満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑦ ~初期の植民政策・第二期~

満鉄東亜経済調査局|何祐子|note

 ********************

~初期の植民政策・第二期(1897年ー1902年)~

1)政治改革
 ドゥーメルはブールジョア内閣の財務長官を勤めたことがあり、且つ又1895年には植民地の予算報告者として、
東京(トン・キン)の財政を研究したこともある経験豊富な急進的改革論者であった。

 彼が赴任した時には各植民地とも財政状態は極めて不健全で、赤字の増加に苦しんでいた。経済的に富裕なコーチ・シナでさえも、余りに厳格な同化政策と余りに多数のフランス官吏のために疲弊のどん底にあり、カンボジアは全くフランスの支配圏外に超然として、近代化とは凡そ縁の遠い方向に進んでいた。安南は王を操る官吏群の手中に帰し、不平、不満の温床たる観を呈し、トン・キンは、例の如く、不安の中心地であるかの如くであった。

 ドゥーメルは、先ず植民地議会を改革し、予算をフランス官吏自身の為に編成することを止めた。にも拘らず、官吏の数は益々増加し、併合前には50人の官吏で間に合ったのに、1900年には290人のフランス人官吏と多数の土民下僚を擁するという有様であった。之は人口の割合から云えばジャワの10倍に相当する。土民の伝統に対しては全く何の考慮も払われず、経済は沈滞し切っていた。
 
 1897年の安南は、名義上はフランスの保護領でも、実質上は全く独立国であった。
当時王(阮朝10世、成泰(タイン・タイ)王)は未だ幼少で3人の摂政と役人達はそれぞれ皆行政と裁判を自分自身の儲け口としていた。フランスの条約上の権益は制限され土民政策又は内政に干渉するが如きは事実上不可能であった。
 そこで彼は、…1897年9月、理事官の数を増加してこれに事実上の指導権を与え、陰謀の中心となっていた秘密会議を解散せしめ、之に代えて理事長官の支配下に参事官を設置した。1897年には安南の財政に対する直接的支配権を獲得し、安南の経済的発展の為基礎工作を完了した。

 残された問題は尤も困難なトン・キンの統治である。トン・キンは形式的には保護領になっていたが、実質は殆ど直接統治の植民地であった。…ドゥーメルは、新たに各地の部落制度を地方自治団体の単位としたばかりでなく、その権限を拡大したのである。斯くして租税の徴収、学校及び慈善団体の管理、地方的行政事務及びその治安は部落の手で行われることとなり、そして中央政府との連絡は土民官吏の手を通じて行われることとなった。
 斯くの如く、各地に於ける統治機構が確立されたのは、1891年の終わり頃であった。即ちコーチ・シナはフランス政府直轄の植民地として、カンボジアは漠然とした意味の保護領として、安南は保護領ではあるが実質上は植民地に近いものとして、トン・キンは部落制度を中心とする自治領として統治されることとなったのである。
 
 この第一期の基礎工作を完了したドゥーメルは、第二弾の工作として、連邦組織の確立に着手した。…彼は連邦政府を中心として各州政府をその下級機関とする連邦組織を確立すべく、先ずトン・キンに弁理総督を配置し、…次いで1897年8月、全インドシナの財政経済問題を審議する最高評議会の制度を設けたのであるが、…ドゥーメルは、安南とカンボジアに農業と商業の連合会議所を設立し、これから評議員を選出させることにした。…彼は、関税、通信、交通、公共事業、裁判等は連邦予算を以て行うことにしたのであるが、それは事実上各州の完全なる独立を否定するものであった。
 …1898年7月フランス本国政府が之に同意を表したので、…その結果、『インドシナ』は最早単なる地理的な表現ではなく、政治的な統一体となったのである。

 斯くて1898年以後、政治の中心は専ら連邦政府に移り、総督は本国の各省長官の権限を一身に具有することとなった。植民地最高会議は唯予算を通過させるだけのことであって、それ以外のことに就いては、総督の諮問に答える単なる諮問機関に過ぎなかった。その他官吏と農商会議所の代表から成る保護領会議があったが、これは単に各地方の予算を審議するだけで実権は全く連邦の手にあった。要するに、諸邦のうちコーチ・シナはアメリカ植民地式に知事とフランス市民の中から選ばれた植民地会議によって統治され、他の3邦は植民地でなく保護領なので、理事長官と理事官をして統治に当たらしることとなったのである。

(2)経済改革
 ドゥーメルが赴任した当時は富裕なるコーチ・シナに於いてすら、財政は約百萬ピアストルの赤字を示しており、安南とトン・キンは1887年以来自治的共同予算を実施していたが1890年までにその赤字は1300萬フランに達していた。
 …ドゥーメルは徴税率を上げ間接税を設けて、1897年のトン・キンの予算を編成し、過去の赤字を償却して初めて余剰金を出すことに成功した。斯くして財政の均衡を計ると共に、…例えば灌漑事業を創始し、鉄道敷設のための測量を行い、デルタ地帯から支那国境に至る交通路を開くためにハノイの大架橋工事を起こした。
 …次いで連邦予算の改善に着手した。…彼は種々考慮の結果1897年6月、直接税は各邦に、間接税は連邦に振り分けることにした。この結果僅か5年の間に全ての財政は黒字を出すことになり、更に鉄道敷設のために2億フランの公債を起債することに成功したのである。鉄道敷設と共に、運河を開墾し、港湾を築き、年1400萬フランの軍事費を支出して、猶お且つ3千万フランの余剰金を出すことが出来る程度まで、財政状態は好転した。

 彼の財政政策の最も注意すべき点は、彼が間接税を極めて重視したことである。即ち彼は、阿片、アルコール及び塩の専売から莫大な国家収入を挙げたのであるが、問題は、これ等の間接税は一度創設せられると之を変更することは非常に困難であるということである。例えば、1911年までの阿片の専売収入は9百萬ピアストルに達したが、之を廃止すれば連邦予算に莫大な損失を与えるという理由から、その後に於いても継続されることになった。アルコールの専売にしても全く之と同じで、1898年から醸造は国家の独占するところとなり、1911年以降は販売も全て政府の手に依って行われ、年平均150萬ピアストルの収入を挙げたが(1903年ー1911年)そのために土民が蒙った経済的圧迫及び更にそれから来るところの彼らの政治的動揺は、それが連邦財政に貢献したところを帳消しにした。塩専売の場合は事態はもっと不利であった。というのは、それは製塩業そのものを根本から破壊したからである。

 ドゥーメルは、彼の専売政策が土民の間に深刻な反仏感情を植え付けつつあることを意識しつつも、之を緩和しないばかりか益々強化していった。然し財政だけは兎に角強固なものとなったので、愈愈1898年の鉄道敷設計画を実行することを決心した。…ファショダの敗戦及びドレフェス事件に依って人心が動揺していた1898年当時に於いて、2億フランの公債発行をフランス議会に認めさしたというだけでも、彼が如何に敏腕な政治家であったかが想像されるであろう。…更に3年後には、猛烈な反対を押し切ってトン・キン鉄道を雲南にまで延長する法案を通過させた。…1901年までにその準備を整えたのである。之が滇越(てん・えつ)鉄道である。

 然し、ドゥーメルの経済改革は主として財政及び公共事業方面に限られ、農業及び地方的な土着産業は之がために犠牲に供せられた。即ち農業の発展は無視され、フランス本国の産業と競争関係に立つ一切の産業に対しては抑圧政策が採られたのである。このため例えば、鴻基(ホン・ゲイ)の炭鉱業や海防(ハイ・フォン)のセメント工業は衰退し、ために本来工業化に適していたインドシナは永い間工業的発展を停止するの外なかった。…ドゥーメルは貿易の発展に対しても、何等の関心を払わなかったのである。要するに、彼はこれ等凡てのものを無視して政府の収入を増すことに全力を注いだのであった。そして彼が手を触れなかったこれ等の仕事は彼の後継者たちの手で行われたのである。

********************
  
 フランスが本格的に植民地政策に本腰を入れ始めました。先ず初めに、権力の掌握です。。😅 
 「各地の地方自治団体の権限を拡大し、租税の徴収、学校及び慈善団体の管理、地方的行政事務及びその治安」を地方自治体の手で行わせ、各地に於ける統治機構が1891年の終わり頃に確立された。
 その結果、
 *コーチ・シナはフランス政府直轄の植民地
 *カンボジアは漠然とした意味の保護領
 *安南は保護領ではあるが実質上は植民地に近いもの
 *トン・キンは部落制度を中心とする自治領

 と、体制はバラバラですが、結局全てフランス統治下に入りました。
 次に連邦政府を中心にした各州政府を下級機関とする連邦組織を確立する為に「関税、通信、交通、公共事業、裁判等は連邦予算を以て行う」ことに決定。
 
これ⇧で事実上『インドシナ』は単なる地理的な表現ではなく、政治的な統一体となった訳です。。。税、通信、インフラ、公工事、司法、、と社会基盤の殆どを掌握されてしまった。。。
 そして、植民地政府に権力を集中させたんですね。結局、「植民地最高会議は唯予算を通過させるだけ」で、「総督の諮問に答える単なる諮問機関」になり、「保護領会議」も、「各地方の予算を審議するだけ」。地方自治体の実権は削がれ、権力は連邦政府に完全に移った訳です。

 さて、そうなってから植民地連邦政府が先ず何をやったかと言うと、『既存税の増税とその他の間接税を増やした』んですね~。😅😅😅
 しかも、増税だけでは飽き足らず、結局製造まで国家が抑えてしまったんですね~、その結果根本的に製造業まで破壊してしまったんですね~。飽くなき貪欲さです。

 どうも、『プライマリーバランス黒字化至上主義』『財政均衡主義』で、『増税!増税!新税増設!』が口癖だった様な印象のフランス人官僚ドゥーメル氏。。。ど、どんなお顔をされていたのかしら、、、意外と、今の日本財務省の建物の奥院に立派な肖像画とか飾ってあったら、笑える。。😂😂😂😂
 あっ、もしかして、これが今話題のザイム真理教の御本尊かもっ!?(笑)

 しかし、そんな冗談ばかりも言ってられません。。
 仏領植民地だったインドシナと同じく昨今の日本も、増える官僚と天下りの為に増税増税、また増税。日本国民の伝統へなど全く何の考慮も払われず、経済は失われた30年が叫ばれて久しい。。。
 それに、今や一国の首相と言うよりも、「唯予算を通過させるだけのことであって、それ以外のことに就いては、総督の諮問に答える単なる諮問機関に過ぎない」という植民地最高会議議長のような振る舞いをもう隠しても隠しきれない様な最近の日本の首相。。。😂😂😂 
 ゴールデン・ウィーク中の外遊で、「次の”植民地最高会議の議長”は私の息子ですので、どうぞ宜しく!ヤバダバドゥー!」とか外国要人に本気でリップ・サービスしてそうで怖いですね。。(笑)
 




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?