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12月に読み終えた本

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
年末はおとなしく過ごしていた。例年ならコミックマーケットに行って薄い本と薄い紙を高速でやりとりしているところだが、それもない。本を読んだり掃除をするなりしていた。
掃除がてらKindleに移行した漫画を売ろうと思って整理していたら、ぎっくり腰の背中版みたいな症状になってしまい背中が痛い。実は先日、右膝に違和感があるので病院に行ったところ、走り過ぎだと言われてしまい、ジョギングを休んでいるタイミングだったので、またか……と思ってしまった。満身創痍。膝はもう回復してきてるので、年明けからは再開しようかなと思っているが、そもそも身体にガタがきまくっていることが地味につらい。2021年は健康第一でいく。

國分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社)

哲学者の國分功一郎と、医師で「当事者研究」という分野に従事する熊谷晋一郎の対談(講義)録。この講義は國分の『中動態の世界』が出版された後にされており、そこで展開された「意志」概念の見直しを通じて、主に「責任」の概念の検討が議論の内容になっている。
熊谷の従事する「当事者研究」とは、精神障害や依存症の当事者などが、自分は何者なのか、なぜ自分はこれこれこういうことをしてしまったのかを「知る」ための方法論で、同じような境遇の「仲間」とともに、当の行為を「現象」として外在化することであらためて、自分を知り、「責任」を引き受けていく、というようなものらしい。たとえば放火をしてしまって、その自身の行為を引き受けることのできない人がいて、その人が起こした行為、つまり「意志」があるとみなすからと責任を負わせるというのではなくて、自分の過去を知り、対話をしながら、自分から「責任」を引き受けるようになるということである。
「意志」という概念は行為の主体をはっきりさせるものだが、これは國分によると、能動態と受動態の対立によって生まれてきたもので、能動態と中動態で別れる古代ギリシア語では「意志」という概念は存在しなかったという。これは『中動態の世界』で展開される議論だが、この「意志」が無限の因果連関を切断し、行為の帰属を明確にし、「責任」を生じさせるという。しかし、「責任」は必ずしも主体の(ある)行為だけに帰せられるものではなくて、その主体の過去に連なるものから生成される。熊谷の当事者研究と國分の中動態研究が交わるのはここで、主体の「その」行為だけを見るのではなく、過去を知っていくことで、責任が「生成」される。
難しいので全くまとめられている気がしないのだが(読み終わってからざっと書いてるのが悪い、ちゃんとメモれ)、我々が当たり前に思っている「意志」とか「主体」とか「責任」という概念が人類の歴史を通じて当たり前のものではなく、またそれが当事者研究のようなマイノリティの実践の中から解除されていくような議論がされていて、非常におもしろい。こういう概念に苦しめられているとまではいかなくとも、窮屈に感じることがあるならば(自分もそうだ)、読んでみると腑に落ちるところがあるんじゃないかなと思う。國分の『中動態の世界』や『暇と退屈の倫理学』、熊谷の『リハビリの夜』あたりを読み直したいと思った(『リハビリの夜』は引っ越しで手放してしまったのは失敗だった)。熊谷の共同研究者でパートナーの綾屋紗月との本なども読んでみたい。


ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フライデー・ブラック』(駒草出版)

書店をうろついていたら誰かの何かによって選書されていて、気になって買ってみた。ガーナ系アメリカ人による短編集。
正当防衛として黒人5人の殺人が無罪になった白人の事件の報復として、白人を襲う黒人たちと、その動きに距離を取りながらも自身の「ブラックネス」との見つめ合いの中で、次第に報復に巻き込まれていく主人公の物語という重たく陰鬱な話がのっけから書かれていて息を呑む(「フィンケルスティーン5〈ファイブ〉」)。同じように、白人が黒人への「正義の行使」を合法的に行なうことができるテーマパークで働く黒人の話では人種の問題に企業の論理が絡み合う(「ジマー・ランド」)。
BLMにも触れた書店での陳列や帯から、そういう黒人問題が色濃く取り上げられてはいるだろうと思っていたが、表題作の「フライデー・ブラック」では11月末の「ブラック」フライデーセールのショッピングモールでの騒動をめちゃめちゃに戯画化して描いている(解説ではこれをゾンビものと捉えていたが、まさにその通りだ)。そういう意味での「ブラック」ユーモアもかなり皮肉が効いていておもしろい。ちなみにこの本もAmazonのブラックフライデーで買った。
それ以外でもSF的な作品や日本のオタク系コンテンツではおなじみのループもの作品(著者は日本のアニメにも造詣が深いらしい)があったりと、それぞれ違って飽きさせない。いきなり物語の中に放り込まれるような短編小説ならではの魅力が詰まっていて、非常におもしろかった。


東浩紀『ゲンロン戦記――「知の観客」をつくる』(中公新書ラクレ)

ゲンロンが10周年である。僕は学生時代から東浩紀の文章をちょいちょい読んできたが、ちょうどTwitterをはじめたころに東のツイートも注目されることが多くて、そこからはより注目するようになり、未読の過去の著作も読んだりしていた。そのタイミングでゲンロン(当時はコンテクチュアズ)の創設があり、友の会も入り(途中金欠で抜けた年もあったが)、いまも活動に注目している。
本書を読むと、薄々は知っていたが、ゲンロンでの東は完全に経営者という感じで、あらためて驚く。面接をしたり、経理作業をしたり、棚が作られていないことに怒ったりと、既存の著作だけを読んでいたらまったく想像できない。
しかし、そこまでしても東がやりたかったこと、あるいは結果できた(できてしまった)ことは、「誤配」というキーワードを念頭に置くと、一本筋が通るように思う。友の会も、カフェも、スクールも、ツアーも、東浩紀という人が泥臭く人と関わりあうことでたまたま生まれてきたものだ。いや、会社を経営するなんてのはそんなもんだと世の経営者は言うかもしれないが、その通りで、東は自身の哲学の側から経営の偶然性(偶然性の経営?)にたどり着いたのだと思う。その様を見ると、「哲学は生きられなければならない。そして哲学が生きられるためには、だれかが哲学を生きているすがたを見せなければならない」というあとがきの言葉がものすごく響いてくるし、ゲンロンは哲学が、知が生きるための仕組みをずっと作ってきたんだなと思う。これからも応援していきたいし、自分も行きたい=生きたいと思う。
めずらしく語り下ろしの形式なので、非常に読みやすい。けれどもエッセンスは十分に感じられる。東読者だからそう思うのかもしれないが。


山口尚『哲学トレーニングブック――考えることが自由に至るために』(平凡社)

哲学者である著者がnoteで書いていた様々な文章をまとめた本。noteで書かれていた時からちょこちょこと読んでいておもしろいと思っていたので、書籍化すると聞いてすぐに予約した。読むのは少し置いてしまったが。
山口のnoteで印象に残っているのがアル中の哲学者についての文章――読み返したらそのアル中の哲学者(オーウェン・フラナガン)が自身の依存症について書いたことの翻訳だったのだが――で、そのチョイスがおもしろいなと思って興味が湧いた(この文章がはじめてだったのか、元々読んでいたのかは覚えていない)。
この本に取り上げられている文章はどれも読みやすい。というのは、これからその文章のなかで書くことについて、冒頭しっかりと予告され、そしてその通りに書かれるからだ。ある意味論文のような文章だなとも思うのだが、かといってカチッとしすぎているわけでもなく、非常に論がわかりやすい。もちろん内容自体が難しかったりもするのだが。
最後の「私の「分析哲学」についてのノート」で自身の興味や研究対象の変遷や文体の違いについて自己分析がされているが、それがおもしろい。「血で書いたような文章を好む」という言葉通り、冷静な書きぶりに見えながらも、静かに燃えているような文章を彼自身が書いているというのが、非常にかっこいいなあと思う。
あと、自由意志の哲学についての文章がかなり多く含まれているのだが(彼のnoteのIDはfree_willである)、「意志」とか「責任」については上で触れた國分と熊谷の対談本を読んでいたこともあって、興味深かった。


ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』(東京創元社)

1980年、ロラン・バルトが交通事故で死亡する。これは史実だが、この小説は、実はバルトは陰謀に巻き込まれて殺されたのではないかという発想で話が進んでいく。バルト以外にも、フーコー、クリステヴァ、ソレルス、アルチュセール、デリダ、エーコ、サールやヤコブソン……他にも20世紀を代表する哲学者や思想家が続々と登場する。「現代思想」的なものをかじったことのある人ならばいやがおうにも興味を持ってしまう。
小説の内容としては、その陰謀とはどういうもので、なぜバルトは殺されたのかを探るミステリである。思想や批評の用語が散りばめられていてわかりにくいところもあるけれど、タイトルにもあるように、言語の「秘密」をめぐって話が展開しているということがわかれば十分おもしろい。小説で書かれるフランス大統領選(政治)も、地下で行われる「ファイトクラブ」さながらの「ロゴスクラブ」も、言葉をめぐって争われるもので、その争いに勝利するために登場人物みんなが「言語の七番目の機能」を追い求めるという縦横無尽さが魅力的である。