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12月に読み終えた本

気づいたら12月が終わっていた、と思ったら、自動的に2021年も終わっていた。早すぎて書くことがないので、昨年のこの記事に何を書いていたかを見てみる。

なるほど、背中がぎっくりになって、膝も痛めていてジョギングを休んでいたのね。2021年は時々ぎっくり背になっていたのでまあいいとして、脚(ジョギング)に関してはわりと何事もなく、それなりに走れたなあと思う。年明けに買い替えたランニングシューズも、今日(12/30)走った分で走行距離1,000kmを超えて、いい走り納めになった。

まあ「2021年は健康第一でいく」ってのは達成できたということで、良かったのではなかろうか。2022年も健康第一でいきます。

岡室美奈子訳『新訳ベケット戯曲全集1 ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』(白水社)

最近シェイクスピアを読んでいるが、他の戯曲も読んでみたいと思った。そんなわけで、ベケット、『ゴドー』、いってみっかということで読んでみた。迷ったけど、新しい訳がいいなあと思って白水uブックス版ではなくこちらを選んだ。

『ゴドーを待ちながら』は有名なので大体のあらすじは知っていた。そういえば映画の『ドライブ・マイ・カー』でも、主人公がゴドーを演じているシーンが出てくるなと、読みながら思い出した。

ウラジミールとエストラゴンという2人が、来る日も来る日も「ゴドー」を待つが、やってこない。劇中ではポゾーとラッキーという別の2人組がやってきて、これまたいろいろ起こるが、やはりゴドーは来ないし、次の日にはそのことも曖昧な状態になっている。解説でも触れられているとおり、神とか救済、あるいは死を待っているのかというように読めるけれども、一方でそんな劇的なものじゃなくて、これは我々の日常なのかなとも思える。というのも2人がもう待つこと自体にも慣れきって、退屈しのぎなんかをしているのを見ると(読むと)、まあこんなもんだよなとも思ってしまう。たまに何か起きても、ちょっとしたらまたいつものようになるのもそうだ。

ただ、そうは言っても、2人の掛け合いのリズムも良く、コントのようで(実際喜劇だとは思うが)、おもしろい。実際に劇で見たら、身体表現とかも愉快なんだろうなあという気がする。最後のシーン(まさに『ドライブ・マイ・カー』で出てきたシーン)なんて、ドリフみたいだと思う。

『エンドゲーム』は、『ゴドー』よりはるかに難しく、そして殺伐としていて、読んでいて本当に、なんだこれは……となった。読んでいて、これは「何か」があった後の話なのだろうということはわかったが、台詞ややりとりも、正気なのか狂気なのかわからなくて、これ『ゴドー』よりも「不条理」だなあという気持ちでなんとか読み通した。

解説を読むと、第二次大戦後に書かれたことや、核戦争後の世界なのでは、という記述があって、なるほどと思った。ベケット自身もレジスタンス活動をしていたということもあり、戦争という巨大な不条理を通過した結果の作品とも言えるのかも知れない。


國分功一郎・千葉雅也『言語が消滅する前に――「人間らしさ」をいかに取り戻すか?』(幻冬舎新書)

どちらも著書をわりと読んでいる2人の対談集ということで楽しみにしていた。國分の『中動態の世界』と千葉の『勉強の哲学』が出た2017年ごろの対談から収録されているが、どちらの本も読んでいるので背景がわかるのもよかった。

タイトルにもあるように、対談はつねに「言語」をめぐるものになっている。『中動態の世界』も『勉強の哲学』も言語・言葉についての本だし、彼らの興味の一貫したところがよくわかる(彼ら自身もそう話している)。おもしろいと思ったのは、言語が「めんどくさい」ものだと話しているところで(P152)、そういうめんどくささや間接性が忌避されてきていることによって、言語ではなく情動でコミュニケーション(LINEのスタンプとか)をとるようになってしまっていると分析しつつ、そのめんどくささを「我慢」することが重要であり、豊かさにつながる、と言っている。

「勉強」すること、「歴史」を知ること、「時間」をかけてプロセスの中に留まろうとすること。こういうものの価値をいまあらためて言うことは「古臭い」、「保守的」な考え方だと自分たちで言っていたりもするが、でも、やっぱり、たしかにそうだよなと思うことが多かった。月並みな言い方になるけれども、学び、知って、自分が変化すること(生成変化)を非常に大事にしている2人だということがよくわかる。学ぶことはしんどいけれど、そこに行ってみようかなという気持ちになる。


橋本倫史『東京の古本屋』(本の雑誌社)

橋本の前二作(『ドライブイン探訪』『市場界隈』)が非常に良くて、楽しみにしていた。今作は東京の古本屋10軒にそれぞれ3日間密着して取材したもの。11月に『ブックセラーズ・ダイアリー』を読んでいたので、古本つながりでおもしろいなとも思った。

登場する古本屋、そしてその店主やスタッフの人たち、それが本当に文字通り十人十色(十店十色か)で、全然違っていておもしろい。著者の筆致も、古本の仕事にも関係ないようなことまで何気なく拾って書いているのがなんだか生活感じさせて、とても良い。生業というところだろうか。本が大好きな人もいれば、なんとなく業界に飛び込んだ人、家業を継いだ人とさまざま。本が好きだと古本屋に憧れみたいなものを持ってしまうけれども、そういう店主もそうじゃない店主も、いろんな古本(屋)との向き合い方があって、いいなあと思う。

コロナ禍前に取材して、またその後というかたちで再び取材されている店も一部ある。営業自粛への対応もそれぞれで、なるほどと思ったのは、自粛するしないに関わらず、いまはネット販売が非常に重要な要素なんだなということだった。何を今更という感じだけれども、コロナ禍になることによって逆説的に、実際に店舗を構えるとはどういうことかが、店をやる人に問われているのだなというのが非常に伝わってきた。もちろんこれは古本屋に限ったことではないけれど、古本屋はいまや実店舗を持たなくてもできる(そういう店も登場する)ので、この本に登場する店でいろんな反応が見れたのは興味深かった。

とにかく、読んでいて、いいなあ、めっちゃいいなあとつぶやいてしまういい本だった。古本屋にも行きたくなる。


信田さよ子・上間陽子『言葉を失ったあとで』(筑摩書房)

DVなどの専門家でカウンセラーの信田と、教育学者で沖縄の少女たちに聞き取り調査を続ける上間の対談本。上間の著作はいくつか読んでいて、信田のことも知っていたので、気になって買った。

ふたりとも「聞く」ことを仕事にしてきた人だけれども、その方法やスタンスは違っていて、興味深かった。だからこその「言葉」に対する鋭敏さみたいなものが感じ取れる。

また、カウンセリングの場というのがどういうものかわかっていなかったのもあり、「話す」ということの重要性とか効果の大きさとかがしれて、驚いた。オープンダイアローグとか、どんなものなのか入門書でも読んでみたいと思った。


宮澤伊織『裏世界ピクニック7 月の葬送』(ハヤカワ文庫JA)

この巻は、シリーズの一区切りと言ってもいいような重要な巻だった。

主人公・語り手の空魚以外の登場人物にことごとく因縁があり、また「敵」としても存在感が非常にでかい閏間冴月と決着をつけるというのがお話。鳥子や小桜、るなが、それぞれに持つ冴月への想いや執着を解きほぐしていって、「葬式」をする。いつもの裏世界での騒動のように危険になりつつも、どこか寂しさがにじむような筋になっていて、しみじみ読んでおもしろかった。

作中で、空魚が実話怪談を文化人類学として研究するために大学のゼミで指導教授や学生と話すシーンがある。ここで文化人類学が、かつて「未開」の部族などを調査対象として、西洋近代の「合理性」の枠組みで捉えるという話が出てくる(その後にその批判も出てくるという、文化人類学の歴史の説明がある)。今回の巻の冴月の「葬式」は、この空魚の「合理性」でもって「裏世界」を解釈するというような「文化人類学的枠組み」がことのほか見えたような気がして、おもしろかった。

これを読んでて思い出したのは『虚構推理』で、怪異とか異能に対して合理的に理屈付けしていくところなんかが、その手付きっぽいなあとなんとなく思った。裏世界が見せつけてくる「冴月」を「上書き」してやろうという発想が、合理不合理、条理不条理ないまぜにしている感じで、おもしろいなあと思った。