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八日目の蝉  解説編(2)

時には、家族が、自分に都合のいい集団でないことも。
そして、子供のタイプが違えば受け止め方も違います。

https://note.com/gashin_syoutan/n/na4ff693b5785

この記事に対するコメントから。

1.家族から逃避する生き方・・・福島瑞穂タイプ
2.自分の代からは家族を再生しようとする生き方・・・みこちゃんタイプ
みこちゃんのコメントから


みこちゃんの分類は、以下のように表現しても、意味は同じ。

1.自分を不幸な目に遭わせた家族制度など、なくなるべきだ・・・福島瑞穂タイプ
2.不幸な目に遭ったのは、自分が不運だったから・・・みこちゃんタイプ

それでは、福島瑞穂タイプの心の内に分け入ってみましょう。

サンプル数が少ないのに、それまでの発生確率を鵜呑みにしてしまうことを少数の法則といいます。
結果として、ものごとのある一面だけを見て判断してしまうことに。

このステレオタイプで判断する人、さまざまな情報を加味しシステマティックに考えることができない人は、身近な例が全体を映し出していると勘違いします。

そして、人間には、都合の良い情報ばかり集める習性があります。
さらに、自分の意見に対する反証材料を提示されても無視する確証バイアスも。


一つの評価= 全体評価と考えてしまうと、正確な評価が出ません。

ということで、個別事例原則論を混同してしまう習性を持つ福島瑞穂タイプは、家族問題を「自分ごと化」できずに、家族からの逃避、さらには家族制度の否定に至る、と推察されます。

個別事例に瑕疵があるからといって原則が否定されることにはならないのにね。

https://note.com/gashin_syoutan/n/n7ad1c739edec


一方、みこちゃんタイプは、論理の飛躍がないので至って単純。

なぜなら、家族のいい点、悪い点を洗い出して、問題解決に結びつけようとするだけだから。

つまり、自分の集団と他の集団の差がなくなる社会変動〜所属している集団をより優位な集団・高い評価を得られる集団への社会移動を目指すってこと。


福島瑞穂タイプが、「家族制度をなくせ、夫婦別姓!!」って言う背景には、家父長制があり、家族の認知や評価の枠組み自体を変えるこそが歴史の進歩だと信じているんでしょうね、きっと。

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法哲学では正義論において「~は正しくないから、是正されるべきだ」としてよい社会正しい社会の在り方を議論します。

その際に、制度やルールの基礎となる原理について考え、どういう社会制度にするかを議論するのです。

近代社会が重要視してきたのが、自由平等

すると、国家に介入されることなく個人自由な生き方や考え方、やりたい仕事、好きなライフスタイルで生きられる社会が、正しい社会ということになります。

ただ、原子論的個人主義、つまり、原子のようにバラバラな個人自由に振る舞える社会は不平等を生みやすく、格差社会になりがち。

一方、平等な社会は経済活動が停滞して、社会の活力や豊かさが失われ、平等のために自由の抑圧が生じます。
共産主義が目指したのが、私有財産を止揚し、生産手段を共有化し、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る平等な社会。

正しい社会を実現することの難しさが、わかりますよね。

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その価値
に重きを置く人もいれば、そうでない価値に重きを置く人もいるというのが、価値相対主義
自由と同じくらい価値相対主義が幅を利かせています。

でも、これだと、正しい社会とは、人それぞれの価値観による主観的な問題だ、となってしまいます。

客観的な問題にならないことをいいことに、悪構造として非難し続けることを生業(なりわい)とする人たちがいる。
まさに、野党とマスコミの在り方そのものですね。

宗教と政治の関係についてメスを入れ、正しい社会にしたいのであれば、オイラは大歓迎です。

マスコミも「自分たち及び野党」と旧統一教会とのつながりについての報道は、控え目にしているようですが、チラチラと本当のことが出てきます。

もちろん、ほとぼりが冷めるまで、沈黙を貫ぬくのが、彼らの流儀ですがね(笑)。

ーーーー立憲民主党の泉代表は「自民党と同連合の関係について、「調べない、説明しない、明言しないという『3ない』状態だ。ごまかそうとしているのが自民党の姿勢だ」と批判していた。
ところが、枝野幸男・前代表や安住淳・元財務相ら計14人が「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)と関わりがあった。ーーーーー

泉さんにお願いです。
「調べない、説明しない、明言しないという『3ない』状態ってうまいことを言うだけでなく、しっかり調べて説明して、明言してくださいね(笑)。


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建前上では、価値観の相互尊重を前提に合意に基づく制度設計をすれば、正しい社会ができることになります。

ただし、「自分の価値観を強制しない」という価値観を持つ人同士であることが前提とならなければ、正しい社会は到来しません。

ところが、「他人の価値観を尊重しない」という価値観を持つ一群には「他人に自分の価値観を押し付ける」習性があるので、自分の言い分が通らないと相手は罵倒し、要求が通るまで同じことを繰り返します。

結局、信じる神様が違うということで、話し合いで合意など成立しません。

そこで、合意のために、多数決が採用されます。

自分の意見への賛同者が多数を占めたら「民意を得た」と言う彼らですが、意に沿わない場合には、「他人の価値観を他者に強制しない」という価値観強制された者として、「民主主義の危機だ」と言っちゃいます(笑)。

結局、「他人の価値観を尊重しない」という価値観を持つ人にとっては、「正しい社会」は未来永劫、実現されないということになってしまいます(笑)。

だって、正しい社会とは、人それぞれの価値観による主観的な問題なのですから(笑)。

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「山上徹也容疑者の減刑を求める署名」活動が7月15日に開始されたとのこと。
その上、山上への崇拝者まで出ているのですから、驚きです。

減刑嘆願が正しい社会のために何かしなければという社会への連帯感からの行動とは思えません。
そして、間違った行動なのに、周囲に合わせることを優先してしまう人?が、多数いる事実。


ザッピング
の時代なんですねぇ〜。
テレビのリモコンを操作してチャンネルをしきりに切り替えるように、あれこれ難しいことを考えない人が増えているってこと。

自分では主体的に行動しているつもりでも、何も考えていない人は、無意識のうちに何らかの情報や意図のものに動かされてしまっているのです。

熟慮もせずに間違ったことをしているにも関わらず、周囲の人と同じ行動をとってしまう同調効果に気づかない人が、同調圧力に批判的だとしたら、笑うしかありませんね(笑)。



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他の国の人々の参政権には関心を示しても、自分の国の元首相が暗殺されたことに憤りを感じないどころか、暗殺者擁護に違和感を感じないのが、正しい社会


暗殺者にとって、被害者やその遺族との互恵関係を失うことなど、どうでもいいはず。
周囲の人一般との互恵関係の可能性が閉ざされても、不利益だ、とは感じなくて当然です。

また、法治国家では報復を受ける可能性も低いときています。

このような人が、更生可能性が高いと考えることには、無理があり過ぎでしょう。

どうして、減刑嘆願なんて、底なしに寛容になれるか、不思議でなりません。
オイラには、「自分ごと化」というか、想像力が欠如しているとしか思えません。

凶悪犯の生育歴を知り、人間性に触れたから、残虐性を覆い隠しちゃう、というのは正しい社会を目指す人のすることでしょうか?

どうしたら、山上の残虐性に怒りや敵愾心を抱かず、「あんたの気持ち、痛いほどわかるよ」ってなれるものでしょうかねぇ〜。



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もしかして、人道援助のつもり?

でも、人道援助の活動をしている人が大事にしているのは、人間の生命および尊厳を守ることのはず。

いいですか、尊厳とは、人間を人間として扱うことですよ。

以前、福島瑞穂さんはツイートしています。

「だって、死んでしまった人の人権なんて考えても仕方ないですし、・・・・」って。

https://note.com/gashin_syoutan/n/ndd22204bd7ab

被害者は人間として扱う必要はないけど、加害者は人間として扱うべきというのが福島瑞穂タイプ。

ナチスの収容所の周辺に赤十字がありましたが、何も見えなかったのではなく、何も見たいと思わなかったのです。
自分たちの仕事は食料を送ることと考え、小包を送り続けました。
何百万人の人が殺されていることを、人々に知らせることもしないままにね。

人道援助というラベルが付いているから、人間の生命および尊厳を守られ、人間を人間として扱うに違いない」っていうのは、必ずしも真ならずです。


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次は、自由という切り口から減刑嘆願を検討してみましょう。

カントが言う自由の前提は、人間が理性的であることです。
人間は理性的で自由であるから、尊重に値するというのがカントの主張するところ。

カントなら、山上の行動は「理性的な選択でもなければ、自由な人間の行為でもない」と言うはず。


自由権
に当てはめても、暗殺は思想・良心の自由などの精神的自由権、あるいは職業選択の自由や財産権といった経済的自由権のどちらにも該当しません。

要するに、山上の犯した罪は人権保障に照らしても嘆願に値しないのです。


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次は、隣人愛道徳の観点から減刑嘆願について考えます。

西洋近代が、人間を自由にしたとはいえ、社会で生きるにはルールに縛られざるを得ません。

ルールがあるのは、みんなが安心して約束をして、それを信用して行動できる方が生き易くなるから。
ただ、約束が破られないだけでは安全な社会とは言えないので、反道徳的な行為を防ぐことが求められます。

でも、道徳だけでは、暗殺者に殺人を思いとどまらせることはできません。

「約束を破るべからず」という道徳は裁判所(国家)の権力を通じて実行されているからこそ、国民の利益が守られるのです。

どういうことかと言えば、定められた刑罰が現実に執行されることが事前に明確になっているからこそ、道徳を軽んじる人でも、自分に不利益だからやめようとなるのです(犯罪抑制)。


一方、隣人愛を「定言命法」として普遍化しようとすれば、対象は特定の他者(被害者)ではなく、すべての他者(加害者も含めて)となってしまいます。
あなたが、どれほど敬虔なキリスト教者が知りませんが、これを現実社会に導入しようとすれば、大変なことになるでしょう。

もっと、具体的に書きましょうね。

暗殺者を特別扱いする」と入力すれば、「人間の生命および尊厳を守り、人間を人間として扱える正しい社会」と出力されると思いますか?


to be continued

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