がくしやネコ
考えたいこと、浸りたい気分、話したいことがあれば、その話し相手はテーマごとに選ぶことができる「読書」が適任だ。 旅行に行きたければ、トラベルミステリーや、土地物の小説を。 深めたいことがあればそのテーマの本を。 人に無駄に会うよりも、1人で読書することの方が魅力的に思えるようになってしまった。 自分が話したいテーマで対話ができるから。
エッセイほどテーマに重量を持たせられない日々のメモ。
創作も混じっていたりして
とりあえず
書くのは比較的得意で、話すのは苦手で、本当はこういうフィードバックをその場で反芻してサッと話せればいいのになって思います。後日書くことになるのがもどかしい。
本屋に行きざっと戸棚を眺めるとタイトルが面白いものだから見る予定にもなかった本まで手に取ってしまい、手に取らずとも興味が惹かれ、いろんな話題があるなぁと思い、ワクワクする。 そう、話題は本屋にいっぱい落ちている。話題の宝探し!活用しよう。
幼少期の、心の土台基礎工事がうまくいってなかったんだろうなぁ。そこに色々積もうとしても、やっぱりすぐぐらついてしまう。
成功者の自伝なんか読みたくない。もっと惨めで、悲惨で、うまくいっていない人が書いた本が読みたい。この気持ちに寄り添って、言葉にする勇気をください。
よくよく考えたら、私ってなんでこんなに自分以外の人間大っ嫌いなんだろうな...
あの人元気だった?と聞かれて、はい元気でした、と二つ返事で返すのは違う気がする。だって元気がどうかは本人が決めるじゃない? でもきちんと観察しておいて、こうでした、と言えないようでは、サービスマンとしては失格なのだろう。観察して、仮説を捉える、ということが必要なのかもしれない。
私はきっと何も考えてないんじゃなくて、1日の中でいろんな言葉や思いがボコボコと膨大に湧くから、メモや日記に書ききれないのかもしれない。
俺の辛いことのハケ口となり、受け止められるようお前は余裕でいてくれ、というのもおかしいと思う。そういうことだ。気づいたらブチ切れそう。
ちょっと疲れただけなのに。向こうはそれを伝えて甘えてよくて、わたしが伝えようとすると許されない、みたいな状況に捉えている。「相手」がいることで安心できて甘えられて寄りかかれる柱には思っているけど、相手自身には何も興味がないのだろう。
出会いがあり別れがあって、人はどうせ最小単位1人なんだから、1人で生きれるようにするべきと考えてた。だから、家族だとしても他人としての線は引く、という考え方をしていたら、いつの間にか相手を見なくなってしまっていたのかもしれない。我可愛さ、自分のことしか考えてないな、お互いに。
夫とこれ大丈夫かなっていうケンカした。お互い視野が狭くて、その視野がそれぞれ被さってない。お互いに、相手へ都合のいい姿だけを見ている気がする。
カフェで飲んだソイラテが不味かった。苦みが立ってて豆臭くて、おお、となった。でもなぜかこの不味さもいいなと思った。 美味しいものや味がバチバチに決まったものばかりだとそれはそれでなんだかしっかりすることを強制されてるみたいで疲れてしまう。不味いことでふっとゆるい気持ちになれた。
色即是空空即是色、こだわりを捨てる、これは不感症になってしまわないか不安。欲望や願い、こだわりや悔しさというのは、自身を向上し次に導いていくのに必要だと思うのだけど、力への意志というやつか、そのためには負の感情は必要な時もある。それを悪に流れないよう俯瞰することが大事なのでは。
疑問を持たねば知識は増えないって誰かが言ってたな
50年後、ババアになった時。ふとした時あるいは死に際に、私は誰のことを思い出すだろうか。今関わっている人たちの中から思い出す人はいるのだろうか。彼のことは思い出すだろうか。
本当に美味しかったものって昨日のように味を思い出せるよな。そういう意識でものを作ろう。
ハイヒールを履いたおじさんを見ると目を背けたくなるぐらい異質だなと思うのだが、9割の人も同じように考えるのでは。本当は異質だと思わず人ぞれそれ好き好きだろうと自然に思えるべきなんだろうが、反射的なそれは難しい。そう思ってしまうのは仕方ないのだろうか。