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【試用版】美大生が美術史を学ぶということ論

昨年からとある大学の文学部で日本美術史を教えています。と思ったら、今度の4月からはとある美大でも日本美術史を教えることになりました。こりゃ大変だ。


文学部と美大では、きっと学生たちの学ぶ姿勢もちがうでしょう。心に響くポイントも異なるでしょう。
だからここで一度腰を据えて、私の中のOSをバージョン1.0「文学部のための美術史講義」から、バージョン2.0「美大生のための美術史講義」へバージョンアップしなくてはいけません。

美大は様々な実技指導、創作指導が基本であり、それに加えて座学の一つとして美術史を学ぶはずです。でも正直なところ、「カリキュラムにあるから」「必修科目だから」「単位が足りないから」そんな理由で退屈だけど仕方なく美術史の講義を受講するという人が多いのではないでしょうか(身近な美大出身者に聞き取りをしたところ、おおよそ似たような感想でした)。

なぜ昔々の美術の歴史についてわざわざ勉強しなければいけないのか。うーむ、これはなかなか難しいテーマです。

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このnoteで上記のようなことをつぶやいたところ、多くのコメントをいただき大変参考になりました。

それらのコメントになんとなく共通していたこと、そして私もそうだよなぁと思ったことがありまして、それは「昔は退屈だったけど今なら美術史の(もしくは学問全般の)楽しさがわかる!」というもの。ほんと「それな」です。
まっさらな白紙の状態(いや、大学生を白紙と表現するのは失礼なんですが)で情報を受け取ってもピンときませんが、美術に関係あるなし関わらず色々な知識や経験を獲得した後だと、自分の中にピンとひっかかるポイントがたくさんできているので、俄然楽しく感じるんですよね。

そうか。今はまだ面白さもあまり分からないし、退屈だと感じるかもしれないけれど、いつかもっと大人になって人生経験を積んだ時に、ふとしたきっかけで「あれ、面白いかも?」「もう1回ちゃんと勉強したいかも?」と思う時がやってくるかもしれない。いつか来るであろうその瞬間のために教えていると思えばいいんだ!めでたしめでたしチャンチャン。

と、まとめれば何となく一件落着風になるのですが、青二才の私、まだまだそこまで達観することはできません。いつか、じゃ嫌なのです。
教室という一つの空間でなまじ相手の顔と素直な反応が見えるだけに、やっぱりいつかじゃなくて今、現役の学生の時から少しでも美術史の面白さを、美術の歴史というものを学ぶ意義を感じてもらいたいと思ってしまうのです。

というわけで、かなり長文になってしまいましたが、がんばって私なりの考えを以下にまとめてみました。しかし、これは言うなればプロトタイプ、試用版であり、このnoteを読んでいる皆さんからのご意見などでブラッシュアップしていくつもりです(だから遠慮なくコメントください!)。

ゴホン。では、ここからは美大生のあなたに向けて語ります。そうでない人も自分が美大生になったつもりでお付き合いください。それではいってみましょう!(前振りがすでに長いぜ)

※本気で講義1回分ぐらいのボリュームを書いたので、本気の人は適宜メモを取りながら読むことをおすすめします。

■アートは進化するものなのか

AIを搭載した自動運転の車が道路を走り、飛行機が地球上を飛び回り、ロケットが月や火星までたどり着くこの時代、ひっくり返っても馬車が移動手段として復活することはありません。

はたまたスマートフォンを誰もが持つようになった今、ポケベルやピッチ(PHS)を使う生活に戻ることは考えられません。

何が言いたいかというと、科学技術は次へ次へと発展していくものであり、基本的に最新こそが最良であり、逆戻りはしないということです。
だから、さらに次の何かを生み出すためには、最新の技術を学び、理解することが肝要です。ここまでは納得してもらえるでしょう。

さて、ではアートはどうでしょうか。
最新こそが最良でしょうか。
常に未来に向かって発展・進化していくものでしょうか。

ミケランジェロよりも後の時代のベラスケス、ベラスケスよりも後の時代のモネ、モネよりも後の時代のデュシャンの方が優れていると言えますか。
平安時代の《源氏物語絵巻》よりも室町時代の雪舟《秋冬山水画》の方が、それよりも桃山時代の永徳《唐獅子図屏風》の方が、それよりも江戸時代の光琳《紅白梅図屏風》の方が、それよりも明治時代の狩野芳崖《悲母観音》の方が進歩した作品だと言えますか。
当然ちがいますよね。
見る人によって、評価する作品、好きな作品は異なるはずです。

これは一人の作家についても同じことが言えます。技術が上達することはあっても、晩年作が必ずしも最高傑作というわけではありません。
例えばピカソは作風を次々と変化させましたが、青の時代の作品よりもキュビスム時代の作品、キュビスム時代の作品よりも新古典主義時代の作品が優れていると言われたら「いやいや、待てよ」となりますよね。

また技法という点でいえば、例えば線遠近法(透視図法)。たしかに線遠近法は画期的な発明でした。これによって2次元の絵画にあたかも3次元の世界が再現されたかのような表現が可能になりました。私も中学の美術の時間にならって「おぉすげー」と感動したのを覚えています。
でも、線遠近法がなかった時代の絵画は見るべきところがないかと言えば違いますよね。また、線遠近法が浸透した後も奥行き表現を拒否するような絵画はいくらでも登場しています。
それに中国の山水画の三遠法(高遠、平遠、深遠)や、日本の絵巻にみる吹抜屋台(「ふきぬきやたい」と読みます)など、透視遠近法とは全く異なる奥行き表現が古今東西いろいろあります。当然どれが優れている、と言えるものではありません。

まずここまでを整理すると、アートに「発展」「進化」という考えは当てはまらないということです。
アートは、過去から未来へ一直線に向上していくようなものではなく、無数に枝分かれしながら多様な展開を遂げ、時にスパイラル(らせん状)に過去の様式が形を変えて復活することもあります(「歴史は繰り返す」と言われる由縁です)。
最新の理論を学ぶことが何よりも大事な科学技術とは、ここが大きく異なります。

アートは「進化」ではなく「変化」なのです。大前提として、これを押さえておいてください。西洋美術も東洋美術も日本美術もその他の美術もすべて同じです。
まずは、そのことを踏まえた上で話を進めましょう。

■古今東西のアートに共通するもの

古今東西すべてのアートに共通するものは、なんでしょうか。

私はそれを「これまでとは違うものを作ってやろう」という根源的な欲求だと思います。
千利休の言葉から生まれた「守破離」という概念があるように、従来のやり方を一通り学んだ後はそれを打ち破って新しいものを創り出すことこそが、創作の喜びであり、ひいては見る人の心を動かす力を作品に与えるのです。

「違うものを作ってやるぜ」感がすごい

創作者(クリエイター)であれば、誰かの作品を見てどれだけ感動にふるえても、じゃあそれと全く同じものを自分も作ればいいや、とはなりませんよね。やっぱり「それなら自分はこうだ!」と違う表現に挑戦するはずです。これは美大生のみなさんはよく理解できる感覚ではないでしょうか。

つまり、言い換えればアートとは常に前時代のアートに対するカウンターとして生まれるものなのです。それが連綿と繰り返されてきた歴史こそが、美術史だと言えるでしょう。
はい、ようやくここで美術史という言葉が出てきました。

美術史とは、その名の通り美術の歴史ですが、何かを暗記するとか、有名な作品をただ時代順に見ていくとか、決してそんな退屈なものではありません。退屈に感じさせてしまったなら、それは私の力不足です。

■美術史のふたつの面白さ

美術史の面白さはふたつある、と私は考えます。
ひとつめは、古今東西の天才たち(安直ですがあえてこの言葉を使います)が、いかに前例のないものを生み出そうとしたのか、百人百様のチャレンジの具体例とその成果を知ることができる、という面白さ。
ふたつめは、長い年月を経ていまに伝わる過去の名作・古典を、現在の私たちの目で自由に再解釈する面白さです。
それぞれ少し掘り下げて説明しましょう。

まずひとつめの、過去の創作者たちのチャレンジを知ることができる面白さについて。
さきほど古今東西すべてのアートに共通するのは、「これまでとは違うものを作ってやろう」という根源的な欲求だと述べましたが、もちろんその具体的な方法は千差万別です。
新しいものを生み出すために、より写実性を追求する人もいれば、使う素材を変える人もいますし、他の分野の表現を応用する人や、時にはガラガラポンと概念そのものをぶち壊す人もいます。
おそらく皆さんが思いつくようなことの大半は、残念ながら過去のどこかの誰かが試しています。ただし前例のないことをやれば必ず成功したかと言えば、当然そんなわけもなく、歴史の荒波にもまれて忘れられ消えていった無数の作家がいて、無数の作品があります。
歴史の淘汰を乗り越えて今に伝わる作家・作品は、それ以外の作家・作品と何がちがったのでしょう。もちろんタイミングや運もあったはずです。それでも、そうした挑戦の成功例を知ることは、さらに言えば作品というこれ以上ない具体例を通してその結果を知ることは、これから新たなアートを生み出そうとする人に必ず何らかの気づきを与えてくれるはずです。
これがまずひとつ。

ふたつめ、過去の名作を再解釈する面白さについてですが、すみません、これは少し噛み砕かないとわかりにくいですね。
唐突に質問をしますが、たとえば世の中に普遍的な価値観なんてあると思いますか。名画・名品はいつの時代も変わらず同じ評価をされると思いますか。
数学や物理ならば唯一の解や絶対不変の法則というものはあるでしょう。因数分解の公式や慣性の法則が人それぞれの解釈によって変わる、なんていうことはありません。
でもアートは違いますよね。真実の「美」、絶対的な「美」みたいなものがあって、それを備えた作品ならば必ず評価される、ということは無いわけです。むしろそんなものをアートと呼ぶのなら、こんなにつまらないことはないでしょう。

ゴッホの絵が生前は1枚しか売れなかったという話は、不遇な画家ゴッホを物語るエピソードとして有名でしょう。最近は生前もある程度は評価されていたという見方が浸透してきましたが、少なくとも世界中で誰もが知る有名画家になったのは、彼が没してしばらく経ってからの話です。
そして100年前から現在までゴッホは高い評価を維持していますが、これから100年経った後に同じように評価されているかは誰にも分かりません。

日本の絵画でいえば伊藤若冲が良い例です。
奇想の画家・若冲は生前から円山応挙に並ぶ京都の有名絵師でしたが、その後はある種の色モノという扱いでながらく等閑視されてきました。1970年に美術史家の辻惟雄先生が『奇想の系譜』という本で再評価しましたが、そこで一気に火が付いたわけでもなく、それからさらに30年後、2000年に京都国立博物館で「伊藤若冲展」が開催された時に当時の若者を中心に異例の大入りとなり、これが起爆剤となってようやく若冲ブームが起こりました。

ゴッホの絵も若冲の絵も物体ですから、それ自体は変化しません(色褪せたり朽ちたりはしますが)。でもその評価は刻々と変わっていったのです。
つまり私たちは、常に現在という視座から過去の美術を逆照射してその形を浮かび上がらせているのです。すいません、かっこいい言葉を使いたかっただけです。言い直すと、私たちは常にいまの価値観で美術を再定義し続けているということです。
さらに突き詰めれば、私にとっての若冲の絵と、あなたにとっての若冲の絵は、同じ作品でも実は同じでは無いということです。これは若干テクスト論という考え方に近いのですが、一人の作者が生み出した唯一無二の作品であっても、それを見る・読解する側、つまり読み手の数だけ無数の作品解釈が成り立つということです。

話がだいぶ散らかってきたので、整理しましょう。
名画・名品とされる作品であっても、普遍的な変わらぬ価値が約束されているわけではなく、常に再解釈の対象であり、美術史というひとつの物語も時代によってじわじわと変わっていくものなのです。
そう考えると、退屈な美術史もすこし興味が湧いてこないでしょうか。

美術史は、西洋美術史でも東洋美術史でも日本美術史でも、基本的には「基準作」と呼ばれる各時代を代表する作品を並べながら、時代のつながり、様式の変遷などを語ります。
でもそれを聞きながら「本当にそうなのかな?」「私にはこう見えるけどな」「私だったらそこの表現をもっとこうするな」と自問自答してもらって全然構いません。というより、ぜひそうして疑問符をつけながら学んでください。
先ほど述べたように、本来は見る人の数だけ異なる作品解釈が成り立つのですから。これが美術史を学ぶふたつめの面白さだと思います。

繰り返しになりますが、アートは最新こそが最良とは限りません。もしそうであったなら現在活躍している現代アーティストだけを押さえておけばいいことになりますが、それで良いと思う人はいないでしょう。
それで良しとしないということは、おそらく皆さんも心の中では美術史の重要性に気付いているということです。若干誘導尋問気味ですが。

■最後に

美術史は、わたしたちと同じ人間の試行錯誤の歴史です。

美術館や博物館に行くと、国宝や重要文化財がうやうやしくケースの中に展示されているので、どうしても格式ばったものに思えてしまうかもしれません。
でも実際は、それを作った生身の人間がいて、その人は皆さんと同じように「どうしたらこれまでにないものができるだろう?」と頭をひねり、手を動かして、その作品を完成させたのです。
日本美術史で言えば絵師や仏師、陶工など様々な作り手がいますが、彼らを教科書や画集の中の遠い存在としてではなく、あなたと同じ血の通った創作者(クリエイター)として見てみてください。
いや、そのように感じてもらえるかどうかは、私の仕事です。と自分でちゃんとハードルをあげるえらい私。がんばって古典と呼ばれるものを噛み砕いて紹介していくつもりです。きっと美術史があなたと地続きのものだと感じて、興味が湧く瞬間があるはずです。

というわけで、今日の講義はこれで終わりです。来週は○○についての話から始めようと思います。それでは皆さんおつかれさま。

***

もしあなたの通う大学で、授業中にこんな話をする教員がいたらそれは私です(笑)。授業のあとにこっそり「もしかしてちいさな美術館の学芸員ですか」と聞いてください。その時は、ちゃんと白状しますので。

おわり(後日加筆修正していくつもり)


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