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2月に読み終えた本

12月からボルダリングをちょいちょいやりはじめ、1月末にシューズとチョークバッグを買ってしまったので、2月は週一ぐらいでジムに行った。ジョギングもボルダリングも定期的にやっているのが自分でも意外なのだが、運動の習慣化がけっこう得意なのかもしれない。ただ暇なだけな気もする。
習慣化しすぎると、それが崩れるのを恐れるようになってしまうので、本当は低空飛行でいきたいと思ってはいる。
近況でした。

岸政彦・柴崎友香『大阪』(河出書房新社)

コロナ禍になる直前に大阪に行った。あまり積極的に旅行をしないのもあって、大阪も長じてからははじめて行った。目的のイベント以外のときは街を回ったり同僚に教えてもらった店で飯を食べたりした。華やかでコテコテな印象があったけどそれは一部で、粉もんはおいしかった。
そんな(どんな?)大阪で生まれた柴崎友香と、大学生から現在まで大阪で暮らしている岸政彦の連載エッセイ。共著なんだけど、とくにお互いの書いたものに応答するわけでもなく、それぞれの大阪を書いている。書き方もけっこう違って、岸は時代も出てくる順番もバラバラだが、柴崎は幼少期からやがて東京に出るまでの期間をわりと順を追っている。
それでも、二人ともたしかに大阪で暮らしていた/いるという実感が書かれているような気がして、そしてそれが逆に、人がある街で暮らすというのはこういうことだなあという、普遍的、と言っていいのかそんな感情が湧いた。自分もいくつかの街で暮らしてきて、当時のことを折に触れて思い出したりするけど、この二人にかかるとそういうことがしみじみ味わえるいい文章になるなあと思った。岸は震災の時の話(「1995」)、柴崎は就職の話(「わたしがいた街で」)が印象的だった。


古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス)

タイトルの通り、ウィトゲンシュタインの哲学の入門書。よく、ウィトゲンシュタインの哲学をふたつに分けて、前期を「写像理論」、後期を「言語ゲーム」と呼ぶけれども、この本では大きく「像」というキーワードでその哲学を解説していく。
まとめられると思えないのでまとめないが、とくに後期(=「言語ゲーム」)のウィトゲンシュタインがどのような哲学をしていたかの話が非常に興味深かった。後期において「像」は「物事の特定の見方」だとされる(P132)。例(ウィトゲンシュタインが出す例)として「きれいにすべき腎臓は十五マイルある」という広告が挙げられているが、我々はなんとなく、腎臓を「きれい」にして、健康になるというような「イメージ(像)」を持つ。腎臓を「きれいにする」とはどういうことはか不明ではあるが、しかし何か意味ありげな主張をしているようにも聞こえてしまう。こうやってあらかじめイメージを持って言葉に接することは日常茶飯事で、ウィトゲンシュタインも必要なことであると言っているが、具体的に言葉を吟味してみると、意味不明である。
このようにあらゆる言葉はそれだけでは意味不明で不確定であって、それでは意味はどこから生じるかというと、具体的な実践の場、たとえば会話であったり、ある文中であったりするわけである。この「生活の流れ」に組み込まれた言葉を、実践全体から読み解くことが「言語ゲーム」における重要なことで、なんとなく言語実践の「場」の解読というような「イメージ」を持っていたけれども、このように説明されるとけっこうシンプルな話なのかなとも思う。
言語実践が無数に存在するように、「像」も無数に存在している。そしてどれかが究極的に正しいというものでもない。ウィトゲンシュタインが言うのは(そして彼自身が哲学するなかで心がけていたのは)、そのような見方の転換(「アスペクトの閃き」と言っている)を不断に行っていくことの重要性であり、一つのアスペクトにとどまらないように「自分が変わっていく」ことである。このあたりはある意味で自己啓発書みたいだ。でも、20世紀最大の哲学者がなにか深遠なことを言っているというのも一つのアスペクト(=偏見)だし、実は自己啓発っぽいというのも別のアスペクトである。『ゲンロン戦記』にも書かれていたけど、哲学を実践することが、哲学を読むことの意味であり、素人の自分がやれることなのかなと思う。ウィトゲンシュタインの入門書でこんな気持ちになると思わなかったけど、なかなかおもしろいと思った。
最後にちょっと付け加えると、ウィトゲンシュタインの伝記的事実にもわりとページを割いていて、それも抜群におもしろい。彼の人生も、ひたすらに彼の哲学の実践だったのだというのがよくわかる。


沼野雄司『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』(中公新書)

書店で見かけたときに、中公新書だったので岡田暁生の『西洋音楽史』かと思ったら『現代音楽史』だったのでおもしろそうと思ってすぐ買った。
この本は現代音楽のはじまりをシェーンベルク、ストラヴィンスキー、ヴァレーズの話からはじめている。シェーンベルクの無調、ストラヴィンスキーの拍の破壊がとくに重要な点だとされていて、西洋音楽が積み上げてきた形式の破壊が目指された。「現代音楽」と聞くと無調、と何となく思い浮かんでしまうのは、彼らの影響が非常に大きかったということを物語っているように思うのだが、実際に、とくにシェーンベルクは、本書全体を通して参照されつづけていて、現代音楽の原点なんだなあということがわかる。
とはいえ、それ以外にも、現代音楽で試みられてきた方法や枠組み(十二音技法、セリー音楽、社会主義リアリズム、サウンドスケープ、具体音、電子音、引用、コラージュ……etc)はたくさんあって、それが前世代の乗り越えであったり、社会や文化からの影響であったり、音楽内外との緊張関係から生まれてきたことが通史を読むとわかる。読むとわかると言っても音楽の本なので、実際に聴きながら読みすすめるのがベストなのだが、読めば一瞬のところを聴くとモノによっては数時間かかるので、なかなか大変だ。気になるものだけでもちょいちょい聴いていかないとなと思う。音楽の本を読むといつも思うのだが……。
クラシック音楽に連なる「現代音楽」の定義とはそもそもなんだというと、記譜が挙げられている。だが、その記譜自体もひとつの「あの」楽譜の書法以外にもいろんなものが試みられてきたし、メディア(レコードとかCD)に収められたものがすなわち作品というものも出てきているし、近年ではコンピュータ上で書かれるものもあって、そういう意味でポップ・ミュージックなどとの境界線が曖昧になってきているという話もおもしろいなあと思った。


エリック・ホッファー『波止場日記――労働と思索』(みすず書房)

エリック・ホッファーの名前は、荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』とか柿内正午『プルーストを読む生活』で名前が出てきて興味を持った。Wikipediaで見てみると独学の学者(日本でいうと批評家みたいな感じだろうか)で、沖仲士として働きながら文章を書いたり、大学で講義を持っていたそうだ。
副題にあるように日々の労働と思索が主な内容である。仕事のことは淡々と、仕事の内容や一緒に働いた人のことが書かれている。思索に関しては、当時の(ホッファーの生涯のテーマなのかもしれないが)関心なのか、知識人への考察や批判がよく書かれていて、大衆の一人として大衆を分析してきたホッファーとしては、知識人とは対概念のように考えられるべきものなのかもしれない。
時折女性とその息子(「息子」と呼んでいるので妻子と別居してるのかなと思ったが、そうでないと小史にある。名付け親みたいな感じか)の話が書かれて、このときは非常に幸福さがにじみ出るような書きぶりをしているのが、ほっこりする。子供の頃に天涯孤独となり、独立独歩で人生をやってきたホッファーにとってはこの一家とのやりとりが非常に大きな意味を持つものだったのだろうというのがよく分かる。
日記なのだが、時折アフォリズム(箴言)のような言葉がスッと差し込まれていて、緊張感がある。当然いまでも(というか普遍的に)通用するような言葉に溢れていて、ううむと唸りながら付箋を貼ったりした(線を引くのができない質なので、今年から付箋を貼ることにしている)。解説の森達也も引いている次の言葉なんかは、ウッとくる。

自由という大気の中にあって多くを達成する能力の欠けている人々は権力を渇望する。(192頁)


岸政彦『リリアン』(新潮社)

昨年の11月も月に2冊岸政彦の本(ひとつは共著)を読んだが、ふたたびである。こちらは著者3冊目の小説。
表題作はジャズベーシストとして大阪で暮らす男の話。著者自身のことを書いているわけではもちろんないだろうけれど、先に『大阪』を読んでいたからか、大阪がどんな街で、そこで岸がどう暮らしてきたかということがじんわり伝わってくるような気がした。
場面がすうっと変わっていくところや、「恋人」の「美沙さん」との会話が一部を除いてカギカッコもなく続いていくのが、作中で説明され、演奏されるジャズの音楽のようになめらかで心地がよい。
もう一作も、大阪をよく知らない自分からすると、こういう一面もあるんだなというような、なんだかがらんとした印象を受けた。変な意味ではないのだが、「リリアン」も「大阪の西は全部海」も、大阪のだだっ広いところや高いところから大阪を眺める描写があって、それの俯瞰的な視点が、大阪以外のところにもつながるような印象があって、なんだかおもしろかった。