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佐藤可士和展から考えるデザインとアート(前編)

※ 教員による1回完結型 連載対談記事「革命エデュケーション ex02」(Web版 特別編)をお届けします。

ブランドの象徴としてのロゴの持つ力

細井 こんにちは! ここ最近の東京は気温も上がってすっかり春(初夏?)の陽気ですね。今回は「革エデュ 春の特別編」と題して、現在、国立新美術館で行われている「佐藤可士和展」について鵜川さんとトークしていきたいと思います。

 この人、さまざまな会社や組織のロゴデザインを手がけているので知名度は抜群ですよね。ユニクロ、楽天、Tポイントと言えば、すぐに思い浮かぶどころか、商品やロゴのついたカードを持っているという人も多いのではないでしょうか。

鵜川 そうですね。彼の手掛けたロゴを目にしない日はないんじゃないか、というぐらい、ビッグな人です。と言いながら、佐藤可士和さんの肩書ってどうなってるんだろうと思ってググってみたら、「クリエイティブディレクター」と書かれています。この展覧会が、まさにそんな感じでしたね。ロゴのデザインだけでなく、商品や企業のイメージを、トータルで演出しているということが、よく分かる展示になっていました。

細井 鵜川さんの説明でもわかると思いますが、「クリエイティブディレクター」というのは、ある企業やブランドの「イメージ統括者」という感じですかね。決定されたコンセプトに基づいて、個々の広告などのプロモーションが展開されていく、という流れです。
 突然ですが、鵜川さんってナイキという企業にどういうイメージを持っていますか?

鵜川 ナイキの存在を知った最初がエア・ジョーダンでした。今から考えると、おそらく「エア・ジョーダン3」だったと思うのですが(1988年に発表されたようです)、マイケル・ジョーダンのシルエットのロゴが印象的でした。なので、他のスポーツ用品メーカーと比べて、プロ仕様というイメージが強いですね。
 あとは、"JUST DO IT"でしょうか。シンプルで力強いスローガンは、英語を学び始めた時期と重なっていたせいもあって、ガツンと響きました。Apple社の"Think different"にも通じる、名スローガンだと思います。

細井 やっぱり同世代だから、似てくるものがありますね(笑)。僕はナイキというとハイテクスニーカーのイメージがあって、エア・ジョーダンやエア・マックス。これらは90年代にはファッションアイテムとしての人気もすごく高くて、雑誌でもよく取り上げられていました。
 で、何が言いたいかというと、かつて「広告批評」という雑誌があったんですけど、1998年にナイキの特集があったんですね。その表紙がほぼ黒一色に白でナイキのロゴマークというデザインでした。

 そのアートディレクターは佐藤可士和さんがやっていたんですが、今の彼につながるデザインワークです。で、これはナイキというブランド・イメージがあるからこそ成立する表現だと思うんですよ。今話が出たような、イノベイティヴだったりファッショナブルだったりするスポーツ・ブランドというナイキのイメージがそういう強さを生むと。

鵜川 そういえば、学校の上履きにナイキのロゴを描いてる生徒とか、いましたね(笑)。最近、見ないな。
 もともとナイキのロゴには、Swooshと呼ばれるあの曲線に、社名のNIKEが組み合わせられていましたが、1995年に社名を取って、Swooshだけにしたようですね。

 社名のないシンボルだけでブランディングができるというのは、ある意味、ナイキの強い自負を感じさせるものですが、その一方で、Swooshが単独で使われることで、デザイン性は確実に高まったし、細井さんの言う「イノベイティヴだったりファッショナブルだったり」というイメージにも結び付くことになったのかな、と。

細井 その後の佐藤可士和さんのやろうとしていることもそういうことなのかな、と思うんですね。ロゴひとつがあるだけでその企業のイメージが浮かび上がるようなことを目指しているんだと思うんですね。

鵜川 今回の展覧会でも、少年時代のエピソードが紹介されていましたね。同様の内容を語ったインタビュー記事があったので、そこから引用します。

1970年代、小学生に人気なスポーツは野球。だけど子供心に「サッカーをやるほうがお洒落だ!」と。実はサッカーに興味があるというよりは、アディダスのウインドブレーカーとスニーカーが欲しかった(笑)。3本のラインとロゴがついていることで「他とはまったく違う!」と強く感じていたんです。そうしたら母親が「これではダメなの?」と似たようなものを買ってきた。「違う、それじゃ意味がないんだ!」と、散々粘り、本物を手に入れました。ロゴがついている箱やタグがカッコよくて、自分の教科書やノートもアディダス製にしたい、と思ってコンパスと定規を使いロゴを描いていました。ロゴがつくか、つかないかでモノの価値が変わる。子供ながらにブランドの価値を感じていました。
「佐藤可士和展が2月3日に開催! その思考の源泉は幼少期にあった」

 モノ自体の価値ではなく、モノに付随する意味に対する眼差しの萌芽が見て取れる、象徴的なエピソードだと思います。

細井 ある種の原体験ですよね。佐藤可士和さんのデザインで印象的なのは、やはりその明快な「わかりやすさ」です。その対象が持っている核の部分を抽出して形にするのが本当にうまいと思います。色彩も中間色ではなく鮮やかなものを使っていることが多いです。
 この展覧会後にお店で買い物をしたことがあったんですが、そこでポイントサービスのいろいろなロゴが並んでいるのを見たんですね。その中で佐藤可士和さんがデザインしたものが圧倒的に視認性が高くてスマートでした。「見た瞬間にわかる(しかもスマートに)」というのはできそうでできないことなので、このことは評価されるべきポイントだと思いますね。

鵜川 僕自身、それを強く感じたのは今治タオルのロゴです。

 このロゴを初めて目にした時には今治タオルのことは知らず。花札の「薄に月」に似たデザインがかわいくて、何だろうなとは思いましたが、そのタグの裏を見て「imabari towel」という文字を確認することはありませんでした。それが、何かの時にブランド名とロゴが結びついたのですが、その段階では既にロゴのイメージは刷り込まれていた。要するに、「今治タオル」というブランド名を経由することなく、このロゴ自体に伝統と信頼を読み取るようになっていたということです。
 これは、企業・ブランドとロゴというものの関係を考える上で、非常に重要なことであると思います。

細井 今治タオルのロゴ、僕もけっこう好きです。今、鵜川さんが言ったことはブランディングという「ブランドとしての価値の創造」ですよね。今治はタオル産業が盛んな町だったんですけど、一時期からは斜陽化していた。それをこのロゴを含めたプロジェクトで復活させたというのは有名な話です。今回、ロゴを中心としたセクションで展示されていたのは、そういうブランディングや、ある程度イメージが固定化したブランド・イメージを刷新するリブランディングという仕事ですね。

佐藤可士和の時代を読む力

鵜川 佐藤可士和さんの場合、ロゴの力を最大限に利用しているところが特徴的だと思います。ロゴの力、偉大です。
 そこでふと思い浮かべたのは、パソコンやスマホ、タブレットのことです。これらのデバイスでは、アプリケーションやファイルをアイコンで表示しています。そして我々は、スマホのホーム画面に雑然と並んだアイコンから、目当てのアプリを探し出したり、PCのデスクトップに並ぶアイコンから、目当てのファイルを見つけたり、ということを、日々繰り返しています。要するに、今の時代、我々は言葉や写真やイラストではなく、アイコンで対象を認識、判断している部分が大きくなってきているのではないか、ということです。結果として、アイコンに対する目や感度は、自分で思っている以上に磨かれています。そしてもちろん、この場合のアイコンはロゴと同義です。
 今治タオルのロゴはもちろん、ユニクロや楽天のロゴも、商品やサービス、サイトや街中に配置され、それらを漏れなく我々が受信する。こういう時代性も、佐藤可士和さんの手法を後押ししているような気がします。

細井 そうそう、アイコンの話はしようと思っていました。iPhoneが発売されたのは2007年ですが、それ以前からパソコンでアイコンは一般的になっていた。そういう意味で、瞬時に判断できる「わかりやすさ」を提示するという方法論は、まさに時代性を捉えていますね。
 佐藤可士和さんは、もともと広告デザインが出自の人ですが、彼が博報堂に入社して仕事を始めた80年代末~90年代前半というのは、大貫卓也さんという人がクリエイターとして大きな影響力を持っていました。としまえんやペプシマンの広告というと、たぶん僕ら世代にはわかると思うんですが(笑)。

 佐藤可士和さんも彼の仕事にすごく刺激を受けたみたいですね。で、その頃の大貫さんのスタイルというのはちょっと考えオチというか、一瞬考えてから「面白い!」と感じるものが多い。例えば「史上最低の遊園地。」というコピーが話題になった「としまえん」の新聞広告(1990年)は今でいうエイプリルフールネタ、自虐ネタなんですけど、見る人を「ん?」と一度立ち止まらせるような作品です。これは現在の佐藤可士和スタイルとは全然違うもので、90年代と2000年以降の変化を感じますね。

鵜川 懐かしい話が出てきましたね。個人的には、ペプシマンの衝撃は、ちょっと忘れられないものがあります。あの頃のCM(ペプシマンの初登場は1996年)って、何度も何度も繰り返し見るわけですよ。それは、同じものが繰り返し放送されるから、ということだけじゃなくて、我々は毎週(ものによっては毎日)同じ番組を見るし、その提供は週ごとに変わったりしない。録画しようにもビデオテープが必要で、今みたいにハードディスクに録り溜めて、見たいときに(CMを飛ばしながら)見る、なんてことはできない。そうすると、同じCMを強制的に何度も見せられるわけです。ところが、「ペプシマーン」というあのフレーズが流れてくるだけで、思わずテレビに釘付けになってしまう。あのパワーは、すごかった。
 さっきのロゴの話もそうですが、我々の目にいやおうなしに入りこんでくる広告は、下手するとマイナスのイメージを植え付けてしまう可能性もはらんでいます。インパクトあるものは、あんまり反復されると鬱陶しく感じてしまうものですが、そう感じる寸前の微妙なポイントを突いているのだろうな、と思いますね。

細井 鵜川さんがそんなにペプシマンにハマっていたとは思わなかったです(笑)。今回、YouTubeで見返してみたらやっぱり面白かったですけど。
 今の話で思ったんですが、90年代まではテレビCMの影響力って大きかったですよね。今はコンプライアンスの問題や、テレビや新聞からインターネットにメディアとしての影響力が移行したという側面もあると思うんですが、そういう中で、さっきのアイコンの話のように人々の判断の速度が上がっているというのも大きいと思います。そういう意味では、かつてのCMにおいて物語性だったり展開だったりに賭けていた部分というのが、今は最初に見たときのインパクトになっているのかなと思ったりもします。
 インパクトという話で言うと、佐藤可士和さんのSMAP『014』のプロモーションが僕は印象に残っていますね。

 赤青黄の三色でヴィジュアルを展開して、デザイン性がすごく全面に出ていたので覚えています。SMAPはそれまでもコンテムポラリー・プロダクションとかTycoon Graphicsをアートワークに起用していて、高感度なデザインを展開していたんですが、2000年当時のSMAPだからできたというのも含めて「ここまでやるんだ!」という気がしました。

鵜川 今回の展覧会でも、SMAPのアートワークは、序盤のクライマックスだと言わんばかりにフィーチャーされていましたね。赤青黄の三色と矩形による画面構成は、モンドリアンを強烈に想起させますし、それ以外のデザインを見ていても、ミニマリズムの影響を強く感じます。

 と言いつつも、実際に展開されるプロモーション戦略は非常にダイナミックで、建物や街をハッキングしていくような力強さを感じさせます。個々の要素がミニマルだからこそ、どんな使い方も可能だとも言えますが、これだけ複雑に全面展開される様子を見ると、ミニマリズムの系譜の上にポンと置くことはできない気もします。

細井 そうですね。佐藤可士和さんのデザインは「シンプル」という形容をされることが多いですが、今のSMAPの話がわかりやすいと思うんですけど、対象自体の情報量が多いから、余計なものは削ぎ落としていくという発想で作っているんだと思うんですね。
 あとはSMAPの話で言うと、『Vest』というベスト盤があったんですけど(笑)、これが色違いで12色あったんです。

 そのときに連想したのは、やはりアンディ・ウォーホルのことです。キャンベル・スープのモティーフはポップ・アートの古典ですが、同じデザインがずらっと色違いで並んでいるとやっぱり魅力的に見えましたね。

 アンディ・ウォーホルというのは、もはや現代アートという枠を超えてデザインの参照項となっている面があると思うんですが、それが半世紀以上経って資本主義社会の中である種ストレートに機能しているというのは、すごく示唆的に思えます。

現代デザイン/アートのルーツとしてのアンディ・ウォーホル

鵜川 大量生産大量消費のシステムをアートによって可視化すると同時に、アートが偶像であることを暴いたのがウォーホルでした。それを思うと、佐藤可士和さんのデザインから見えてくるのは、アートの手法自体が資本主義の中に再帰的に取り込まれてしまっている状況でしょうか。
 と、そんなことを考えるに至ったのは、今回の展覧会の中盤にあったロゴによる作品(?)群がきっかけです。あるロゴはオブジェに、あるロゴは織物に、ロゴの持つ意味/コンセプトを反映しながら、同時にそれはもはやロゴという記号ではなく、質量を持った物質としてそこに存在しているのでした。
 ウォーホルは、キャンベルのスープ缶をアートとして提示することで、本来、消費対象であるはずのものを消費から切り離し、そこにアートとしての意味を与えたわけですが(そして、そこには、アートすらも消費していく大衆の姿が刻み込まれていたわけですが)、佐藤可士和さんのこの作品は、それとは意味合いが異なる気がしました。それは、ロゴが参照し、消費してしまったはずのアートが、剥き出しの形で表れているように感じられたからだし、それにもかかわらず、それらのロゴにアートとしての魅力を、僕自身、感じることができなかったからです。

細井 そこなんですよね。僕もあのロゴ作品にはアートとしての魅力を感じることができませんでした。アート/非アートという議論はさておき、資本の論理の中で機能しているものという以上の意味を感じられなかったです。SMAPの作品はある種の批評性を持っていたと思うんですけどね。
 そこで思うのが「正統性」に関する話です。アンディ・ウォーホルのスープ缶は複製であることを前提としたフェイクがアートたりうる、という逆説によって成り立っていると思うんですが、今話題に出たロゴ作品は逆だと思うんですね。複製が前提になっているものが一点ものになっている。鵜川さんや僕が感じている違和感はそこに起因しているのかな、とも思いました。

鵜川 なるほど。確かに、それはあると思います。ユニクロのロゴをいくら巨大にしても、そこに新たな意味は生まれないんですよね。アートは、その素材とする対象の意味を解体して、全く別の文脈や意味を持つことによって、ある種の批評性を獲得するところに、方法的な意義があると思うのですが(もちろん、意義なんてそっちのけで、すさまじい強度を持ったアートもありますが)、この巨大ロゴはそうではない。巨大になっても素材が変わっても、恐ろしいまでにロゴとしての意味を持ち続けている。
 ウォーホルで言えば、《キャンベル・スープの缶》は、一枚のキャンバスサイズは51 cm × 41 cmと、実物のキャンベル・スープ缶からすれば、相当巨大です。《マリリン》に至っては縦横約91cmと、これも異様なまでに巨大です。いずれも、元のサイズがあり、それが突き崩されることもまた、アートのトリガーになっていると思うんですよ。

 一方で、ロゴにオリジナルのサイズはありません。そもそものデザインの前提に、サイズの可変性がある。これもまた、巨大ロゴが単なるロゴにしかなり得なかった原因の一つではないかと思います。

細井 ウォーホルの作品のサイズのことは今指摘されて「なるほど」と思いました。それだけ大きいと異物感があって、アートとして成立していますね。
 「正統性」ということで言うと、大貫さんもウォーホルもそうだと思うんですが、「正統的」なものに対して疑問を呈したり否定したりしていたと思うんですよ、それが広告なのかアートなのかという線引きはさて置いて。でも、佐藤可士和さんの場合はむしろブランド性=「正統性」を高めるという方向に向かっている。さっきのアディダスのロゴの話が彼の原体験だから、それは当然ではあると思うんですが、人々が瞬時に価値を判断するという時代であるというのも含めて、ちょっと怖いなという気持ちになる部分はありますね。

鵜川 マルクスの語ったフェティシズム(物心崇拝)が、別の形で表れているような感じでしょうか。ロゴがデザインやコンセプトという皮をかぶることで、資本の論理を覆い隠してしまうような。

※ 後編はこちら↓

(ほそい まさゆき・国語科)
(うかわ りゅうじ・国語科/小説家)

Photo by Denys Nevozhai on Unsplash

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