越南国民党』を組織して、『越南国民党』の名前で『沙面爆弾投下事件声明文』を出した、この日付が西暦1924年7月でした。
 纏めますと、クオン・デ殿下とファン・ボイ・チャウの2人が言っている通り、1924年7月が『越南国民党』の設立日です。爆弾投下実行時には、『越南国民党』はまだ存在していないんですね。

 ここから推察できる事は、ファン・ボイ・チャウが7月に新聞社へ送った『越南国民党』名の犯行声明文によって、当時の世論は先の6月に沙面で起こった爆弾投下事件の経緯を知ったということ。それで世論は、「ああ、ではあの投身自殺した実行犯のファム・ホン・タイは、『越南国民党』の党員だったのだ…」、と理解したのではないでしょうか。
 
 そしてそれ以降は、ベトナム国内で『越南国民党』を率いたのが若きエリート、阮大学(グエン・ダイ・ホック)だった、ということかと思います。彼は、有名な「昭和5年の安沛(エン・バイ)事件」で逮捕され、ギロチンにかけられる前に、「ベトナム万歳!」と叫んで逝った、当時国内で知らない人のない程の有名な愛国青年でした。

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(15)|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?